第8話:彼女の部屋

斬山ツカサと僕は例の黒いパンダが姿をくらますと、タイミングを見計らっておじさんの車を抜け出した。偶然出会っただけのおじさんを巻き込んでしまったことに対して、少し気の毒なことをしたと思う。そして彼の尊い犠牲には感謝しかない。

だが、この場を一刻も早く離れるべきだという斬山の意見に従い、職質中のおじさんを一人残して後部座席を離脱した。

僕たちは物陰に身を隠しながら慎重に進む。

必然的に小声になり、お互いの距離感は緊密さを増していく。

「マズい状況だわ! 不確定要素によってシナリオが書き換えられている」

斬山が独り言のように呟いた。彼女は先行して進路の安全を確認する。

「今ひとつ状況が把握できていないんだが……」

「先ずは身の安全を確保しましょう。喉もカラカラだし、ここからそう遠くないからついてきて」

確かにあのバケモノから全速力で逃走した時の疲労がじわじわと現れてきていた。

もちろん斬山には聞きたいことがたくさんあるが、ひとまず彼女を信頼してついて行く以外に選択肢はないだろう。


 「家族、とかは?」

「誰もいないから遠慮しなくていいよ」

「おっ、お邪魔します……」

僕と斬山が転がり込んだのは、オートロック、生体認証付きのシャレたマンションの一室だった。こんなすごい所に住める斬山の恵まれた境遇に、立派なご両親を連想しつい恐縮してしまう。玄関口から伸びる廊下の先は明るい角部屋につながっていた。

1LDK、ロフト付きの間取り。部屋の中をざっと一望する。モデルルームのようにどこもかしこもピカピカで家具や家電品、日用品など最新の生活用品が備わっているようだ。

きれいに片付いているからなのか、日常暮らしているような生活感は感じられなかった。

斬山がどんな所に住んでいるのか見てみたいと思っていたが、まさかこんなに早くそれが実現してしまうなんて思いもよらなかった。もっとも、こんな異常なシチュエーションでもなければ彼女の家に招かれることなどなかっただろう。と同時に、本当にここで暮らしているのだろうかという疑念もよぎる。

「斬、ツカサは本当にここで、一人で暮らしてるの?」

「うん、まあ、そうだよ。ああっと、適当に座って」

「あ、うん」

適当にローテーブルを備えたソファーに腰を下ろす。

「はい、喉乾いたでしょ」

彼女は冷蔵庫から冷たく冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、1本を渡してくれた。

「ああ、ありがとう」

たかだか水なのに! それがこんなに美味しいとは! 僕は体中に染み渡らせるように夢中でゴクゴク飲んだ。やっと一息付けた気分だった。

「ちょっと着替えるね」

呼吸を整えたあと、制服の両肩口を指で摘んでヒラヒラさせてみせる斬山。

その度にあの黒いパンダとの戦闘によって破れた裂け目から下着と肌がチラチラのぞいてしまうのが目のやり場に困る!

彼女の水着姿を見たことがあるといっても、ある意味それ以上に刺激的だ。男子にとっては精神的によろしくない行為だ。

「シャワー浴びるから覗いちゃダメだよ!」

クギを刺されてしまった。決して覗かない。覗かないけれど、この部屋には元々脱衣所らしいところがない。バスルームのすりガラス越しに透けて見える一糸纏わぬ女の子のシルエットに、ドキドキしないほうがおかしい。

かてて加えてハダに当たって健康的にはねかえるシャワーの音は、否が応でも男子高校生の妄想を掻き立てる。だが、クラスメイトの女子をそんな目で見てはいけない! いけないのに見てしまう! そんな迷える子羊に神様が与えたもうた残酷な試練にこれ以上耐えきれそうにない。欲望と罪の意識との狭間で天使と悪魔のささやきがせめぎ合うなか、ついにバスルームの扉が開いた。

