第2話 いざ鵠沼

娘の流す音楽で秋子は目を覚ました。

あっ!もうこんな時間。洗濯しなきゃ。

バタバタと家事をして、一段落した後に

スマホに目をやると通知に気が付く。

…彼からフォローバックされている。秋子は嬉しくなって鼻歌を歌いながら投稿を見た。

今日も彼は海にいる。

 そこに娘がやって来て、冷蔵庫の中を物色すると、ヨーグルトを取り出しリビングで食べ始めた。秋子は美鈴に鵠沼海岸の事を聞いてみた。

「美鈴。この前行った鵠沼海岸はどうだったの?」

すると娘の反応は冷ややかで、

「別に~ただの海だよ」

なにそれ。秋子はこの夏、娘をどこにも遊びに連れて行っていないから、ふてくされているのだろうかと思った。しかし、なんか違う。この時は母親の勘が働いた。

そういえばあの日、友達と遊びに行って来たにしては暗い感じだったのを思い出した。

気になったが最近ドライな娘の事だ…

 彼の投稿を見直す。学生の頃のトレードマークだった黒縁メガネはもう付けておらず、華奢で猫背だった彼の身体は鍛え上げられ勇ましく見えた。秋子はひさしぶりに興奮を覚えたが、髪の毛はあの頃と同じくボサボサだった。

「フッフッ。やっぱりトオル君だ。」

興奮と安堵のその先に、江ノ島と彼を朝日が照らしていた。

離婚というエネルギーを使う事に疲れ、今の環境にはなれたが、日々変わらない退屈な生活の中に埋もれていた秋子にとって

今、目に映る彼は眩しい朝日の様であった。

「鵠沼かぁ~明日は特に予定もないし行ってみようかな。」その日、秋子は終始ソワソワして過ごした。

 翌日の朝いつもより早く起きた秋子はもちろん彼のTwitterをチェックした。今日は何も投稿していない。「まっ、いいか」

別に会って話せる訳でもないし。

娘の朝食を作り、身支度をした。鏡に映る秋子はいつもより輝いていて、今までの自分と決別をし、どこか新天地へと飛び立つ鳥の様だ。

当の本人は全く気が付いていない。

寝ぼけ眼でトイレに起きて来た美鈴は母の異変に気が付き、「あれ、どっか行くの?」

思わず声をかけた。

「うん。ちょっと用事が出来てね~夕食前には帰るからお昼は適当に食べてね。」

秋子は悟られまいと、わざと忙しい振りをして家を飛び出した。

 吉祥寺の駅に着くと普段は使わない井の頭線に乗り込み、多分10年ぶりくらいに来た下北沢で小田急線に乗り換える。

「ずいぶんと様変わりしたわね。まるで浦島太郎だわ…」

急行藤沢行きの電車の中で秋子は胸の高まりを隠せずに思わず微笑む。遠出するのさえひさしぶりなのに

このまま海へ。

かつての想い人の大好きな海へ。

 いろいろと妄想しているうちに藤沢駅に着いた。片瀬江ノ島行きに乗ると鵠沼海岸駅はすぐだった。

「あれ。海が見えないな…」

秋子は江ノ電と勘違いしていた。なんか思っていたのと違うな…改札を出ると小ぢんまりした商店街。吉祥寺のまるで蝉時雨のようなざわつきなどなく、人もまばら。

確実に時間はゆっくり流れている。地図を便りに海岸を目指す。まだ海は見えない。

と、その時秋子は感じた。

懐かしい、いつぶりだろうか。海の匂いだ。嬉しくなり歩調も早くなる。

頭の中でジャズでも流れているのだろうか。sing sing sing

「あぁ~ダメだ…」お腹が空いた…

そう。朝食を食べていない。吉祥寺から電車で一時間半。通りの右手に喫茶店を見つけた。今すぐ海岸に行きたい気持ちに勢いよく蓋をすると、気持ち小さくなって店に入った。

コーヒーのいい香り。

「いらっしゃい。好きなとこ座って。」

マイク真木の偽者みたいなマスターが言った。秋子は遠慮がちに入り口近くの席にポツンと座った。オリジナルブレンドコーヒーとサンドイッチを頼むと、店内を見回した。

入り口には段ボールに積まれた卵、古い本にレコード、色褪せたフラワーロック。

どこか懐かしく、タイムスリップしたような感覚を覚えた。吉祥寺のコジャレたカフェなんかより断然良い。

レコードからは

エディット・ピアフの「パリの空の下」が流れている。これは祖父が大好きな曲だった。

曲とコーヒーの香りでとろけそうになっていた秋子だったが、奥の席にいる若い女の子に目が留まった。

うちの娘より少し年上だろう、ひどく悲しそうな顔をしている。首に巻いた白いストールにはブーゲンビリアの花が描かれている。「はい~お待たせ~」マイク真木の偽者みたいなマスターが秋子の目線を遮った。「うわぁ~」他人が作った料理がひさしぶりの秋子はひどく喜んだ。

彼の事は頭の隅っこに追いやっていた。

サンドイッチを完食した秋子は満足し、コーヒーを啜りながら独りの時間を楽しんだ。

そこに車椅子のおじいさんが孫であろうか、男性に押されて入って来た。するとマスターがびっくりした顔をして、おじいさんに歩み寄り笑顔で挨拶をした。

常連さんなのだろう。かなりの高齢の方だ。しかし凛としていて、目は鋭くどこか怖さがある。

羽織っているジャケットには菊の御紋が鈍く輝いていた。

「あっ。」秋子は喫茶店目的で鵠沼海岸に来た訳ではない事を思い出した。

お会計を済ませ店を出ると振り返り、店を見た。なんかとても素敵なお店を見つける事が出来たと微笑んだ。

 少し歩くと海の匂いは強くなり、公園を抜けると広く美しい相模湾が目にぶつかってきた。「あぁ~海だ…」思わず秋子は口に出して言った。江ノ島が左手に見える、いつものニュース画面では目にしない、そのアングルの風景に秋子はしばらく見入った。




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