第7話:バイトパニック

 翌週の放課後、僕たち新都市高の6人は、メイの紹介で研究室の引っ越し作業を手伝うため通りを挟んで向かいにある新都市大学の研究棟に集まった。と言っても同じ棟の中で移動するだけだから、どちらかというと部屋の模様替えに近いのかな。これでバイト代がちゃんと出るんだからしめたものだ。

「バイト代ってどのくらい出るんだよ?」

高等部からの移動中、榎原タクヤが開口一番に聞いてくる。

「5万だって」

榎原の質問にハルミが答える。

「一人5万か?」

「な訳ないでしょう」

「つう事は、6人で割ると?」

榎原の質問をヒロミチが引き受ける。

「一人、8300ちょい、割り切れない。時給にして、まあ悪かねえけどな」

「さっすがエロいわりには計算速いわね!」

「まーな。理系ナメんな、ってエロはやめろ!」

「だって、グランシェル・ブルーの時、ヒロのエローい視線といったら……」

なんていう話をしながら大学の正門に着くと、理系女(りけじょ)の堀江美由紀さんが待っていた。

「君たち、今日は引っ越しの手伝いに来てくれてありがとう。助かるわ。」

そのまま手際よく正門から研究棟に案内してくれた。

実は彼女と僕たちの間には既に面識がある。

遺伝に関する特別授業が高等部で行われた時、講義に来てくれたのがこの大学で研究助手をやっている堀江美由紀さんだったのだ。

講義が終了した後も気さくに質疑応答を受け付けてくれたり、私的な話をしてくれたりと、とてもフレンドリーな“隣のお姉さん”という感じのひとだ。

美由紀さんは通路を案内しながら、先に高等部を出たメイと斬山は既に書類の山の整理に取り掛かっていると教えてくれた。

案内された引っ越し作業現場の研究室と執務室は雑然としていた。

ボクたち男三人には、もっぱら力仕事が待っていた。

山積みになった荷物運びとか、スチール棚の移動とか、なかなかガッツを試される仕事だ。本や書類のギッシリ詰まった段ボール箱がこんなに重いとは思わなかった。

きっとこの仕事から解放される頃には、汗だくになっているだろう。

荷物を運びながら通路を行ったり来たりしていると、ビジターパスを首から下げた見知らぬおじさんとメイが、立ち話をしているのが見えた。

「キミ……小笠原教授の……」

と、聞こえたような気がした。



科学専門誌「C&Sグラフ」の専属記者、梶谷徹は幾度か訪れたことのある新都市大学の研究棟にいた。あの問題のカンファレンス参加以後、小笠原教授に直接話を聞こうと飛び込み取材を敢行しにきたのだ。

ところが、せっかく出向いて来たというのに取材対象の教授は不在で、挙げ句に彼の研究室は引っ越しだかレイアウト変更だかの最中でバタバタしており、ビジターへの対応もおざなりだった。

梶谷がここに来た理由はもちろんネクストヒューマンレイス、通称NXR・プロジェクトの記録映像に関することだ。あの映像に残されていた生物、あれがフェイク動画ではないとしたら何だったのか? 見た目は……そう、ネコのような愛くるしい風貌だが、そうとも言い切れない。

自分が認識しているネコのイメージとは、ちょっと違和感があるのだ。

ミミも少し長い気がする。

ただ少なくとも生まれたての幼獣のようなおぼつかなさはなく、そのまま成獣が蛹(サナギ)から生まれ出てきたような感じだった。

遺伝子を改変された新生物、キメラのようなものなのだろうか?

