第3話:科学者と怪しい研究

 ここは、遺伝子工学分野における研究者の育成を使命に、最先端の研究による社会的貢献を目指すべく創設された「新都市学園大学」のキャンパスである。

「学校法人新都市学園」グループの総本山となる同大学には、中高一貫校が併設されており、本大学を志望する場合、中等部から進学することが一般的な進路となっている。いわゆるエスカレーター式というやつだ。

都市型教育機関の例に漏れず敷地面積自体そう広くはないが、地上20階のタワー型校舎を中心に学科別に分かれた研究棟、500人を一度に収容できる講義堂、バスケットボールコート2面分の体育館、テニスコートが3面取れる簡素なグラウンドを持つ。余談だが、この大学の学食は安くて美味いと評判で、昼には食堂へ向かうエレベーターが常に混雑する状態だ。最上階に設置された食堂からの眺望も手伝って当校の生徒や教師以外にも、近隣の住民や他校の学生も利用しに来るからだ。

そして当大学が真価を発揮するのは、その気になりさえすればレベル4ウイルスの取り扱いも可能な最新設備を備えた研究棟にある。またアクセスにも優れ、その利便性から国内外の研究者や関係者が頻繁に訪れる最先端の研究機関となっている。

課外セミナーやフォーラムも積極的に開催され、他の研究機関との交流も盛んだ。

事実、共同研究の成果を世間に公開することもしばしばあった。

しかし、本日の小笠原慎也教授による応用遺伝子工学に関するフォーラムは、いつものそれとは雰囲気が異なっていた。会場となる講義堂は照明が落とされ、すり鉢状に並んだ席を埋める聴衆のざわめきだけをほのかに浮かび上がらせていた。参加者は学校関係者や研究者、学術誌の記者などあらかじめ招待された者たちだ。彼らはフォーラムが開催されるまでの束の間、壇上で準備に追われるスタッフの動きを見下ろしていた。開催時間を少し過ぎた頃、ステージ下手にスポットライトが灯されインカムを付けた人物を照らし出した。皆の視線はライトの先へと誘導され、そのまま司会者を注視する。スーツを着た若い女性だ。

「本日はお忙しい中、新都市大学、応用遺伝子工学研究フォーラムにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。当フォーラムの司会進行を務めさせていただきます、堀江美由紀と申します。宜しくお願い致します。

早速ですが本学部の主任教授を務めます小笠原慎也に登壇いただき、本日のプログラムに移って参りたいと思います」

司会進行役の堀江美由紀と入れ替わりで、白衣を着た初老の男性が登壇する。

白髪混じりの頭、深く刻まれた皺が彼の頑冥な性格を表していた。

だが、眼鏡越しに覗く眼光には、瞳に宿る好奇心に満ちた輝きを未だに失ってはおらず、精力的な活動家であることを感じさせた。

小笠原教授の登場を歓迎する拍手が起こったが、必ずしも好意的なものばかりではないようだ。

「小笠原です。皆さんの貴重な時間を無駄にすることはできませんので、早速始めたいと思います」

挨拶もそこそこに、教授は聴衆に向かって雄弁に語りかける。

「周知の通り、我々人類は自身を取り巻く周辺環境を改変することで自然の脅威から生存に有利な状況を人為的に造り出し、ここまで生きながらえてきました。

しかし、我々個々人の生命を脅かす要因を完全に消し去ることなどできません。

傷病や事故、凶悪な事件など不測の事態もあり得ます。

そういったインシデントに対し、人類の肉体はあまりにも脆弱すぎるのです。

突発的な脅威から身を守る手段を持たないために失われてしまう大切な命が今もなおあります」

「大切な命……」

助手として教授の研究室で働いている手前、本日の司会進行役を買って出た堀江美由紀は、教授が今語った言葉を頭の中で繰り返し、彼と彼の家族が被った不幸で悲しい出来事を思い出し、暗く重い気持ちに囚われた。

