第9話:異変

「お前ら、無事だったか! 良かったよ~。パッドにも出ないし心配してたんだぜ! あれから美由紀さんには『あんたたち片付けに来たの? それとも散らかしに来たの?』なんて怒られるしさ。警察に通報してもまともに取り合ってもくれないし……」

翌朝、僕とツカサが登校すると真っ先にヒロミチ、ハルミ、榎原が近寄ってきた。

彼らは次々に質問を浴びせながらも僕たちの無事を喜んでくれた。

みんな本気で心配してくれていたみたいだ。

だが当事者たちを除くと翌日の学校は何事もなかったかのように普段通りだった。

「とにかく無事で良かったよ! そういやあのクマ、あれからどうなったんだ?」

ヒロミチが好奇心に満ちた目で聞いてくる。

「あっああ。いつのまにかどこかに消えていたよ」

「えっ、コワッ! まだどこかでうろついてるってことか?」

「とっ、ところでメイは?」

「まだ来てない。昨日ぶっ倒れたから、大事を取って病院に行ってるんだと思う」

「そうか……」

彼女をつかまえて真っ先に話を聞こうと思っていたんだけど、出鼻をくじかれた。

最悪、メイがいなくても大学の研究棟に行って美由紀さんに会うこともできる。場合によっては彼女に相談してみるのも手だろう。早速、ツカサに聞いてみた。

「そうね……いや、今は彼女に接触しないほうがいいと思う」

「なんで?」

「彼女もまた教授側の人間だし、今はまだ君の状況を知られないほうが懸命だと思う」

「だけどこのまま放置も困るよ」

「不安な気持ちはわかるよ。けど教授の研究には複数の組織が興味を示しているし、中にはアンチもいるのは昨日話した通りよ。実際、工作員や実働隊を使って介入もしてきているし。今はあまり目立った行為はしない方がいいと思う」

なんということだ! この研究の当事者を主導している教授に話が聞けないとは! でも確かに斬山の言うことにも一理あるかもしれない。研究対象として確保されて、パーツ単位で解剖されたらたまったものではない。



メイは午後から登校して来た。見た目は特に問題なさそうだ。

メイは自分の席に向かう途中、僕の横を通り過ぎるときに誰にも見られないよう小さく折りたたんだ紙片をそっと机に置いていった。

それを手のヒラで覆い隠すようにして開くと“放課後、校舎裏で待っています”と、走り書きされていた。

まるで告白のための呼び出しみたいな文面だが、そんなわけはない。

だが、僕的には待ち人来たるの心情に違いなかった。

席に着いた彼女が一瞬こちらを向いたとき、僕は了解の意味を込めて目に力を込めて合図を送った。が、彼女は慌てて視線を逸らした。そんなに険しい表情をしていたのだろうか。とにかく今は放課後まで平静さを保って辛抱強く待つことが肝要だった。


 だが、油断していた。甘すぎだった。

僕も斬山もクロパンダの襲撃を予期していないわけではなかった。が、まさか昨日の今日で、しかも学校内に出現するとは思っても見なかったのだ。

ヤツは人のまばらになった放課後の校舎内にやすやすと侵入し、偶然か待ち伏せかはわからないが、確実に僕、一人のところを狙ってきた。

メイとの待ち合わせのことしか頭になかった僕は完全に不意を突かれた。

階段に身を潜めていたクロパンダの猛タックルをマトモに食らい、僕はまたもや弾き飛ばされた! 女子トイレのドアを派手に破壊して、タイルの床に投げ出されたとき、もはや逃げ場がない場所に追い詰められたことを悟った。

ヤツはトイレの入り口で勝ち誇ったように立ちふさがり、こちらの退路を断っている。

ならば個室に退避するのはどうか?

ダメだ。

ヤツの鋭利な爪の前では木製のドアなどひとたまりもないだろう。

進退極まった。万事休す……はっ! 個室が一つ閉まっている! 誰かが中にいる? いけない! このまま何も知らずに出て来てしまったら、無関係な女生徒を巻き込んでしまう。うまくこの危険な状況を知らせて外部に連絡をつけてもらう方法はないだろうか!