斬山は濡れた髪をタオルでまとめ、バスタオルを身体に巻きつけただけの姿で現れた。

「なっ、なんてカッコウを……」

斬山は特に気にする様子もなくボロボロに裂けた制服をそのままダストボックスにダンクシュートした。

本人いわく制服のスペアはいくらでもあるそうだ。拭き残った水滴が彼女の肩口や胸元で薄く光っている。

お節介にも拭くのを手伝ってあげるところを妄想しながら見惚れていると、普段長い髪に隠れて見えない彼女の細い首筋がとても華奢で綺麗なことに気がついた。

この光景を目にすることができるのは僕だけに許された特権だと思うと彼女からますます目を離すことができなくなった。

「次、君も使いなよ。汗流すと気持ちイイよ」

遺憾・イカン。斬山の声で現実に引き戻される。

「あっああ。じゃあ、お言葉に甘えて……じゃなくて! その前に色々聞きたいことがあるんだけど!」

「聞きたいこと……あまり話せることはないと思うけど……ゴメンちょっと、もう限界……」

それだけ言って、ベッドに倒れこむ斬山。枕に突っ伏したまま気持ち良さそうに寝入ってしまった。

バスタオルの端から伸びる生足をたどるとその先には丸いおシリがほんの少しだけ覗いている!

「まったく! 若い娘が無防備にも程がある!」

ああっと、イカン! もう少しで見えてしまいそうだっ。このままでは僕の理性が持たない。何か別のことを考えるんだ。っと、その時ベッド上の枕元に、あるものを見つけてハッとした。

この前「ジオ・フロンティア」で斬山に取ってあげた子ネコのぬいぐるみ《くびネッコ》が、こちらの方をじっと見つめていたのだ。

その純真無垢なつぶらな瞳と困ったような八の字眉にハッとなって、取り乱した僕は再び理性を取り戻した。そしてタオルケットを彼女の体にそっとかけてあげた。

肝心なことが何一つ聞けていないが、今はそっとしておいてあげよう。

何しろ自分自身、大学の研究棟での引っ越しバイトからこっち息つく暇がなく、さすがにぐったりしていた。

取りあえず彼女が目覚めるまで、このソファーを借りて少し休ませてもらうことにした。



「遅刻だ、遅刻! 何やってんだ! 僕は! 我ながら相変わらず時間管理が甘いな!」

下駄箱から廊下を抜け、慌てて教室に飛び込んだ!

「ケント、お前、またお寝坊さんか?」

ヒロミチから早速冷やかされてしまった。取りあえず着席して1時限目の教科書を広げる。と、何故か教科書がエッチな本に変わっていた。

慌てて机の中に隠すが、ハルミのやつにしっかり見られてしまった。

「ケント君! エロいの禁止!」

「ケント君、それはエロだよ!」

メイも横から加わる。相変わらずハイキーな声質だ。

「朝からエロ出力全開だな! 俺はキライじゃないぜ」

今度は榎原タクヤがニヤニヤしていた。

「この、エロリスト!」

ヒロミチからも責められるしまつだ。みんなしてエロエロ、エロエロ、なんなんだ? いったい!

「いっ、いやっ! ちっ、違う! これはなんかの間違い……」

「オラー! もう授業始まってるぞ! 席につけー」

先生に怒られてしまった。

いや、待て! 何かがおかしい!

先生が黒い。

あれっ!? どこかで見たような……はっ、黒いパンダだ!

僕は慌てて立ち上がった! するとさっきまで知った顔だったクラスメイトたちが全員クロパンダに変わっていて、僕の周りを取り囲んでいた。

「ケントクゥーン」

「ドーシタノォー?」

「うっ、うわっ!」

僕は慌てて飛び起きた! 全身汗ビッショリだった。息遣いまで荒い。

「夢?! 夢か!」

ほんとに嫌な夢だった。って、おい、ここはどこだ? 見慣れない室内に一瞬戸惑う。そう言えばクロパンダに追いかけられて斬山と行動を共にしていたんだ。そうだ、思い出した。ここは彼女のマンションの部屋……。あれからどれくらい時間が過ぎたんだろう。少なくとも夜には違いないだろうけど。まったく、人の家で寝入ってしまうなんて……。