教授にはまずエビデンスを示してもらわなければならない。

あのカンファレンスの説明だけでは到底納得できるものではなかった。

「とは言え、さすがにアポなしじゃあな……」

梶谷は自嘲気味にそうつぶやくと、収穫のないままもと来た通路を戻ろうと踵を返した。

彼が通路の先に目をやった時、向かいから歩いてくる人影に何故だかちょっとした引っかかりを覚える。

こんなところ、大学のそれも研究棟の通路なんかで高校の制服を着た、おそらく新都市高校の女子生徒を見かけるとは思っていなかったからだ。

メガネをかけたその娘は、内向的な性格なのか視線を誰とも合わせないようにうつむき加減に歩いていた。

「なんで、こんなところに?」

梶谷は訝しんだが、違和感の正体はそれだけではない。

この娘、どこかで見たことがある。

「あの、ちょっと! キミ?」

何かが確信に変わった瞬間、梶谷はすれちがう女子高生に声をかけた。

突然声をかけられ呼び止められた彼女は、一瞬驚いた素振りを見せていたが

「えっ、えっと……なんでしょう?」

と応じてくれた。

「キミは? ここに何しにきたの? もしかして小笠原教授のお知り合い?」

「はあ? まあ……」

「おっと、失礼! ボクは科学専門誌の記者で決して怪しい者ではないので通報は勘弁な!」

相手の警戒心を解こうと、軽いつかみのつもりで言ったのだが、かえって不審に思われてしまったようだ。

「あの、何かお尋ねなら、あちらに警備員室がありますので」

「ああ、いやっ! 実は小笠原教授にお会いしたくて来たんだけど、あいにく不在でね。

キミ、教授の居場所、知らないかな?」

「いえ、知らないです」

「失礼だけど、キミと小笠原教授とのご関係は? 親戚かなにか? ひょっとして親子? いやいや、そんなことよりどうしてあの研究レポートの映像にキミがでていたの? あれ、キミでしょ、絶対!」

「はあ……」

梶谷は以前、彼女が教授と一緒にいるところを見かけたことがある。

その時の彼女は私服だったが教授と親しげにしていた様子から、漠然と二人は肉親同士ではないかと感じたのだ。

そして例のカンファレンスで流された映像に映っていた女子研究員は、マスクをしていたとはいえ、目の前にいる女子高生の特徴に酷似していた。

「あっあの、アルバイトの途中ですので、これで失礼しちゃいます!」

身を硬くして踵を返す女子高生。

「あっああ、呼び止めてゴメンな。それじゃあ」

失礼しちゃいます、か……

なにか失礼なことを聞いてしまったんだろうか?

梶谷は身を固くして足早に去ってゆく女子高生の背中を怪訝な顔をして見送った。

それにしても、あんなに動揺しなくてもいいのに。

梶谷は大学の来客用駐車場に停めておいた車のシートに身を埋め「しちゃいます! か……」と、呟いた。



片平メイは、不愉快な気持ちでいっぱいだった。

(なに? さっきの人。科学誌の記者って。職業的にインタビューとかする人なんだろうけど、どうしてあんなに一方的な感じなの? 人の心の中を覗き込んでくるような嫌な聞き方……。いったいなんなの!)

思い返すだけで爪先から頭のてっぺんに突き抜けるような不快感に襲われ、つい変な身震いが出てしまった。慌てて周囲を確認するメイ。

「なに変な踊り、踊ってんの? メイ!」

ハルミに、しっかり見られていた! 顔がカッと熱くなる。

「べっ、別に! 背中がちょっと痒かっただけ……」

「ふーん? なら、かいてあげよっか? ここ?」

「あっ! いやいや、ありがとハルミ! もうダイジョブ! グッジョブ!」

引きつった笑顔になって、ますます不自然さを醸し出してしまった。

おっと! そんなことより、個人的な探しモノを見つけることが先決だ!

「そっ、それより、男子たちは?」

「相変わらず仕事してんだか、ふざけあってんだか」

っと、ハルミの親指が指す執務室の奥に目を向けて、メイは仰天した!



 ヒロミチと榎原、そして僕は美由紀さんの指示で小笠原教授の執務室にあるスチール棚を動かそうとしていた。僕は彼らの足元の安全のために落ちているものをどかしながら導線を確保していた。

