騎士様だね、京介君
「で、こっちが理科室。人体模型が夜中に歩き出すっていう噂があるわ」
「あはは、それ私が小学校の時もあったよ。全国共通なのかな、そういう噂話って」
「トイレの花子さんとかね」
「あるある! あと、大学受験に失敗した女の子が屋上から身を投げて、夜な夜な黒板を爪で引っ掻いてるとか」
「なにそれ初めて聞いたわ……」
緋夏は時生と他愛もない話をしながら校舎を歩いていた。
本来なら昼休みに校舎の案内をするつもりだったが、予想通り人が集ってきてしまったため、京介と時生を助けるために止むなく短い休み時間に連れ出したのだった。
京介は無事だろうか?
校舎を案内している間中、ずっと、京介のことが頭の片隅から離れなかった。
「あ。ここが美術室よ。その隣が美術の準備室」
緋夏は足を止め、美術室の扉を指指した。と、時生が何かに気づき、準備室の扉に手をかけた。
「ちょ、ちょっと烏丸さん」
「ん? 先生がいらっしゃるみたいだから挨拶しようかなって」
「待って。うちの美術の先生は──」
「失礼しまーす!」
緋夏の言葉も聞かず、扉を開ける時生。
部屋はカーテンが締め切られ、薄暗く、空気も淀んで埃っぽい。
いくつかの石膏像と大量のキャンバスとイーゼル、無造作にプリント類の突っ込まれたスチールラック、奥には机が1つと横には小さい棚、その棚にはプリンターが置かれているが、その上にも何らかの紙類が大量に積み上げられている。それらが4畳程の狭い部屋の中に詰め込まれており、お世辞にも、清潔感があるとは言えない状態になっている。
その狭い部屋の奥、机の前に誰かがいる。木製の椅子に座って黙々とキャンバスに何かを描いているようだ。
「えっと……あの。はじめまして! 今日転校してきました烏丸時生と申します!」
時生が挨拶すると、少しの間の後、その人物はぬるっとした動きで僅かに彼女に顔を向けた。
歳は50代前半だろうか。なんだ沼泥の奥底から這い上がってきたかのような陰鬱とした雰囲気で、その目は淀み、光を感じられずとても不気味だ。
体型は痩せ型で身長も高めで、よく見ると整った顔をしている。だが肩まで伸ばした──いや、恐らく、放置して伸びただけなのだろう髪と生気のない沼地のような目が、彼をただただ不気味に感じさせている。
「ああ……話は聞いている……」
「これからよろしくお願いします」
にっこりと時生が微笑む。
すると相手の教師は無言のままじっと、足先から頭のてっぺんまで品定めするようにじろじろと眺め、そして、ゆっくりと近づいてきた。
なんだか気味が悪いな、と思ったものの、そんなことを考えるのは失礼だと、時生はスッと手を差し出した。
そんな二人を緋夏は不安げに見守っている。
「美術教師の沼田優吾だ。よろしく……」
沼田はそっと時生の手を取る。
だが彼の視線は最初こそ時生の目を見ていたものの、すぐにまた足先へと移動し、そしてゆっくりと、上へと移動。スカートからのぞく太ももをじっと見つめ……いやその視線はもはや【観察】と言ったほうがいいだろうか……彼女の下半身を遠慮もなく眺め回し、今度は体のラインを確かめるように視線を這わせた。
これにはさすがの時生も気持ち悪さを隠しきれずに顔を引きつらせてしまった。だが手を離そうとするも沼田にしっかりと握りこまれていて腕を引くこともできなかった。
「あの、沼田先生。もうよろしいでしょうか?」
緋夏が沼田の腕を軽く掴み、引き離そうとする。
「ああ、すまないね……」
分厚い眼鏡をクイと押し上げ、ようやく、名残惜しそうに手を離した。
なんだか気味が悪い。
時生は彼の顔を見ることが耐えられなくなり、視線を部屋の奥へと移した。
そこには彼の描いたものらしき絵が何枚か無造作に置かれており、そして、そこに描かれている絵を見て時生は更に彼に対する拒否感を募らせたのだった。
そこには歳は十代半ばくらいの少女が半裸で座り込み虚ろにこちらを見つめる姿があった。
家で描くのならまだわかる。
だごここは学校で、同じくらいの歳の少女が沢山いる環境だ。