クロパンダへの牽制の意味も込めて僕は叫んだ! 個室内の彼女に危機的状況がうまく伝わればいいのだが。

「やめろー! 人殺し! こっちに来るな!」

その時、僕の意に反して個室のドアが開き、中から女生徒が出てきてしまった。

「だめだ! 今、出てきちゃ! 早く戻って……」

ゴージャスな巻き髪をリボンで束ね、バストの下で腕組みしてツンと立つ彼女の姿に見覚えがある! いつぞや屋上で会った綾瀬川レイカだった。彼女の登場はいつも少し間が悪い。

「早く中に戻って! 警察に通報して!」

「なんです? 騒々しい! いったい、ここをどこだと思っているんです?」

「今すぐ個室に戻ってドアを閉めて!」

「あなたね! 女子トイレで何をふざけているんですか! 先生を呼びますよ!」

「いやっ、危ないヤツがいるんだよ!」

「アブないのは、女子トイレで騒ぐあなたじゃなくって?」

そんなことを言っている場合ではない!

「そんなことより、後ろ……」

このやり取りを待つはずもなく突進してきたクロパンダの凶爪がレイカを背後から襲う!

鮮血が吹き上がり、血だまりに崩れ落ちる彼女のビジョンが脳裏に浮かんだ!

が、そうはならなかった。

襲撃したクロパンダは逆にレイカの後ろ回し蹴りのクリーンヒットを側頭部に受け、個室の中に頭から吹っ飛んでいった。身体半分は個室の外にはみ出ている。

「私を背後から襲うなんて笑止千万! ヘソが茶を沸かしますわ!」

レイカは個室の間仕切りに手を掛けて、天井との隙間から滑り込み、直上から華麗なダイブを見舞った!

一体、何がどうなった! 中を覗き込むと後頭部をレイカに踏みつけられて顔を便器内に沈めてもがくクロパンダの無残な姿があった。 着ぐるみから解放されようと躍起になって暴れ、背中のジッパーから中の人が出てこようとしている。

「あらっ! 子供の夢を壊すような無粋な真似はおやめになって」

レイカは冷徹な笑みを浮かべて、中の人を押し戻し、丁寧にジッパーを引き上げた。

「まあっ! 私としたことが、おトイレを流していなかったわ!」

もしそれが本当だとしたら。聞き捨てならない問題発言をさらっと口にしながら、水洗のコックをひねるレイカ。

ザー!

「ガバッ、ゴホッ、ゲホッ!」

追い攻撃? ハメ技? 一方的に攻め続ける今のレイカが動物愛護団体に目撃されたら間違いなく提訴されるレベルだ。何だか凄惨なイジメの現場を見ているようでいたたまれくなった。

(もう堪忍、堪忍してあげて!)とボクは心の中で訴えていた。彼女は最強にして最凶だった。

「ケント君! 無事?」

この悲惨な現場に斬山ツカサが飛び込んできた。

「クロパンダが!」

「分かってる! 行こう!」

「でも、レイカが!」

「彼女は放っておいて大丈夫!」

「でも、クロパンダがっ!」

「それも放っておいて大丈夫! さあメイが待ってるわ」

「そうだ、メイ! 彼女に会わないと!」

僕は差し出された斬山の手につかまり立ち上がった。


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 「さあ! 服を全部脱いでベッドに横になって」

片平メイは医療用の手袋をはめてパチッと手首を鳴らす。

「へっ!?」

僕と片平メイはツカサの誘導に従って、ツカサのマンションにいた。僕にとっては今朝、ここから学校へ出かけて行ったばかりだったので他人の家であるにもかかわらず概視感(デジャヴュー)が残っている。

「全身のチェックをするから、パンツもね」

さらりとビックリするようなことを言いはなつメイ。

「ええ? なな、何でパンツも? ムリムリムリムリ クラスメイトの、しかも女子の前でなんて!」

「大丈夫! こう見えても私は科学者の端くれだから! 安心して!」

心なしか興奮して声が上ずっているように聞こえる。

「いやいやいやっ! そういうことじゃなくて! 安心できないって! ツカサ! なんか言ってくれ!」

「……彼女を信用していいと思う」

「……違うでしょ! 僕のプライバシーの問題でしょ? 守ってくれるって言ったよね!」

「もちろん! 守秘義務はちゃんと守るわ」

「そんな事務的に言われても!」

「全ての科学は、観察と犠牲から始まるのよ! さあ、覚悟を決めて早く脱いじゃって! コトが進まないから!」

「メ、メイ、そんなアニメ声で言われたって無理なものは、無理だって!」

「さっ、パッと脱いですませちゃお!」

両手をニギニギしながら近づいてくるメイ。

「ななっ、なんで、ツカサまで?」

「それは……ホラ! 君は私の監視対象だから」

「まるで、『いっしょにトイレ行く?』、『行く行くー!』

みたいなカルいノリで言わないでくれ!」

「いいから、さあ!」

“いやああぁー”