そう言えば、斬山は? 僕はソファーにだらしなく投げ出していたカラダをゆっくり起こす。彼女はすでに起きていてキッチンで作業をしていた。

Tシャツとデニムのショートパンツに着替え、その上からエプロンをしただけのラフな格好だった。素足にスリッパをつっかけた姿が生々しく、ついハダカエプロンを妄想してしまう。

トン、トン、トン! 刃切れの良い音が響く。彼女は何かを料理しているようだ。

「あっケント君、起きた? お腹空いたでしょ。今作ってるからもうちょっと待ってて」

「ああ、うん。お構いなく」

彼女はローテーブルに料理をのせたお皿と温かいスープの入ったカップを運んでくれた。

「お待たせ! スペシャル・チキンカツサンドー!」

どこかのネコ型ロボのようなおどけた抑揚をつけた声で、手作りサンドイッチをサッと披露する斬山ツカサ。意外とひょうきんなところがある。

「もちろん君の苦手なカラシは抜いてあるから安心して」

「あ、ああ、ありがと……いただきます!」(カラシ嫌いなんて言ったっけ?)

ひと口かじってみる。サクッ、モグッ、モグモグ……

うん、美味しい! チキン本来のジューシーさと程よい弾力性を包み込んだ歯触り良いコロモ。そのコロモにほどよく染みた食欲を無制限に解放させるソースの香りが舌と鼻腔に甘辛い余韻を残す。二口、三口、自然と口に運んでしまう。

「美味しい?」

「うん! すごく美味しいよ!」

不安そうに聞く彼女に、少しだけ大げさに答えた。

「でしょ! 我が家に代々伝わる秘伝のソースなんだよ!」

老舗の女将(おかみ)のようなことを言って得意そうな笑顔を見せる斬山。

それにしても自宅訪問に続き、ついこの間話していた彼女の手料理を作ってもらう件が、こんなに早く実現しようとは思ってもみなかった。もはや思い残すことは何もないぐらいだ。

「さっき話しかけていたことなんだけど」

僕は折を見て改めて切り出してみた。

「うん? ああ、聞いてくれれば答えられる範囲で答えるよ」

「あの注射器の中身、あの液体は……何なのか知ってるの?」

「うーん、正しいかは分からないけど、遺伝子に作用して人体を強化する薬、と言えばいいのかな?」

「メイは、アレが何か知っていたみたいだけど……」

「新都市大学では小笠原教授を中心としたあるプロジェクトを推進しているんだけど、片平メイはそのプロジェクトメンバーの一員だから知っていて当然ね」

「あるプロジェクト?」

「人類の未来を左右する研究だと聞いているわ」

「僕はやっぱり、あの薬を打たれたのか? いったいこれからどうなる? めちゃくちゃ不安なんだけど!」

「NXR試薬が人体に及ぼす影響についての報告は聞いていない。悪いけどはっきりしたことは分からないの」

「なら、その、小笠原教授は? 教授なら……」

「確かに教授なら、より明確に答えてくれるかもしれない。でも今、彼は行方不明になっているの。それに期待を裏切るようなことを言って申し訳ないけれど、彼は君のことを格好の研究材料としかみなさないでしょうね」

「なんだよそれ! それじゃ僕はただのモルモットじゃないか!」

「気の毒だけどこうなったのは全くの想定外だったわ。現状、私の任務を超えている。ただ、ひとつだけ言えることは被験者第1号となった君自身が生きる国家機密となったということね。下手に表に出てしまうようなことになれば……」

「任務? 機密? 君は、君はいったい何者なんだ?」

「ケント君、私はドリーミーランドが好き。君は?」

「ごまかすなよ!」

「まあ聞いて。ランド内ではスタッフやゲストの間に一定のルールとお約束があって、秩序が保たれている。そこはスタッフもゲストも関係ない、ひとつの夢を壊さないように繊細な気遣いが互いに働いているのね。儚いけれど夢の王国の維持にとってはそれがとても大切なことなの」