しかも美術準備室なんて生徒が出入りする場所で、確実に、目に触れてしまうはずだ。なのに彼はそれを隠そうともせずに、まるでインテリアかのような感覚で放置している。
「行きましょう、烏丸さん」
「あ、う、うん……」
「……失礼しました」
緋夏は時生の腕を掴んで強引に廊下に連れ出し、すぐに美術準備室を離れた。
「あんまりあの先生には近づかない方がいいわよ。いい噂も聞かないしね」
「う、うん……えと、あんまり見た目で判断はしたくないけど……でも……」
「見た目の問題じゃないのよ。見たでしょう、あの絵。校長先生や他の先生も注意してるけど描くのをやめないらしいの」
「もしかしてセクハラとかも……?」
「……まあ、これはあくまで噂でしかないのだけど。一部の女子はあの先生に無理やり絵のモデルにさせられて、それで、その、まあ……肉体関係的な?」
「ええっ? 待ってそれ犯罪だよ、なんで学校は何もしないの!?」
「私もまだ詳しくは知らないし、何より噂の域を出ない話なのよ。もしかしたら見た目のせいでそういう噂が広がっただけかもしれないわ。さすがにそんな噂を学校側が問題視しないはずもないし、既に調査した後で噂だけが残っているのかもね」
「見た目……確かに少し沼の主的な感じはあったね」
顎に手を当て、名探偵のような真剣な顔をする時生。
「でも貴方を見るあの目はやっぱり普通ではなかったわよ」
「うーん。でも見た目で判断するのはやっぱりよくないのかもなあ」
「まあ実害が出てるわけではないし……とはいえ、警戒するに超したことはないと思うわ」
「うーん、そうだね……」
時生はチラリと美術準備室を振り返った。
確かに彼は気味が悪かった。
だがそれは見た目だけの話かもしれないし、本質はまた違うのかもしれない。とは思ったものの、彼の視線やキャンバスに描かれた虚ろな眼差しの少女が、その考えを否定してくる。
このことはあまり深く考えないほうがいいのかもしれない、時生は彼のことは忘れることにして、美術準備室に背を向けた。
そうして彼女達は去り、一方の沼田は鼻先がくっつきそうな程キャンバスに顔を近づけ、目を血走らせながら絵の具を乗せていた。
制服姿の半裸の少女がキャンバスの上で沼田を見つめている。その目に輝きはなく、心さえも感じられない。
けれど少女は口元に薄く笑みを浮かべ、艷やかにぷっくりと膨らんだ唇からは今にも愛を囁きそうな生々しさが感じられる。
沼田は鼻息を荒く乳房に色を重ねながら、少女に語りかける。
「美しい……。もっと、もっと、君の愛で私を包み込んでおくれ……」
★
「あれ。きょ……阿賀波君は?」
教室に戻るとすぐに、京介がいないことに気がついた。
もう授業が始まるというのにどこへ行ったのだろう、時生と緋夏は心配そうに眉をひそめて七瀬と正木を見た。
「ああ、阿賀波なら保健室で寝てるよ。体調崩したみたいでさ」
七瀬は頬杖をついて緋夏の方を見る。
「そう。相変わらず体が弱いんだから。ちゃんとご飯食べてるのかしら」
「んあー、そういや委員長と阿賀波って幼馴染なんだっけ?」
「へえ、そんなんだ! なんか、そういうの羨ましい!」
「違うわよ。小学校から一緒のクラスってだけよ。それも小六で初めて同じクラスになったの。幼馴染とは違うわ」
「へえ。小学生の阿賀波君てどんな子だったの?」
「どんな……そうね、今とあまり変わりない子供だったわよ。でも……」
と緋夏はほんのり頬を赤らめて顔を伏せた。
「臆病なのに、妙なところで強い子供だったわ。掃除をサボってる男子を注意したことがあったのだけど、それが気に入らなかったらしくウザいだのなんだの暴言吐かれちゃってね。女子も男子も誰も助けてくれなかったのに、阿賀波君だけが私を守ってくれたの。自分だってイジメられるかもしれないのに」
「アイツやっぱかっこいいなぁ」
「うむ。なかなかできることではないな」
正木は眼鏡をクイと押し上げた。
「うん! なんだか騎士様みたいでかっこいいね」