僕の悲鳴はこの部屋以外の誰にも届くことはなかった。


{外見上、異常はないわね。あとは検体の検査結果待ち」

 コトが済んだあと、シーツを肩からはおってベッドのフチに座り放心状態の僕に、やりすぎたことを反省したツカサは温かいコーヒーを入れて慰めてくれた。きっと今の僕は怯えた仔犬のような目をしていたに違いない。だが、全てをさらけ出した今、もはやプライドも何もかも吹っ飛んだ僕に、失うものなど何もなかった。ヒトはこうした精神的極限状態のことをこのように呼ぶ。“無敵である”と。


 「やはり、NXRウイルスは活性化している。95%以上のDNAがその影響下にあるみたいね」

メイが簡易的な分析機材を片付けながら告知した。

僕はその謎ウイルスについて改めてメイに聞いた。

人類進化の試薬。やはり彼女の口からもこの言葉が語られたが、関わっていたパートはほんの表層的な部分に過ぎないとのことで、具体的なポテンシャルがどのようなものなのかは小笠原教授しか分からないとのことだった。今さらそんな得体の知れない試薬に対するずさんな管理を責めてみても何の解決にもならないだろう。何かあった時に最大限、手を尽くすことを彼女に約束してもらうだけで精一杯だった。やはり小笠原教授を早く探さないと根本的な解決にはならないようだ。

「このまま何も起きないことを祈るだけだなんて……」

「そうね、確かに……」

「メイ! 何で目を伏せてんの?」

「いやっ、でも、何があっても見捨てない! せめてもの罪滅ぼしとして、最後までケント君がどうなっていくのか観察し続けたいから」

メイのメガネがキラッと光る。心の声がダダ漏れだった。

「はあ、なんか嬉しそう……それ、罪滅ぼしって言わないんじゃ……」

「でもケント君に迷惑をかけてしまったのは私のせいだわ。謝って済むとは思ってないけれど、ほんと、ごめんなさい」

「まて、メイ! ここで謝られてもかえって不安な気持ちになるだけだから! とにかく何もなければいいから!」

「さっ、一段落したところでコーヒーブレイクしよう。ケント君も、もう一杯どう? ケーキもあるよ」

斬山が場を和まそうとお茶の提案をする。

「全く、メイのドジっぶりには参ったよ」

「てへっ」

「メイ、ほめてない」

「ケント君、メンタル強いのね」

ツカサがメイにコーヒーを注ぎながらいう。

「そういえば、なんだか急にお腹が減ってきたよ」

ツカサは僕のリクエストに応えて大量の具材を投入したてんこ盛りチャーハンを作ってくれた。

「はい、いっぱい食べてね!」

僕はケーキを平らげた後にもかかわらず、チャーハンをむさぼるように食べた。まるで栄養を必死にため込む冬眠前のクマ? のように。

「あれ?」

ゾクゾク!

「今度はどうしたの? 食べ過ぎた?」

「なんだか、急に寒気がしてきた……」

「大丈夫? ケント君? ちょっと顔色悪いかも。寒いならお風呂に浸かって温まってみるのはどう?」

「あ、ああ。そうさせてもらおうかな……」

体の変調に戸惑いつつ、ボクは斬山の勧めに素直に従って、リビング脇の浴室を使わせてもらうことにした。


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 兼井ケントが浴室に入ってから、斬山ツカサと二人で部屋に残された片平メイは何となく気まずい空気の中で過ごしていた。もうすでに何度かグループで遊んではいるが、もともと彼女は人とのコミュニケーションが得意ではないからだ。彼がお風呂から帰ってくるまで、間を持たそうと何か話題になりそうなことはないか考えていた。だが、相手の意向にかかわらず、いったん気になったことを口に出さずにいることも苦手だった。

「あの、斬山さん、いまさらかもですけど……、ケント君との組み合わせって、珍しくないですか? 二人ともあまりヒトと関わり合いを持ちたがらないと思ってたから、ちょっと、意外というか……」