「いいか? せーので行くぜ!」

「おう!」

「せーの!」

二人の両腕に容赦なく鉄の塊に等しい棚の重量がのしかかる。

持ち運びやすいように手の掛かり具合を探るが、なかなかベストポジションが見つからない。

「そうだ! 引き出しを外せば持ち易いんじゃねえか!」

と、言って榎原が引き出しを開けようとした。

ところが引き出しの奥で何かが引っかかって上手く開かない。

ガタガタ揺すってみると、ガシャッっと硬いモノが当たる音がして引き出し全体が外れた。

中で引っかかっていたのは、A4用紙サイズ大の金属でできた箱だった。

小さなキャリーケースのような見た目で、トップには持ち手とダイヤル式ロックがついている。

手にとって振ってみると意外に軽い。試しにダイヤルロックを1コマだけ回してみる。

カチリと音がして意外にも簡単にロックが外れた。

おもむろにフタを開けると中にはウレタンスポンジの保護材に囲まれた見慣れぬ部品が収まっている。それは、銃身のない拳銃のようなカタチをしていた。

「なんだこりゃ? N・X・Rって書いてある。なんのこっちゃ? これってピストルの部品か何かか? ヒロミチ」

「俺が知るわけねえべ。こりゃあ、医療器具かなんかの類いだろ? 注射器とかさ。

分かんないモンは勝手に触んなよ!」

「ふーん」

一瞬、榎原の目にイタズラっぽい光が宿った!

これだからイジメッ子気質のクラスメイトからは目を離してはダメだ! 絶対にだ!

「手を上げな!」

榎原は、ニヤニヤしながらグリップを持つ腕をヒロミチに向けて構える素振りをした。

「ふざけてないで、元に戻しておけよ!」

ヒロミチがイライラしながら言い終わるか否か、突然場違いな嬌声が部屋中に響き渡った!

「ああああ!!!!!」

次の瞬間この僕、兼井ケントの身に起こったアクシデントは筆舌に尽くし難いものがある。

一体全体どうしてこうなった!

何しろフザけていいような場所ではないし、レイアウト変更中の執務室はごちゃごちゃして危険がいっぱいだった。

そして片平メイは総天然ドジッ娘だった!

ヒロミチと榎原が取り出したグリップでふざけ合っていたまさにその時、ハルミと入れ違いに部屋に入ってきたメイは、突然、金切り声を上げたかと思うと、二人に向かって突進したのだ!

だが、それがいけなかった!

床に置きっぱなしになっていたダンボール箱に蹴つまずいた彼女は、勢いそのままアタマから榎原の背中に向かってダイブした!

人間びっくりすると、全身の筋肉が強張り萎縮してしまうものだが、驚いてその場に硬直していた榎原は、不意をつく危険なタックルを背後からもろに受け、全身が弓なりに反りかえった。

突然加えられた衝突エネルギーの反動により、榎原の体は前方に弾き飛ぶ!

正面衝突を避けるためにとっさにかがみ込むヒロミチを一方的に責めることはできない。だが、ここは友人として身を呈してでも榎原を受け止めるだけの度量を見せて欲しかった。

榎原は、かがんだヒロミチの背中に足を取られ、勢いよく床に向かって倒れこむ! そして受け身を取るために反射的に両腕を伸ばす。さすが体育会系! などと感心している場合ではない! 床に散らばっていたプリントを拾い集めようと、腰を屈めていた僕のお尻に突っ込んでくる榎原!

(バッチ、こーい!)

ドズン!

腰を落とした低い姿勢が幸いして、榎原衝突による衝撃をお尻一つで受け止めることができた。

(一体、何を受け止めたのかはその時の僕には知るよしも無かったが)