「き、騎士様?」
「うん。お姫様を護る騎士様だよ。緋夏ちゃんはお姫様だね」
「な、なに言ってるの。お姫さまなんかじゃないわよ」
緋夏は照れてプイと顔を逸らした。
「それよりもう授業始まるわよ」
と緋夏は席に着いた。
「阿賀波君大丈夫かなあ。様子見に行っちゃだめかな」
「いいって、少し休んだらすぐ戻るって言ってたし。神滝先生……保健室の先生もいてくれるし、大丈夫だって」
「そっか……わかった」
そうは言ったものの、やっぱり少し心配だ。時生はこっそりスマホを取り出し、京介にメッセージを送ってみた。
『京介君、体調崩したって聞いたけど大丈夫?』
『ありがとう。ちょっと目眩がしただけだから大丈夫だよ。次の時間には戻るよ』
『わかった。ゆっくり寝ててね。授業終わったら迎えに行くから!』
『大丈夫だよ、心配しなくても一人で帰れるからっ』
『いいから、遠慮しないの。言ったよね? 遠慮せずに甘えていいって。お姉ちゃんと思って、存分に甘えて頼ってちょうだいな』
『だからお姉ちゃんはおかしいって……』
『とにかく! 迎えに行くまで待っててね。それじゃ、もう授業始まるから。ばいばーい』
「だからお姉ちゃんは無いって……」
京介はため息をついてスマホを伏せた。
授業が始まり廊下も静かになり、部屋も物音一つなく、窓の向こうから体育の授業を受ける生徒達の元気な声が聞こえてくるだけだ。
そんな声を遠くに聞きながら横になっていると、やがて、うとうとと心地よい眠りに誘われた。
「京介、京介……」
温かく柔らかい感触が頬を撫でる。
懐かしい声。懐かしい温もり。
遠い昔、それは無条件で与えられていた。けれどある日突然、それはけして届くはずのない場所に行ってしまった。
どれだけ泣いても叫んでも戻らないのだと子供心に悟り、だから手を伸ばすこともしなかった。それはもう二度と触れることもできず、手に入れることはできないものだから。
「……母さん……?」
色白で華奢で儚げだけれど、瞳の奥に強い光を宿した女性が、そっと京介の頬に手を触れている。
懐かしい。
温かい。
また、彼女に抱きしめてほしい。
あの頃のように、優しく抱きしめて、怖くないよと、大丈夫だよと言ってほしい。
「母さん……」
母を求めて両腕を伸ばし、彼女の細い体に手を回して抱き寄せた。
「きょ、京介君っ」
「ん……」
柔らかな感触と仄かな甘い香りが心地よい。
ずっとずっと、こうしていたい。京介は柔らかな感触にすりすりと頬ずりし、うっとりしていた。
「京介君、起きて京介君」
「ん……?」
「大丈夫? まだしんどい?」
「んん……?」
時生の声に起こされて、徐々に覚醒していく京介。
そしてハッキリと目を覚ました時、彼は、ようやく自分の状況に気づくのだった。
そう、時生を抱き寄せ、彼女の胸に顔を埋めて頬ずりしていることに。
「っぶあああああ! ごごごごめごめごめん!」
時生を引き剥がして跳ね起き、彼女に背を向けて四つん這いであたふた逃げ出す京介。が、ここはベッドの上である。
京介は勢い良くベッドから転落し、「んごふぁあ!」などという間抜けな悲鳴を上げるのだった。
腰をさすりながらベッドを振り返ると、時生が心配そうに京介を見ていた。
「京介君、大丈夫っ?」
「ご、ごめん大丈夫だよ……ていうかごめん、僕、とんでもないことを」
立ち上がり、時生の方に向き直る。
「ううん、気にしないで。遠慮なく頼って甘えていいよって約束だもん。気にしないよ」
「いや、でも」
「もー、京介君は気にし過ぎなんだよ」
時生はクスクス笑って京介の手を取り、ベッドに促す。
京介がベッドの上に戻ると、時生は彼の頭を優しく撫でながら、
「よしよし、いい子いい子。京介君はなんにも気にする必要なんてないからね」
優しい言葉をかけてくれた。
これは姉と弟というより母親と子供の関係じゃないだろうか? と京介は思った。すると、
「すごい声したけど大丈夫っ?」
晶が勢い良くカーテンを開け放った。
そして二人の様子を見て一言、
