第4話:怪しい教授と謎の研究

 例えば、蝶という昆虫のことを考えてみよう。

卵から孵化した幼虫、大抵イモ虫と呼ばれるそれは限られた生活圏内で、周囲の植物などを摂食して育つ。脱皮を繰り返すごとに成長し、終齢となった幼虫はやがて動きを止め、硬い外皮に覆われた蛹へと変化する。

時が来て花から花へ蜜を求めて宙を舞う蝶へと生まれ変わるまで、静かな休眠期間を迎える。そして文字通り羽化を経て生体が獲得した鮮やかな翅は、外見に劇的な変化をもたらすだけではなく、生活圏や食性をも一変させてしまう。

飛翔能力を得るための強靭な筋肉とそれを使いこなすために脳神経の構造そのものまで変化させてしまう。もはや幼虫時代の記憶や経験は全く無意味なように思える。

私がここで言いたいことは、蛹になった幼虫は、いったいどんな夢を見て過ごすのかということだ。

それは短い幼虫時代の終焉を憂う悲しい思い出なのか、それともこれから成虫へと生まれ変わって未知なる世界へと飛び立っていかなければならない不安に彩られた希望と言う名の悪夢なのか……


ガタッ!

体がビクッとなった。

夢? 夢か……奇妙な夢だった。いまだにさっきの夢の中で聞こえていた声が幻聴のように頭の中で響いていた。なんで夢の中で虫の生態について講義されなきゃならないのだろう……そう思いながら命の始まりと終わりについて思いを馳せてみる。

「おい、どうした兼井? 寝落ちか! この俺の授業はそんなに退屈か? 先生、傷ついちゃうぞ! あとちょっとで昼休みだから、もう少し我慢しろや」

教室に薄い笑いが広がる。先生に指摘された通り、僕は授業中に寝落ちしていたのだ。それまで僕はあくびを噛み殺しながら午前中の授業を何とかやり過ごしていたのだが、抑揚のない先生の声が寝不足の頭にひたすら催眠波を送り込んできて……

ついに睡魔に負けてしまったのだが、それも無理はない。というのも昨日みんなと遊びに行ってからこっち、いろいろ考えているうちに心がキャパシティーオーバーとなってしまい、ろくに眠ることができなかったのだ。

そう、昨日ボクたちはデパートの屋上庭園で日没まで過ごした後、すっかり暗くなった夜空をあとに、駅前まで戻って来ていた……僕はその時のことを思い返した。

「送ってやろうか斬山!」

榎原タクヤが下心丸出しで斬山ツカサに近づく。くっ、先手を取られたっ!

「いやー、まだそんなに遅くないし、ここで平気だよ」

「なんだよ、遠慮するなよ」

「別に遠慮はしてないけど遠慮しとく。途中までメイと帰るから大丈夫だよ」

なんともそっけない返事だった。再び榎原は轟沈した瞬間だ。ボク自身も変に気を回さなくて正解だった。

でも彼女に対する好奇心は変わらない。彼女はどんなところに住んでいるのだろう?

知りたい。見てみたい。いやいや、何を考えているのだ僕は!

「んじゃ、ハルミは?」

気を取り直した榎原はあてつけのように府藤ハルミにも同じようにモーションを試みる。意外と切り替えの早いタフボーイだ。懲りないね。

「私はヒロと同じ方向だし、何かあったら彼の犠牲を無駄にすることなく猛ダッシュで逃げ切るから。へーき」

「へっ? ナニそのおかしな前提! ハルミ! オレはお前の捨て駒か?」

憤りを隠せないヒロミチ。息の合った会話だ。

「いやいや、頼りにしてるよ! 足止めぐらいにはさっ、ミッチー!」

「その呼び方はやめろっ」

「あはは、ごめん、ごめん。ところで、ヒロのお兄さん最近見ないけど、元気?」

「なんだよ、やぶからぼーに。兄貴のやつなんて知らねーよ!」

「ん? 何かあったの?」

「いやっ、こんなとこで言うことじゃないし……」

「いいから、言ってみ! チカラになるよ」

ハルミに促されるヒロミチ。この場を早く切り上げるには従うほうが得策だと感じたのだろう。彼は重い口を開く。

「……兄貴のやつ就職活動に失敗したあと、なんとかいう変な宗教にハマっちまってさ。そのあと家を出てったきりだよ」

「ええっ? それって超ヤバいんじゃないの?」

「知らないよ。親は警察に相談しているみたいだけど……」

「探し出して連れ戻したほうがいいんじゃない?……」

なんか込み入った話になってきた。これは僕なんかが口をはさんでいい案件じゃない。っていうかヒロミチに兄さんがいたなんてことすら知らなかった。斬山は一瞬、顔を曇らせていたが何も言わなかった。だがその横顔には何かしらの嫌悪感が見て取れた。