「それに何の関係が……」

彼女は気にせず続ける。

「そして私が最も恐れていることはこの世界の平和と秩序が脅かされること。だから私は、世界のバランスを保つために頑張ろうって決めたの。そのためのお仕事をしていると思ってもらえればいいと思う」

なんだか、はぐらかされているような気がする。

「なるほど。どんな仕事かは知らないけど、君はなにか世界の均衡を保つ組織に所属していて、その他詳細は明かせないと。で、僕はこれからどうすれば……。君は僕をここに連れてきたけど、これからどうしようと?」

「ケント君、キミの処遇については保留中なの。まだ誰にも報告していない」

「そう言えば、君はホウ・レン・ソウが苦手だったっけ?」

「別にほうれん草は嫌いじゃない。なぜ今ほうれん草の好き嫌いを? 話を元に戻すわ。さっきも言ったけど本件はイレギュラー過ぎて対応しきれていないの。もともと私の任務は研究者としてのメイとNⅩR試薬をマークすることだったから。被験者の処遇については聞かされていない。もっともNⅩRは君が摂取しちゃったから、今は君が監視対象だけど……。でも、これだけは分かって欲しい。君の気持ちと人権は最大限尊重するし、何かあれば私は全力で君のことを守るよ」

「そうあってほしいけど。じゃあ、あの黒いパンダは? 君の組織と対立している敵なの?」

「私たちは必ずしもクロパンダと対立しているわけじゃない。奴らは報酬次第で動くただのケダモノだもの。それよりも、ある新興宗教団体を母体として一部過激化した組織が背景にいることのほうが問題ね。彼らはゆるい教義の中でバイオテクノロジーを筆頭に化学技術をタブー視し、歪んだ方法で人類を救済しようと考えている危険な連中なの」

「じゃあその宗教団体を摘発すれば?」

「コトはそう簡単でもないのよ。多様性の問題というか、確かに彼らの主張にも一理あって、すべてが悪いわけじゃない。たいていの信者は「今日も世界中の人類が平等でありますように』と願うだけの善良な人たちだもの。ただ手段を選ばない方法に頼る一部の過激派に問題があるのよ」

「だけど、あんな危険なパンダを雇っておいて、知らぬ、存ぜぬは、ないだろ」

「確かに世界の秩序を著しく欠いた行為はいずれ是正されなければならい時が来るでしょうね」

なんとも悠長な話だ。

「それと伝えておかなければならないのは、今回の件で君自信がターゲットとして認識された可能性は否めない。しばらく目立たないように、おとなしくしていた方がいいと思う」

「この状況ではツカサのことを信じるしかないと思うけど……。まだ消化しきれないよ。と、ヒロミチたちは? あれからどうなったかわかる?」

「心配ない。彼らの無事は確認してるわ」

「そうか、なら、良かった! あっ、そう言えば、まだ君にお礼を言ってなかった」

「……なんの?」

「クロパンダに襲われた時、かばってくれて助かったよ。キミがいなければやられていたと思う。ありがとう」

「別に、当然のことをしただけ。大したこと、してない」

彼女は事も無げにそう言った。

「それで、これからどうする?」

「まずはメイに君の状態を診てもらうことができれば、何かしら解るかもしれない」

「メイ、アイツには責任取ってもらわないと」

「ふっ、そうね。でも、今回のことはメイ自身もひどく驚いていたようだったわ。ワザとではないと思う。」

「分かってる。けど、だからといって、はいそうですかという訳には……」

「まあ、そうだよね。とにかく明日学校で彼女に聞きましょ。シャワーを浴びたらベッドを使っていいわよ。1つしかないから仲良く半分こね」

「ええっ! 二人で?」

「いや? ヤなら私はソファーを使うけど……」

「いや、いや、嫌じゃないです」

くびネッコ、どうしよう。今夜はとても眠れそうにないです。

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