だが、一歩間違えると大怪我をしてもおかしくない状況だったろう。

この場で一番状況把握が出来ていない僕が言うのもなんだが、全てが一瞬の出来事で回避は困難だった。

「痛~」

「イタタ……」

何とか身を起こして振り返ると、上からメイ、榎原、ヒロミチの順に絡み合うように重なって倒れていた。

メイに至ってはメガネまですっ飛ばしている始末で、衝撃の大きさを物語っていた。

「早く、どいてくれ!」

一番下敷きになったヒロミチが情けない声を出しながらもがいている。

ようやく三人は順にほどけてゆき、それぞれダメージがないかボディチェックを始めた。

「メガネ、メガネ……」

メイは、そのまま床に這いつくばってお約束通り、飛ばしたメガネを探していた。

僕は床に落ちていたメガネを拾い彼女に渡してあげた。

「ア、アリガト」

メガネをかけて気を取り直したメイは、榎原達の愚行をたしなめ始めた。

それは、メイの控えめな性格からはちょっと想像がつかない位の勢いだった。

「なんて事してるの! 勝手に開けたり触ったりしないで!」

「背後から突然危険なタックルをしてきたお前に、なんでそこまで言われなきゃなんねーんだ! 謝罪記者会見レベルの危険な行為じゃねえか!」

“記者会見”という言葉に、一瞬たじろぐメイ。

「ごめんなさい。つい……」

「これっていったいなんなんだよ!」

「それはシリンジ。ピストル型注射器。薬液が入っていて危ないから!」

と言って、榎原が握っているそれを取り上げ、チェックを始めた。

「とにかく無事に回収できて良かっ……アレッ!? アレッ?? シリンダーが無くなってる! なっ中身は? シリンダーはどこ? ねえ、どこやったの?」

明らかに動揺を隠しきれず、榎原に詰め寄るメイ。

「オレ、知らねーよ!」

「そんなわけないでしょ!」

「ほんと、なんもしてないぜ! なあヒロミチ」

「ヒロミチ君! あなたは?」

「オレも、知らないって!」

「マズいの! あれがないと、ひじょーーにマズいの!」

「んなこと言ったって、なあ?」

「どうしたの?」

「あんたたち、何やってんの? だいじょうぶ?」

騒ぎを聞きつけてハルミと斬山も執務室に集まってきた。

その時、榎原が素っ頓狂な声をあげた。

「あ!」

「なに! なに?」

「そういや、兼井にぶつかった時、無意識に強くにぎりしめちまったから……」

何故かみんなの視線が僕に集中する。

「は? 僕? 僕は何もしてないし、知らないよ!」

「ちょっと、後ろ向いてみて」

メイに言われて後ろを向くと僕の左のお尻に透明な筒状の物体が刺さってぶら下がっているのが見えた。

「お探しのものかどうか分かりませんが……」

恐る恐るメイの顔を伺うと、安堵したのか、穏やかな微笑みを浮かべ、目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「別にこれ、ダレが悪いってわけでも……」

嫌な予感を感じて保身に走るヒロミチ。

「あった!」

次の瞬間、気を失ったメイは白目を向いてその場に卒倒した。

一体、何がどうなった? 気を失う前に説明責任あるよね! メイ!

ガチャーン!

突然空間を切り裂くような破壊音が部屋中に炸裂した!

まわりの空気が震えるほどの衝撃に僕たちはとっさに頭をかばい、身を固くする。

窓ガラスの破片が勢いよく四方に飛び散り、何か黒くて大きな塊が外から飛び込んで来たのだと理解するのにそう長くはかからなかった。まさに心臓が飛び出るほど驚いた瞬間だった。

「今度は何だよ!」

飛び込んできた黒い物体は、勢い余って部屋奥の壁に衝突し、そのまま動きを止めた。黒い塊、いや、黒い毛玉はムックリと起き上がる。

そいつはその場に硬直している僕たちに2つの黒いつぶらな瞳を向けてきた。

特に威圧感は感じない。

「えっ! 動物? クマ?」

「どうして?」

意表を突かれて、怖いとかいう次元を超えて体のチカラが抜けてしまった。

何が何だか訳がわからなかった。

皆、呆気にとられてポカンとしていると、次の瞬間、僕は間に割って入った斬山ツカサに物凄い勢いで突き飛ばされた!

また僕かよ!

刹那、斬山の頭上をかすめてクマの右手は空を切る。

手の先には鋭い鍵爪が光る!

態勢を崩しながらも斬山のローキックがクマの短い左脚にヒットする!

浅い! 体重を載せることができず、あまり効いていない? いや、そうでもない。

結構痛そうに脚を引きずっているところを見ると、意外と効いたみたいだ。

だが、逆上したクマは両手をめちゃくちゃに振り回してきた!

これを格闘技の経験者のような身のこなしで巧みにかわす斬山ツカサ!

普段の彼女からは想像もつかない動きだが、この一発が致命傷になることを知っているのだろう。

ビリッ、ビーーッ!

制服の裂ける音がして、斬山のシャツやスカートに大胆なスリットが刻まれていく!

徐々に追い詰められる斬山! これ以上は見ていられない!

ガギギーーッ!

金属板を引っ掻く不快な音が響き、引き裂かれた書籍類が紙吹雪となって宙を舞う!

その時、斬山の放つ渾身の前蹴りがクマの鼻づらを捉えた!

不意を突かれたクマは一瞬怯み、後退する。

彼女はその隙を見逃さなかった。低くしゃがむと左足を軸に伸ばした右足でクマの足を薙ぎ払った。

両足を宙に浮かせて派手に尻もちをつくクマ。

斬山は僕の手を掴んで、そのまま通路に飛びだした!