「だから、いいんだって、ほうっておけば! 兄貴のことは、子供じゃあるまいし……この話はもうやめようぜ」

めんどくさそうに返すヒロミチにハルミは不安を隠さない。

「でも心配だよ……ヒロまで巻き込まれたりしたら……」

「それって俺のこと心配してくれてんの? ハルミ!」

「ちがっ、ばっ、ばかみたい! 勘違いしないでよね! ヒロのお母さんがかわいそうってだけ!」

「まあ、あれだ。身内のことは身内で解決しなきゃな……まあ、なんだ。なんかあったら相談してこいよ。できる範囲で力になってやっからよ!」

榎原がかっこよく漢気を見せた感じのセリフを言う。僕も気のきいたセリフの一つでも言ってあげられればいいのだが、うまくまとまらなかった。ただヒロミチを元気づけてやりたかった。

「そうだよヒロミチ! 僕たち仲間だろ! だからっ、だから、どうってわけでもないんだけど……」

「みんな……ありがとうな」

困ったときは助け合いだ。

とか何とか言いつつ時間は無情にも僕らの帰宅時間を促している。



「じゃ、気いつけて」

「じゃーな、また明日」

「明日ね」

どんなに名残り惜しくても、日常というやつはボクたちを追いまわしては現実へと引き戻してゆく。どうせまた明日になれば教室で顔を合わし、同じ日常が繰り返されるのだ。

ボクは皆と駅前で別れ、自宅最寄り駅の見慣れたホーム改札口を出る。

なんだか肩の荷が降りたように少しホッとする。

楽しかったとは言え、自分はつくづく人に合わせて行動することには向いていない性格なんだと思う。少し気疲れしたせいなのかもしれない。

なんとなく重い足を引きずりながら家に向かって歩き出しながら今日あったことにあれこれ思いを馳せる。

斬山とあんなにしゃべったのは初めてだな……。

彼女、好きな人はいるんだろうか……。

そんなこんなで、就寝後もなかなか寝付けずに時間だけが過ぎていった。

そしてついに外が白み始めたかと思うと、あっと言う間に朝を迎えてしまったというわけだ。


再び現在、教室内。

回想シーンから戻ってきたボクは後席の川村シゲルを気にするふりをして振り向き、窓際に座る斬山ツカサを盗み見た。やっぱりクールでカワイイ。

ほんの一瞬ならと思ったたが、こちらの視線に気付いた彼女と目が合ってしまった。

ボクはあわてて首の筋を気にするふりをして視線を逸らす。

自意識過剰だと分かっていても引っ込み思案な性格は急には治せない。

もうこれ以上、振り向くことはできない。

後はただひたすら昼休みのチャイムが鳴るまで睡魔との戦いに耐え続けるのみだった。


「ケント君」

昼休みを告げるチャイムと同時に力尽きて机の上に突っ伏していると、頭上からボクを呼ぶ声がする。

顔を上げると目の前にはスカートがあった。

ちっ近い。見上げると斬山ツカサが目の前に立っていた。

なかなか見ることの許されない女子のローアングル。ボディーラインがより強調されて、胸の圧倒的なヴォリューム感がアイマックスレベルの臨場感で迫る!

男とは違う別の意味での威圧感、いや、圧迫感が逆に嬉しい!

