第12話 神官セレナの思案
「カノンちゃん。今すぐに『人戻し』を持ってきて。原液のまま使うよ」
セレナは素早く指示を飛ばして、母親を小屋の中に招き入れる。
そうして小屋の中に入った母親は、溢れ出す言葉が口をつき、何度もどもりながら……それでも言葉を口にした。
「きゅ、急になんです。急に姿が見えなくなって。慌てて、部屋に行ったら……こ、この子が、魚になってて。服の中に、この子がいて!」
パニックになってしまって要領の得ない母親の説明を聞きながら、セレナは心の中で歯噛みした。
……間違いなく『
その末期症状だ。
だが、あまりにも症状の進行があまりに早すぎる。
彼女たちがこの村にやってきたときは、病が蔓延して2週間目だった。
その時ですら、まだ人は完全に魚になりきらずに姿を保っていたのだ。足や背中は置いておいても、完全に魚になってしまった者はいなかった。
「神官様、神官様。ウチの子は大丈夫なんでしょうか!? 助かるんでしょうか!!?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと人に戻ります」
なぜ急にこんなことになってしまったのか。
それを考えるよりも先に、セレナは目の前に振ってきた困難に手を付ける。
「セレナ、持ってきたわ」
「ありがとう。カノンちゃん」
そういって受け取った黒い薬品は……もう、残りが3分の1しかなかった。
しかも今までは薄めて使っていたのだ。これを原液のまま使うとなると、薬はいったいどれだけ持つだろうか……。
と、そこまで考えてセレナはその思考を振り払った。
今はマイナスなことばかり考えていたってしょうがない。
子どもを救わなければならないのだから!
「……大丈夫。すぐに、戻るから」
セレナは桶の中にいる小さな魚を持ち上げると、『人戻し』の黒く粘性のある液体を……そっと、垂らす。
重力に引かれるようにしてどろりと垂れた薬品が、その鉛色した体表に触れた瞬間に……しゅぅぅうううう!!! と、熱した鉄を水に入れたかのような音と煙を上げ始めた。
「カノンちゃん。『嘔吐薬』を……」
「もう準備してるわ」
「……ありがとう」
煙とともに、魚だった少女のからだが段々と元の大きさに戻っていく。
『人戻し』の中に含まれた反作用の概念が、彼女を人間へと戻してくれているのだ。
「お母さん。念のために聞きますがちゃんと飲むためのお水は沸かしてましたか?」
「は、はい! それはもう! その子が水を飲む時は、必ず沸かしたばかりのお湯をあげました」
「……そう、ですか」
だとすれば汚染された水によって症状が引き起こされたわけではないのだろうか?
果たして、嘔吐薬を飲ませても意味があるのだろうか?
「……ひゅう」
その時、小さな息をあげて……一糸まとわぬ少女の姿が、現れた。
だが全身からは蒸気があがっており、体表の温度も酷く熱い。
「カノンちゃん。冷たいお水を持ってきて、この子の熱を下げないと」
「分かったわ!」
カノンはそういって小屋から出ていった。
彼女はとても素早く動く。
それを待っている間、セレナはいくつか母親に尋ねた。
「何か異変はありましたか? 水を飲みたがるとか。川に入りたがるとか」
「異変……ですか」
「何でも良いんです。お母さんから見て、気になったことがあれば教えて下さい」
「……そう、ですね」
少しの間考え込むような様子を見せた母親は、何か思い当たったのかゆっくりと口に出した。
「あの、昨日のこと……なんですけど。急に、生まれる前の話をしだしまして」
「もしかして、生まれる前は魚だったって……話ですか?」
セレナがそう問いかけると、母親の方は信じられないと言わんばかりに目を丸くした。
「そ、そうです! ずっと昔は魚で、生まれる時は私が水を飲んだから身体の中に入ってきたって……そんな変なことを言ってて」
「……そう、ですか」
「で、でも……。それは夢ですし、この歳くらいの子供だったら、そんな変なことも言うだろうって……気にも止めなかったんですけど」
間違いない。この村で
そしてそれは、『
間違いなく――《厄災》だ。
「セレナ。お水持ってきたわ!」
「ありがとう。布でこの子を拭いてあげて欲しいんだ。いますごく熱い、から」
「分かったわ」
セレナはその子の後を任せた時に、再び扉が叩かれた。
慌てて開くと、そこにはパニックになった村人たちが押し寄せていて、
「神官様! うちに来てください!」
「大変なんです。急に身体に鱗ができて……」
「水飲んでも何も変わらなくて」
口々に聞かされる言葉をセレナは真正面から受け止めたセレナは、村人たちをなだめて『人戻し』と『嘔吐薬』を持って村に飛び出した。
一体、自分に何ができるのかすらも分からないまま。
すっかり日が暮れても、騒動は収まらなかった。
むしろ、パニックは加速していた。
何しろ『
ことはなく、胃液を吐き出すだけなのだ。かと言って、重症になっていないものに『人戻し』を使うわけにもいかない。