「ヤツを引き付けるわよ!」

「まっ待って! 足が!」

廊下のタイルに足を取られながら、斬山に手を引っぱられる僕!

これで斬山に手を握られるの2回目、などと悠長なことを言っている場合ではない!

相手は野生動物の王者だ! 死にもの狂いで逃げなければ!

「ほら! こっちよ!」

クマに向かって挑発する斬山。

僕には振り返る余裕などない。斬山の意図通り僕たちを標的に定めたクマが猛烈な勢いで追いかけてくる気配を背中にビリビリ感じる。

僕らは研究棟の通路を、手をつないで必死に走る。

途中、斬山が消火器を倒してクマの進路を妨害しなければ確実に追いつかれていただろう。だが、それにもひるまず鋼鉄の爪が床を鳴らす硬い反響音は、すぐそばまで迫ってくる。大した時間稼ぎにはならなかったようだ。

僕たちはそのまま大学の駐車場に飛び出した。

「すぐ動かせる車は……あった! あれだ!」

斬山は運よくエンジンのかかっている車を見つけると僕の手を握ったまま、さらに加速した。



新都市大学に来た目的、小笠原教授への飛び込み取材を果たせず、出鼻を挫かれた梶谷徹が駐車場から愛車を出そうとエンジンをかけたその時だった。

後部座席に突然学生らしき男女が飛び込んできて、早く車を出せと急き立ててきた。

女生徒の制服はズタズタに引き裂かれている!

「なんだ? 君たちは! 一体どうしたんだ!」

「いいから早く出して! 危ないから! おじさん!」

「逃げなきゃ! ケント君、もっと奥つめて!」

「おっおじさん?……シートをバンバンするなって!」

その時、何か黒い物体がドアミラーを横切ったかと思うと、全速力で迫って来るのが見えた!

(こりゃあ、ただごとじゃないことだけは確かだ!)

瞬間、梶谷にギアが入った!

「ドアロックとシートベルトだ!」

バン! ドシン! 真っ黒なそいつは車の上に飛び乗ってきてその鉄の爪でルーフを引き裂き始めた!

尋常じゃない! 同時にシフトをリバースに入れてアクセルを踏み込む。

ルーフの上から黒い塊が、フロントウインドウを滑りボンネットへ転がり落ちてきた?

「クマ? クマが何でこんなところに?」

「振り切って!」

少女が叫ぶ! 振り落とされまいとボンネットの鉄板に爪を立てるクマ!

無残にも缶切りで開けたような爪跡が梶谷の目の前で車のボンネットに刻まれてゆく。

「まだローンが残っているのに! くそっ!」

梶谷がハンドルを大きく切って車を急旋回させると、さすがのクマも振り落とされたようだ。すかさずシフトレバーをドライブに切り替え、梶谷は車を発進させる。

「一体あのクマはなんなんだ! 立ち上がって猛ダッシュで追いかけて来るぞ! クマって二足歩行できんのか?」

「クマじゃない。アイツの名はクロパンダ。金さえ積めば、汚れ仕事だろうがなんだろうが請け負う残虐なプロの殺し屋集団よ」

パンダが真っ黒なら、それはもうクマでいいだろ。と、梶谷は心の中で思う。いや、そんなことより、

「殺し屋? 一体、何で?」

前方に駐車場の料金ゲートが迫る。

「止まらないで! 小銭は私がなんとかする。このまま突っ切って!」

「わかった! 頼んだぜ、お嬢ちゃん!」

バックミラーでヤツとの距離を確かめ、スピードを調節する梶谷。見知らぬ少女との間に阿吽の呼吸が生まれる。全てはタイミングだ!

窓を開けて半身を乗り出した彼女は、精算機の投入口に狙いを定めコインを親指で弾く!

ゲートへ進入した梶谷の車は遮断機をへし折って弾き飛ばし、車道へと飛び出すとそのまま走り去っていった。

少し遅れて投入口に弾かれたコインは、虚しい音を地面に響かせていた。

「おいっ!」

「問題ない。駐車料金は支払ったわ」

「いーや、問題だろ!」

冷静に考えてみれば、駐車券を投入しないことにはそもそも意味がない。

車道に出てやっと落ち着きを取り戻し、状況確認を急ぐ梶谷。

「だいたい、何んであんなのに追いかけ回されてたんだ? いったい君たちは誰だ?