メイは思い切って沈黙を破った。

「私とケント君のこと? いや、ただの成り行きというか……」

「もしかして、二人、付き合ってる、とか……」

「ううん。ナイナイ、それはない! 学校の外で会ったのだって、メイやみんなと同じだし」

「斬山さん、私、あなたのことちょっと誤解してた。だって、この前、現代社会の授業中……もっとこう……コワい人かと思ってた」

「ああ、あのこと……」

斬山の脳裏に苦い思い出が蘇る。


 「……HQ……HQよりK-2! 聞こえるか?」

「こちらK-2、斬山」

斬山のインカムに司令部より緊急入電が入った。

「第4種事案進行中。対処されたし」

「今、授業中。HQ、詳細を乞う」

「敵の注意を引きつけてくれればいい」

「敵? どうやって?」

「陽動だ。なんでもいいから騒ぎを起こせばいい!」

「ちょっ、ちょっと! なんでもって、そんな任務はA-10のほうが適任では……」

「ナウ!」

ガタッ!

斬山はバネに弾かれたように突然立ち上がり、頭が真っ白になりかけたその場で咄嗟に思いついた質問を先生に投げかけた。

「せっ、先生! 現政権のあり方についてどう思われますか?」

「何ですか斬山さん? 急に立ち上がったりして」

「でっ、ですから国の危機的状況をただ放置して国民の声をスルーしている現政権についてどう思われますか? 先生のご意見をお聞かせください」

「現政権を国家の代表として選んだのは、有権者である国民です。そして今は授業中だから茶化さないで授業に集中して!」

「茶化してなんかいません! だいたいなんの成果もないのに仲良し人事の政党とかありえなくないですか?」

と、斬山は語気を強める。敵の注意を引き付けておくにも度合いや対象が全く分からない。

「国会答弁においても、肝心のことをはぐらかしたりして、だいたい民意を軽視し過ぎていると思いませんか? お金と権力の既得権にまみれて、やりたい放題の政治家を許してはいけないと思います!」

と、ひとまずまくし立ててみた。

その時、斬山のインカムに再び司令部より入電する。

「こちらHQ。目的は達せられた。対象への脅威は排除した。通常モードに移行せよ。K-2、聞こえるか? K-2!」

(はい、そうですかと簡単に止められる訳ないでしょう! これじゃあ、私はただの変なヒトだよ~~)

と心の中で泣きたい気持ちでいっぱいの斬山だったが、ブレーキのかけどころが見つからず、結果的に暴走する彼女を制止したのは授業終了の合図を示すチャイムだった。

だが、この件を境にして彼女に対し、特に容姿に惹かれて過剰に好意を示す男子に冷や水を浴びせ、必要以上の注目から遠ざける効果は十分にあった。

司令部の目的が何だったにせよ、これによってクラスメイトと一定の距離を保ち、以後のミッションがやりやすくなったことは事実であった。

なんてことを苦々しく思い出しながら、回想から戻ってきた斬山が今度はメイに質問する番だった。

 「メイはどうして小笠原教授のNXRプロジェクトに参加することになったの?」

「えっ? 斬山さんがどうして、いえ、どこでプロジェクトのことを? あなた……ううん、いいわ」

彼女は少しためらうように小声で話し始めた。

「彼は、小笠原は私のパパ、実の父なの……今は育ててくれた母方の祖父母の片平姓を名乗っているけど」

「パパ? お父さん?……」

「私には昔、とても仲の良かった双子の姉がいたの」

「昔、いたって?」

「うん。当時どちらから言い出したのかはもう忘れちゃったけど、大きくなったら2人で美人姉妹理系女になって、あー、美人は余計か……パパの研究をいっしょに手伝おうって約束してたの」

「続けて!」

「うっうん。コホン! じゃあ改めて。ある日、パパの研究室に遊びに行く途中でママと私たち姉妹は交通事故に巻き込まれたの。後から聞いた話だと相手は端末操作によるよそ見運転が原因だったとか……救急搬送された病院では私たち親子のためにあらゆる手を尽くしてくれたらしいけど、その甲斐もなくママが亡くなり、お姉ちゃんと私は瀕死の状態でICUに入れられたの。その時のことはよく覚えていないんだけど、不思議なことにぼんやりした頭の中でお姉ちゃんの顔が浮かんでいたの。