「なっなに? 斬山さん」

「ツカサでいいよ。今日、お昼一緒に食べない?」

「へっ? 僕と?」

「うん」

「いいけど……」

「じゃあ、決まりね。今からパン買いに行くから付き合ってくれる?」

「あっ、ああ……」


 購買部に立ち寄ったあと、ボクらはそのまま校舎の屋上へと上がる。

約束された青春スポットだ。

ここからは隣接する大学の校舎がよく見える。ちょうど良い段差を見つけ、ボクたちは横並びに座った。ひんやりしたコンクリートの地肌が心地よく感じられる。

「昨日、大丈夫だった? あれからちゃんと帰れた?」

「あん? うん、もちろん大丈夫だよ」

あれほど気になってる斬山を目の前にして、何を話していいのかわからずにオタついてしまう。

とりあえず今さっき買った焼きそばパンにかぶりついた。

斬山はハム・レタスサンドを取り出して、フィルムのテープをはがしサンドイッチのはじを一口かじった。

「そういや、斬、ツカサも弁当派じゃないんだね」

「いやいや、もちろん作るよ! これでもやってやれないことはないんだよ! 時間があればだけど。あーっ、その顔! 疑ってる?」

「いや、別にそう言う訳じゃ……」

「今度作ってくるよ。なんなら君の分もついでに! ケント君は何が好き?」

「えっ、本当に? なんか悪いね。じゃあ、ええと……ええと……」

「OK! わかった! おまかせね!」

「……」

微妙に噛み合っていないが、この会話だけでご飯が何杯かいけそうな気がする。

しかし斬山の手作り弁当、この約束って本当に実現する日は来るのだろうか……。

「そう言えば、ツ、ツカサは、カッ、カラシとかは?」

「カラシ? ちょっと苦手かな」

彼氏がいるのかどうかについて踏み込んだ質問をしようとして肝心の部分を噛んだ。

「へええ……、意外、だな。モテそうなのに」

「そう? 普通、そんなものを持ち歩く女子高生って、いるのかな? 持ってそうに見える?」

「……どうかな? 欲しい、とかは?」

「今は要らないかな」

「そっか……でも刺激にはなるんじゃない?」

「確かにそうかもね。ケント君は好きなの?」

「うん、好き……いやいや、ソレ(男同士)はマズいな……」

「ふーん、不味いってことはスキじゃないのか……。ところで話変わるけど、メイについてどう思う? 彼女、最近何か変わったとことかってある?」

「メイ? 片平メイのこと? なんでまた唐突に?」

「あっ、いや、君たちは中等部から一緒だったから。仲いいのかなー、なんて」

「そっか、ツカサは高等部からこの学校に入学して来たんだっけ……」

「うん、そう。そうなの……」

「どうって、サイレントドジっ娘だってことぐらいしか……メイには思い浮かぶところはないな。それ以外は特になにも」

「そっか。じゃいいや」

「いいのかよ!」

「うん、忘れて」

 自分から話しをふっておきながらなんというそっけなさ! それに昨日、ツカサとメイは一緒に帰ったんだから直接本人に聞けばいいのに……なぜ僕に聞く?

「なんで……」

「あっらー! そこにいらっしゃるのは、斬山ツカサさんじゃありません?」

だっ誰だ? 二人だけのなごやかなランチタイムに乱入してくるやつは?

見上げると真昼の太陽を頭上に頂き、逆光の中に毅然としたシルエットが浮かぶ。

ゴージャスな巻き髪をリボンで束ねたヘアスタイル、胸の下で軽く腕を組み、ツンと立つその姿。

現れたのはえーと、確か隣のクラスの……、顔は時々見かけるが別クラスにいる女子のことなんかいちいち覚えていない。そこから先は斬山があとを引き継ぐようにつぶやく。

「レ、レイ……レイコ、じゃない、レイラ……でもない……」

「レイカ! 綾瀬川レイカよ!」

痺れを切らして本人から名乗った。

確かに聞いたことのある名前だ。噂に違わずお嬢様キャラのようだ。

「友達なの?」

「ううん」

ボクの質問に目を真っ直ぐに見つめて、即、首を横に振る斬山。

「ツカサさん、あなたこんなところで何をなさっているの?」

「何をって、ランチだけど……」

「そんなことしている余裕、ないんじゃありませんこと?」

何だか高飛車な物言いに聞こえる。

「余裕も何も、昼休みだし……」

レイカはまるで僕の存在などこれっぽっちも気にしないようすで、人の頭越しに斬山に話しかける。

何だかよくわからないが彼女のことをたしなめているようだ。

「そんなコトだから、なかなか進展しないんじゃありませんこと?」

「……」

ぶっちょうずらのツカサ。

「それに、この私に何の連絡もしてこないようでは、ホウ・レン・ソウの基本もできていないと言わざるを得ませんわ」

「ホウレンソウ? カラダに良い緑黄色野菜が何か……」

僕はつい口を挟んでしまった。

「報告、連絡、相談の頭の部分をもじったビジネスマナー上の基本事項のことよ」

斬山がそっと耳打ちして教えてくれた。

「やはり私がいなければ、あなただけではどうにもならないようですわね」

レイカの高飛車な上から目線は変わらない。

「あなたこそ、その手に下げているお弁当はどうするの? 早くしないと昼休みが終わってしまうわよ」

確かに。斬山が忠告するまでもなくあと数分で午後のチャイムが鳴りはじめるだろう。購買部を経由する際に思ったより時間を取られてしまったようだ。

「ご心配には及びませんわ」

あくまで優雅に、冷静に応えるレイカ。

「悪いけど、私たちは先に行くね。行こ。ケント君!」

「う、うん……」

「せいぜいそのボーイフレンドと仲よくすることね! ツカサさん!」

静かに、不敵な笑みを浮かべる綾瀬川レイカ。

さながら湖面を優雅に滑る白鳥のごとく、至って冷静だ。

だが、階段室のドアをくぐる時、レイカの方を振り返ると、顔を真っ赤にしながら急いで弁当をかきこんでいる彼女の姿が見えた。

一見、優雅に見える白鳥も水面下では必死に脚をかき回して水に抗っているという。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る