それより、どうしてそんなことに? 警察には言ったのか? これからどうするんだ? なぜ黙っている?」

「いっぺんに聞かれても……」

「左に同じく……」

少年も少女の言葉に短く付け加える。

それにしても彼(ケント、だったか)は、怯えているのかさっきから妙におとなしい。確かに異常な状況に無理もないと思われるが、少女と比べて口数が少ない。

いや、異常なのはむしろ妙に場馴れした感のある少女の方か?

「なんだかよく分からないが、変なことに巻き込まれちまったな……まさにもらい事故ってやつだぜ……」

ボヤきながらも梶谷はハンドルを持つ手にいつもと違う違和感を覚える。人が三人乗っているとはいえ、車の挙動があまりにも重い。それにいつからだかシューッという何かが擦れ合うような異音に気がついた。

見通しの良い左カーブに差し掛かり車体が少し左に振れた。

その時ドアミラーにまたしても黒いアレが映っているのに気がついた。

そいつは車の後部バンパーあたりに必死にしがみつき、モップのように地面の上をひきずられていた!

「ウワァア!!!」

これにはさすがに梶谷もパニックを起こしかけ、ハンドルを握る手が震えた!

彼の狼狽ぶりを反映するように、車は左右に大きく蛇行する。

「いったい、なんだってんだ! どんなヤツが中に入ってるってんだ?!」

「中のヒトなど存在しない。アレはああいう存在(もの)なの。誰が入っていようが関係ない」

少女は何でも知っているかのような口ぶりで梶谷の疑問に生真面目に答えた。

(まるでドリーミーランドにいるマスコットキャラクターに対する模範回答みたいだな……)

と、呑気なツッコミが梶谷の脳裏に浮かんだが、さすがに口には出さなかった。

代わりに進行方向を凝視し、ハンドルを握る手に力を込めながら吐き捨てるように

「意味わからん」とだけ言った。

「公安を介入させたから、もうしばらくこのまま走って」

彼女の言う通りだった。程なくしてけたたましいサイレンの音を立ててパトカーが猛スピードで追いかけてきた。

「そこの車! 左に寄って止まりなさい!」拡声器を通して、停車を指示する高圧的な声が背後から投げつけられてきた。

興奮状態にあった梶谷だったが内心救われた気持ちで一杯だった。何という安堵感。公安はやはり庶民の強い味方なのだ。

「キミたち、もう安心だ。あとは警察に保護してもらえる」

梶谷は不安げに後部座席に座る二人を安心させようと声をかけた。そう、どんな危険人物がいようとも警察が守ってくれる。自分自身にそう言い聞かせながら梶谷は車を停車させ待機した。

コツコツ! 窓をノックする音。

「随分急いでいたみたいだけど、どうしちゃったの?」

「そうなんです! お巡りさん! 大変なことに巻き込まれてしまって、早くなんとかしてくださいよ!」

「ちょっとね、降りてきてくれる? でもってパトカーの後ろに乗ってくれるかな」

「は? いや、だから! 後ろのやつ! いるでしょ! 危険なんですって!」

「スピード違反。どれだけ超過してたか見せるから。それと危険な蛇行運転。おまけに車両の整備不良」

ボロボロの車体を視線で指し示す巡査。

「いやっ、だから黒いパンダに追われていて! なあ、キミたち!」

返事はない。後部座席を振り返ってみると、そこに居るはずの、いや、たった今まで乗っていた二人の学生の姿は忽然と消えていた。

「キミ、酔ってるの? 息吐いてみて。なんか薬とかやってる?」

「いやっ! そんなバカな! 確かにここに!」

「とにかく、あっちでゆっくり話を聞くから」

パトカーの後部座席に押し込まれながら、痛ましい姿になった愛車を振り返る。やはり少年少女どころか黒いパンダなど、どこにもいなかった。キツネにつままれたような気分とはまさにこのことだろう。呆気に取られた梶谷は

「はああ?」

と繰り返す以外になかった。

この全くもって腑に落ちない不可解な事件に巻き込まれた自分自身を呪いながら同時に記者としての好奇心にも駆られていた。

願わくば自身の手でこの事件の真相を追ってみたいと梶谷は思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る