「人々がより安全な暮らしを手に入れ、安心して過ごせるようになるために、我々科学者は何をなさねばならないのか、今一度考えたいと思います」

ここで小笠原教授は一呼吸置いて顔を上げ、聴衆の方に視線を向けた。

特に大きな反応はないことを確認すると、続けて語りはじめる。

「では、どのようなアプローチが検討されるべきでしょうか。

まずは、より安全な社会に向けて環境を整備しつつ危機管理を徹底するべきでしょう。しかし、それは私の研究テーマではありませんので、他の機関に委ねることとしましょう」

教授の独特な言い回しにマスコミ関係者席に座る科学専門誌「C&Sグラフ」の記者、梶谷徹は少々辟易しながらも、教授がいつ本題に入っても聞き逃さぬようにと彼の話に集中していた。

「当研究室では、遺伝子解析およびゲノム編集により後天的に獲得可能な身体拡張能力について研究してきました。得られたデータや技術は民間事業者と共有し、医療、とりわけ再生医療の分野において既に応用されているのは周知の通りです。

これをさらに突き詰め、古い規制に囚われることなく最新の遺伝子編集技術を有効に利用することができれば、我々人類にとってさまざまな恩恵をもたらすことが可能となります」

ここで教授は壇上の水に手を伸ばし、呼吸を整える。

「例えば、些細な傷病などに命を脅かされることのない頑健な肉体と精神を併せ持つ、新しい人類を誕生させることも可能です。

私はそれを人類進化の一つの到達点と考え、ネクスト・ヒューマンレイス、“NXR”と呼称しています」

ゲノム編集による医療的なアプローチ、とりわけ再生医療の分野において、IPS細胞技術を筆頭に飛躍的な進歩を遂げ、既にさまざまな分野で利用されていることは確かだ。しかし今、教授が切り出した話には、病気や怪我により失った機能を補ったり正常値に近づけたりして、社会復帰を促すための再生医療的範疇を遥かに超えた不穏な内容を含んでいるように感じられた。場内に困惑の波紋が広がりはじめ、聴衆の間にざわめきが起こった。

「お話が唐突すぎて、おっしゃっている意味が良く解りません」

記者である梶谷徹は、皆の視線を一斉に浴びることもいとわず、小笠原教授に疑問を投げかけた。

教授は予期していたかのように、至って冷静に続ける。

「人類の永続的な繁栄を願ってのことです。誰もが長寿を全うし、科学の恩恵を享受することができるようになれば、素晴らしい未来が開けるとは思いませんか?

次世代の人類、NXRは、文字通り地球上のあらゆる生命体の頂点に立つ種、いや、人類を次のステージへと押し上げるプロジェクトそのものを意味します。

このネクスター・プロジェクトでは特定の生物が持つ優れた再生能力や有害物質に対する耐性、衝撃から主要器官を守る防御能力、突発的なアクシデントをも回避する俊敏な反射神経など優れた能力を発現させる遺伝情報を後発的に人類の遺伝子に組み込むことを想定しています。遺伝子改変プログラムを搭載したベクターウイルスを対象者に投与するだけですので、大きな設備投資はまったく不要なのです」

「人間の遺伝情報を改変するということですか? 安っぽいSFではないですが、得体の知れないモンスターを生み出すことにはなりませんか? それが逆に人類を追い詰めるような結果になることは?」

梶谷の直接的で稚拙な表現に参列者の中から嘲笑が起こる。だが、皆の懸念も突き詰めればそこにあるだろう。

「確かに、ある意味ではこの人為的な進化促進の果てに、遺伝子の継承を自然淘汰に任せてきた従来の人類は終焉を迎えることになるかも知れません」

教授の返答に、それまで静観していた聴衆にもどよめきが広がった。

それを制止するように、教授は声のトーンを一段上げて話し続ける。

「しかし、考えてみてください。我々人類は古来よりさまざまな道具を生み出し、利用したり身に纏ったりすることで能力を拡張しながら生き延び繁栄してきたということを。バイオテクノロジーもまた人間の生み出した技術としてその延長線上に位置付けられるならば、それを最大限利用することは当然の帰結と言えます。