村人たちが病に伏していくのに、セレナは何も根本的な対策が打てないのだ。
だから、彼らの病が進行していくのをただ見ていることしかできない。
さらに信じられないほどの早さで病が進行した子どもたちに、セレナが惜しみなく『人戻し』を使ったことでその在庫も尽きてしまった。本当に、何も出来ることがなくなったのだ。
「……神官様。どう、なるんでしょうか」
「俺たち、魚になるんですか?」
「死ぬんですか?」
月は雲で覆われて、すっかり闇に沈んだ診療小屋。
そこで、横になった患者たちが口々に悲鳴を漏らす。
絶望に沈む彼らを元気づけるように、セレナは大きく言った。
「だ、大丈夫です。ちゃんと私たちが治しますから」
いや、そうとしか言えないのだ。
隙間時間のなかで医学教本を穴が空くほど読み込むのだが、それでも病の治療法はセレナが知っている以上のことは記されていない。毒を体外に出そうにも、吐かせても吐かせても毒は出てこない。
なぜ彼らの病が進行しているのか。
それすらセレナには分からないのだ。
歯噛みするほど悔しい時間が流れていく中、小屋の中にルーネが戻ってきた。
「セレナ様」
「ルーネちゃん。どうだった……?」
頼みの綱は、彼女の索敵だった。
森の中に《厄災》が残っているのであれば、まだ対処できるかもしれない。
セレナはそんな
「森の中には……何も。本当に、何もありませんでした」
「……ごめんね、こんな時間まで。本当にありがとう」
「いえ……。お役に立てず、申し訳ありません」
ルーネには捜索範囲を広げてもらったのだが、それでも《厄災》は見つからなかった。
……ならば、出来ることは対処療法しかない。
「あのね、ルーネちゃん。立て続けで悪いんだけど、近くの教会に行って『人戻し』と応援を頼んできてもらいたいの」
「かしこまりました。戻ってくるまで、お二人で大丈夫ですか?」
「うん。なんとかするから」
そういって頷いたセレナだったが、ふとあることに気がついた。
「……あれ? カノンちゃんは?」
「私はお見かけしてませんが……」
カノンの姿が見えないのだ。
だが時刻は夜。こんな忙しい時に、自分の元から黙って離れるような子で無いことはセレナが誰よりも知っている。
だからこそ、その違和感に気がつけて、
「か、カノンさんなら……さっき、外にいたのを見たよ」
「本当ですか? ちょっと、見てきます」
先程、診療小屋にやってきたばかりの村人の話を聞いて外に出てみると……カノンはすぐに見つかった。
何しろ道のど真ん中に倒れていたのだから。
「カノンちゃん!?」
慌ててセレナは駆け寄ると、カノンの身体を起こす。
触った瞬間に彼女の手に凄まじい熱が走った。
「凄い熱……。カノンちゃん、大丈夫!?」
「……あ、セレナ。ごめん。寝てた」
そういって身体を起こそうとするカノンだが、その動きはとても重い。
そもそも道の真ん中で倒れているなんて、ただ事ではない。
何が起きたのか、それをセレナが問いかけるよりも先に……カノンが答えた。
「変な、夢を見たわ……。私が、生まれる前の……すごく、懐かしい夢……」
「……っ!」
セレナはカノンの裾をめくった。
そこに見えたのはカノンの綺麗な白い足……ではない。
魚の鱗がびっしりと覆った、変質した足が、そこにあった。
「な、んで……」
ありえない。
彼女がセレナの指示を絶対に破ることはない。
だから、水を沸騰させずに飲むなんてことは……ましてや、汚染されている可能性がある水を身体に取り込むようなことは絶対にしない。するはずがないのだ。
だとすれば、一体原因は何なのか。
水ではない。それは村人たちだけではなく、カノンですらも発病してしまったことから明らかだ。
だとすれば、原因は何なのか。
何をすれば、人々を癒せるのか。
セレナは頭の中が真っ白になっていくのを感じながらも、なんとかカノンの身体を起こして……診療小屋に運ぶ。
その時、ルーネが小屋から出てきて、担ぎ上げているセレナの代わりにルーネを担いだ。
「せ、セレナ様。カノン様はどうされたのですか!?」
「……カノンちゃんも病気になって」
「そんな……」
その時、ぽつりと雨粒が滴った。ずっと雨を抱えていた雲が、ついにその限界を迎えたのだ。そして、ついに決壊した雲からは、激しい雨が振り始める。
それは激しい雷鳴を
「早く入りましょう。カノン様が風邪を引かれてしまいますわ」
「そう、だね……」
服がずぶ濡れに鳴っていく中で、セレナは思わぬ閃きに襲われた。
全ての歯車が、自分の中で噛み合ったのを理解した。
「……分かった」
「セレナ様?」
雨に身体が濡れていくのを気にすること無く、セレナは亡霊のようにうめいた。
「分かったよ、ルーネちゃん。この病の原因が。飲み水なんかじゃない。村の人たちは、みんな対策してた。最初から、ずっとそればっかりに囚われてたんだよ」
降りしきる雨に負けることなく、セレナは大きく顔を上げて
「これは、
そう言った。
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