でも、もうその時、お姉ちゃんは脳死状態に陥っていて……そして私にも多臓器不全による死が刻々と迫っていた。ドクターはパパに残酷な決断を求めたわ。そしてパパは選択した。パパの苦渋の決断によって私の損傷した臓器の代わりにお姉ちゃんの臓器が移植されたの。おかげで私は生き残ることができた。でもお姉ちゃんとママを同時に失ったショックと苦しみは残された私たち家族に大きな傷跡を残していったわ。……その苦しみを埋めるためにパパは昼夜を問わず研究にのめりこんでいったんじゃないかな。その時の私はこのままパパに見捨てられるんじゃないかと思って怖かった。だから私も必死に勉強したわ。天国にいるお姉ちゃんの分もがんばってパパに認めてもらわなくちゃって思って……」

「そっか、偉いのねメイ……ゴメン、思い出させてしまって……」

「いやいや、むかーしむかしのお話しじゃったとさ」

メイはこれ以上暗い雰囲気にならないように気丈におどけてみせた。

「それにしても、ケント君、お風呂長いね。大丈夫かな? のぼせてないかな?」

ツカサとメイは、浴室の扉を振り返った。

 「ケント君、大丈夫? 長湯は体に毒よ! 出てきたらみんなで今後のプランを考えましょう。ケント君? 聞こえる?」

あまりの長湯に心配したツカサは、浴室の外からケントに声をかけてみるが返事がない。異常事態を察知した彼女は、やむを得ず浴室の扉を開けてみることにした。

「ゴメン! ケント君、開けるね」

ツカサはバスタブの中で体育座りの格好で半分湯につかりながら硬直したケントを発見し、心拍数が跳ね上がる!

「ケント君! 返事をして! いったい、どうしちゃったの?」

必死に呼びかけるも反応が全くない!

「ケントくん!」

パニックを起こしかけたツカサが叫ぶ!

そのツカサの声に慌てて、メイも飛び込んでくる。

「斬山さん! ダメ! 動かさないで! もう蛹化が始まってる!」

「蛹化?! これが!」

ツカサが驚愕する。

「おそらく兼井君はこのまま、この仮死状態のまま2か月ほど過ごすことになるわ」

「命に、別状はないの?」

ツカサは声をうわずらせながら尋ねる。

「多分。うまくいけば新しい生命誕生の瞬間に立ち会えるわ!」

「それまで、これ、いったいどうすればいいの?」

「そうね、乾燥しないように表面に時々水をかけてあげて。浴槽だから丁度、良かったわ。ねっ!」

「ねっ、じゃないわよ! 私、お風呂はどうすればいいの? ぜんっぜん、よくない!」


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 僕は突然異常な寒気と倦怠感を感じ、斬山が沸かしてくれたお風呂に浸かって体を温めることにした。

お湯に体を沈めると、この数日に起こった様々なことが思い浮かんできた。

(映画、観られなかったな……でもそのおかげで斬山とお近づきになれたのか……。今も覚えている斬山の手の温もり、夕日に輝く彼女の横顔、屋内リゾートの浜辺ではしゃぐ水着の彼女。そして手をつなぎ、一緒に走って逃げたこと。不安な気持ちを抱えながら、ひとつのベッドをシェアして眠ったこと……どれもこれも忘れがたい記憶だな……)

体が温かくなってくると今度は睡魔が襲って来て、ついにはそのまま眠りの中に沈んでいった。ほんのちょっと気持ちよく、うたた寝をするみたいに。

だが、湯船の中でまどろみながら、僕がボ僕として再び目を覚ますことはなかった。

斬山ツカサと片平メイ、二人の必死の呼びかけにも応えることはなく、ゆっくりと体全体が硬直していった。静かに、かくもあっけなく、僕、兼井ケントの短い人生が幕を閉じた。

こんな形で終わりが訪れようとは、全く予想していなかった。

もうなに一つとして外部からの刺激を感知することはできなかった。

彼女たちは僕の身に突然訪れた最後を悲しんでくれるのだろうか……

そして僕は終わりの始まりの夢を見る。羊水に満たされた培養器の中に僕の体は浮かんでいる。そのうち羊水は身体中にしみこんできて、自分自身との境界線があいまいになっていく。どこからどこまでが自分の体でどこからが外界との接点なのか……。

少しずつ手足の感覚がなくなってゆき、それに伴って末端から徐々に溶けだしてゆく。僕の体はしまいに分子レベルにまで分解され最後には羊水の中に全て溶けて見えなくなった。姿はどこにも見えなくなったけれども、今この培養器の中には僕を構成していた全ての要素が存在している。

そしてその中で強く輝く光、生命の光だけは、最後までその輝きを失うことはなかった。いつか再生の時を願って僕は静かに知覚の窓を閉じた。

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