これは我々人類にとって必然的な選択であり、進化を司る神からの福音なのです!」

「詭弁だ!」

小笠原教授の芝居がかったセリフに、野次にも似た声があがる。

「ですが既に進化の終焉に達し、環境適応能力を失いつつある人類には種としての衰退が見え始めています。一旦、袋小路に迷い込んだ生物は遅かれ早かれ延命措置を取らなければ滅びの道を進む事になるでしょう。我々には足踏みしている時間的猶予はないのです。危機が具現化してから準備を始めても遅いのです。残された道は肉体そのものを人為的に改変し、強靭な種族へと自らアップデートを重ねる以外に打開策はありません。肉体を遺伝子の乗り物と捉えるならば、乗り換えや上位互換も何ら不自然なことではありません!」

これを契機にさまざまな思想や意見が場内を飛び交った。

「トランスヒューマニズム(超人類主義)は非常に危険な思想だ!」

「これは重大なバイオハッキングを誘発する可能性がある行為だ!」

「だが他国では密かに研究が進んでいるというじゃないか! 我が国が遅れをとること自体、憂慮すべきことではないのか?」

「仮に教授の言う通りだとしても、現時点では法整備も追いついていない。このまま看過するわけには……」

「小笠原君の提案には一理あると思うが、性急すぎやしないかね? もっと慎重にだな…… 」

「いやいや、だからいつまで経っても先に進まんのだ!」

誰かの意見や発言が呼び水となって、同調する者、反論する者が入り乱れ、場内は一時騒然となった。

「皆様! ご発言の時間は後ほど取らせていただきますので、お静かに願います!」

司会進行役の堀江美由紀は、何とか会場内の秩序を取り戻そうと奮闘するが、混乱しヒステリックになった聴衆にかき消されてしまう。収集のつかなくなった状況に、翻弄されオロオロするばかりだ。

梶谷徹は慎重に言葉を選びながら教授への質問を重ねる。

「繰り返しになりますが教授のおっしゃる人類の延命措置によって生み出される超人? NXRとおっしゃいましたか? 我々従来の人類との間に苛烈な生存競争が起きたりしませんか? また、その過程においても国家間の軋轢を生むことには?

例えばスーパーソルジャー構想のように軍事利用に走る国家が出てくるのではないでしょうか!」

「だからこそ我が平和国家が先行して実現し、他国への平和利用を先導してみせる必要があるのです。残念ながら我々の世代は対象外ですが、丁度、思春期前後の少年少女を対象にすることで精神的にも肉体的にも安定して優れた人類を生み出すことができるのです。彼らを第一世代とすると通常の生殖行為によりNXRの遺伝情報を効率的に次世代へと継承させることが可能です。後は緩やかな世代交代によって最終的には全人類が上位種族へと移行することを目指しています。多少のタイムラグや世代間の軋轢があったとしても、この先に続く人類史の中では大した問題とはならないでしょう」

「一体どうやって、第一世代となる被験者を選定するのですか? そのような劇的な変化を後天的に発現させる方法とはいったい?」

「可能です。後発的に遺伝子への介入を行うために一旦、全遺伝形質をリセットする必要がありますが、それには昆虫類の持つ完全変態能力を利用します。また、被験者選定についてはこれから志願者を募るところです」