「ふふ、なんだかワンちゃんと飼い主みたいだね」
悪気もなくそう言って笑うのだった。
確かに京介はベッドにぺたんと座り込んで両手をついていて、時生はそんな彼の頭をにこにこしながら撫でており、傍から見たらそう見えなくもないのかもしれないが……
「ぺ、ペット扱い……」
「うーん、お姉ちゃんと弟のはずなんですけどねえ」
時生はちょっと不満そうに口先を尖らせた。
「そっかあ。お姉ちゃんできてよかったねえ阿賀波君。もうおうちでも寂しくないね」
「寂しくはないですけど、やっぱりお姉ちゃんはおかしいような」
「そんなことないよ! 私達はもう家族なんだよ、ひとつ屋根の下で暮らしてるんだよ、つまり姉と弟なんだよ」
「そ、そうなのかなあ……」
納得しかねるものの、時生は自分が姉であることを譲る気はない様子だ。頑固に否定する理由もないので、彼女がそうしたいのならそれでいいだろう──京介はそう思った。
するとベッド横のカーテンが静かに開き、七瀬と正木が姿を見せた。
「え……どゆこと? お前ら一緒に暮らしてんの?」
「なるほど破廉恥だ。詳しく聞かせてくれると助かるな」
正木が眼鏡をクイと押し上げる。
「うわああああ!」
「にゃあ! な、七瀬君と……正木君っ? なんでここに!」
「いや、阿賀波を迎えに来たんだけど。授業終わった瞬間烏丸さん飛び出してったからさ、今日会ったばっかなのにやけに気にしてんなーとは思ってたんだけど。あー、烏丸さんて再婚相手の連れ子ってこと?」
「実にけしからん、破廉恥だ。参考のためにどんなスケベが起きたか詳しく聞かせてくれたまえ」
正木はどこからかノートをペンを取り出し、ベテラン刑事さながらの面持ちで質問してくる。
「正木君は何を言っているの⁉」
「あの。ごめんね二人とも。この事は他のみんなには内緒にしててくれるかな? 他の先生は事情を知ってるんだけど、混乱を防ぐためにも生徒には黙ってようねってことになってるんだ」
晶がちょっと困った顔をしながら人差し指をそっと唇に添える。
「なるほど。これは神滝先生と秘密の関係というわけか」
「うん、私達だけの秘密。ね? 七瀬君もいいかな」
「え、ええ。もちろんですよ、誰にも言わないですって」
「ありがとう。さすが七瀬君だね」
「まあ俺と阿賀波は友達ですしね」
照れ臭そうに後頭部を掻く七瀬。
友達、と言われて京介は面食らう。
「いいお友達ができてよかったね、阿賀波君」
「いや、えっと、僕達は別に」
「帰るぞ阿賀波」
何故か正木が言葉を遮った。
「あ、うん……」
なんで遮られたのかわからなかったが、あまり深く追求することでもないだろうと思い特に何も聞かなかった。
「よし、んじゃ帰るか」
七瀬が元気に二カッと笑った。
保健室を出ると、七瀬はあからさまに上機嫌になって鼻歌を歌い始めた。
「晶先生と秘密の関係かあ……ふふ……」
「いや、俺達と他の教師も全員知ってることだぞ」
「わ、わかってるよそんくらい」
七瀬にとって、些細なことでも晶と何かを共有しているという事実は、鼻歌を歌うくらい嬉しいことなのだろう。
前を歩く七瀬の姿を見ながら、
「七瀬君は神滝先生のことが好きなのかな」
時生がこっそり京介に聞いてきた。
「うぇ!? や、それはどーかなー」
「わかりやすいね、七瀬君も京介君も」
「ちょ、待って! 秘密だから、このこと絶対秘密だから!」
「わかってるよ。誰にも言わないよ。けど、確かに神滝先生ってモテそうだよね」
「あー、うん。女子もだけど、特に男子生徒には凄い好かれてるみたい。教室でもよく話ししてるの聞こえてくるし」
「へえー。素敵な先生なんだね。私も今度ちゃんとお話してみようかな」
「うん。色々相談に乗ってくれると思うよ」
そんな話をしながら二人は歩いていた。
だがそんな二人を……いや、時生の姿を沼田が離れた場所からじっと見つめていることに二人は気づかない。
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