「昆虫? 変態というと、幼虫・蛹・成虫のような変化のことですか?」

「そうです。人類にもこの蛹の期間を設定することにより、蝶が羽化するがごとく、さまざまな可能性が生まれるのです」

「蛹だと?」

どよめく聴衆。さすがに梶谷もたじろぎ、思わず私見で質問を重ねた。

「教授、現段階では時期尚早に思われます。先ずは倫理基準や法整備が必要となるのでは?」

「それは我々科学者の仕事ではありません。そのための働きかけが必要な事は認めますが」

教授の今の発言を受け、強い口調で反論する者も出始めた。

「道徳心を持たぬマッドサイエンティストめっ!」

「生命を弄ぶ愚かな行為だ!」

「科学は常に進歩しなくては、未来はないのです!」

「リスクの高い人体実験は許されない! これは神への冒涜、いやっ、人類への裏切り行為だ!」

「生命には、変革を受け入れる柔軟性があります!」

1対他の状況にたじろぐことなく、教授はあくまで冷静に答える。

「あんたには、倫理観はないのか?」

「教授! あなたはそれが人類にとって正しい選択だと信じますか?」

梶谷の質問を拾いあげ、答える小笠原教授。

「それは問題ではありません。何が正しいかの判断は、後の歴史が証明してくれることです」

「まさか、既に人体への治験を済ませているということはないですよね」

「お答えする前に、まずは現在の研究状況をお見せします。正面のスクリーンをご覧ください」

教授の合図に堀江美由紀は、慌てて教壇の背後にある大型スクリーンの起動スイッチを入れた。

場内の照明は一段暗くなり、聴衆のざわめきも闇に埋もれて沈静化し始める。小笠原教授の背後に出現した巨大なスクリーンがアクティブになると、画面に新都市大学の校章をデザインした3DCGのアイキャッチが浮かび上がる。

次にタイトル「NXR・人類進化の鍵となる遺伝子改変プロジェクト」と表示され、映像の開始を告げる。実験の経過をレポートする記録映像のようだ。

さまざまな機材が置かれた研究室の一区画と思しきガラス張りの部屋で、実験台に向かって作業を進める若い女性スタッフの後ろ姿が写る。

カメラの方へ向きなおったその女性は教授の実験をサポートするアシスタント研究員の一人なのだろう。

顔半分はマスクで覆われ確認できないが大きめのメガネとゆるふわにまとめた髪、ボタンを留めずに上から羽織っただけの白衣、その下に見えるのはおそらくどこかの高校の制服だろうか。スカートの下からは素足がのぞいていて、およそプロフェッショナルの現場に似つかわしい人物とは思えなかった。この記録映像のために急遽駆り出されてきた素人モデルというところだろうか。

彼女の案内によってカメラは次の部屋へと移動する。

さらに2重扉をくぐると、そこは実験動物を管理する区画なのかステンレスのケージや透明な仕切り板で区切られたケースが壁に沿って並んでいた。

撮影者に目で合図を送ると女子スタッフはここでカメラからフレームアウトする。

被写体を失ったカメラは新たな対象を求めて焦点距離を測る。

背後の壁に沿って置かれたケージには仕切りがあり日付の書かれたプレートが付してあった。中には暗褐色の物体が1つずつ収まっているのが見てとれる。

それはラクビーボール大の大きさで、滑らかな木彫りの彫刻か琥珀でできたオブジェのように見えた。

オレンジからこげ茶色まで表層に個体差があるが、全体を横並びに見ると綺麗なグラデーションを描いて収まっていた。

これが教授の言う何かの生物が蛹化(ようか)した姿なのだろうか?

確かに、このサイズの昆虫など自然界に存在するはずもなかった。

カメラは日付の古いケースを目指してさらに接近していく。

スクリーン上にひときわ黒味を帯びた個体が被写体としてフォーカスされる。

硬く艶やかな外皮に覆われた物体の表面には、有機的な模様が浮かびあがっているのが見てとれる。

カメラのズームはそこでそのまま止まる。

被写体を注視していると微かに脈動をくりかえしながら頭頂部に直線的な亀裂が現れ始めた。それがみるみる押し広がり裂け目となっていく。

内側からの圧力によって何かが外に出てこようとしているようだ。

今、まさに新たな生物が誕生する瞬間だった。

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