第6話 神官セレナは仕事人

「『人戻し』って?」


 初めて聞いた薬の名前に、カノンは尋ねた。


「強力な、薬だよ。《厄災》との戦いで、変化した人を戻すために作られたの」

「……変化した、人?」

「《厄災》の中には人間に影響を与えてその姿を変化させたものもいるの。昔、戦った相手だと人をキノコにして街全体が胞子で覆われてたこともあったよ」

「き、キノコに!? それって……どうなったの?」


 セレナのその言葉に……思わずカノンは息を飲んだ。

 それは喜ばしいことだ。災厄によって変質させられた人間が元に戻る。


 だが果たして、キノコが人に戻るような劇的な変化を可能にするのは……一体、何なのだろうか。


「その時に開発されたのが、『人戻し』。普通は人の肌に垂らしたら、焼き付いてあとに残るくらいに強い薬なの」

「そ、そんなものを使っても大丈夫なの?」

「うん。これには強力な『反作用』の概念が含まれているの。つまりね、この薬は人間を拒絶してる。でも、厄災によって人でない方向に変化しているとき……この人を拒絶する薬は人以外になろうとすることに反作用が働くの。だから、人に戻る」

「そ、それ、誰が作ったの?」

「『大神官』様だよ」

「……なるほど。通りで」


 カノンは頷くと、セレナのカバンから薬を取りに戻った。


 それを見送ったセレナは3人の診療に取り掛かる。


「苦しくないですか?」

「ぷるふ」

「……大丈夫ですよ」


 声をかけても、エラから漏れだしたような小さな音しか聞こえない。

 だが、大丈夫だ。

 過去にはこれ以上に大きく変質した人ですら戻しているのだから。


 ただ、気になるのは。


(薬、足りるかな……)


 心配性のセレナと言えども、『人戻し』は最低限の量しか持ってきていない。

 まさか最初に足を運んだ村で、このような病が流行しているなんて思ってなかったのだ。


 そこまで考えて薬を用意するのは無理というもので、


(『嘔吐薬』は明らかに足りない。作らないと……)


 セレナは手の中にある青い薬を見た。

 その量は既に半分近く減っている。


 村人たちの内、42人が動けないほどに病状が進行している。


 その中にいる重症患者に『人戻し』を投与したとしても彼らを蝕んでいる毒を吐き出させるためには『嘔吐薬』が必須だ。そして、ここまで治してきた人たちの数から考えると、嘔吐薬が足りるとは思えない。


「セレナ。持ってきたわよ」

「ありがとう。カノンちゃん」


 セレナは黒い液体の入ったラベルを手に取ると、魚になってしまった人たちに向き直った。


「カノンちゃん。離れてて」

「離れる? どうして?」

「『人戻し』は人であることに対しても反作用が働くの。だから、薬が鼻から入っても大変なことになるんだよ」

「な、なんでそんな劇薬をカバンに入れて持ち歩いているのよ」

「……使うかなって」

「まぁ、アンタの心配性が役立ってるわけだけどさ……」


 カノンは参ったように大きく息を吐き出すと、セレナから離れた。

 それを確認して、セレナは大きく生臭い空気を吸い込んで――息を止めた。


 素早く蓋を開いて、コップの中に入れてある水に『人戻し』を数滴垂らす。

 その瞬間、まるで墨でも溶かしたようにドロリとコップの水の中に広がっていくと……完全に溶け込んだ。


「口を開けてください」


 セレナがひときわ大きな魚になった人に話しかけると、その大きな頭をぶるぶると横に降った。


「ど、どうしてですか」

「ぷすふ」


 そういって魚が向いたのは、3匹の中で一番小さな魚だった。


「……なるほど。分かりました」


 その意図を読み取ったセレナは頷く。

 彼は子供を最優先に癒やしたかったのだろう。


 小さな魚人の開いた口の中にセレナは薬の溶け込んだ水を流し込んだ。

 その瞬間、『人戻し』が効力を発揮する。


「――――――!!!!!!」


 音にならない絶叫を上げて、小さな魚は激しく全身をばたつかせた。

 そして、全身からどす黒い煙を上げ始めると、ベッドから落ちてその身体を壁に何度も叩きつけ始めた。


 ドン、ドン、ドン、と小さな魚が身体を叩きつけているだけなのに部屋が揺れる。それだけ苦しみから逃れようとしているのだと思うと、カノンは居ても立っても居られなくなって、セレナの肩を掴んだ。


「せ、セレナ!」

「大丈夫だよ。これと同じ光景が、キノコの時もあったから」

「……で、でも」

「カノンちゃん、次の水を。早くしないと、取り返しの付かないことになるの」

「わ、分かったわよ!」


 どれだけ心配に思ったところで、カノンは自分の知識も経験もセレナに遠く及ばないことを知っている。


 彼女は討伐が早く終わらせたいというだけで、神秘を極めた怪物だ。


 ならば、彼女が最も得意としている医療行為に対しての知識など……いかほどなのだろう。少なくとも、セレナが人を癒やしたいと思っている気持ちは本物であることは、カノンが誰よりも知っている。


 そう思ってカノンがセレナに新しい水を渡した瞬間だった。

 壁に身体をぶつけまくっていた小さな魚が急に動きを止めた。


 遅れて全身の鱗が逆立つと、ぱりん……と小さくガラスの割れる音とともに、全ての鱗が剥離はくり


 さらに背びれや尾びれが焼けていくような音をたてて煙がひときわ大きくあがると……それが晴れた瞬間には、そこに小さな女の子が倒れていた。


「カノンちゃん! その子を下の階に連れて行ってあげてください」

「分かったわ」


 指示を受けて、すぐに少女の身体をカノンは持ち上げた。


「…………本当に、流石ね。セレナ」


 そして小さな声でカノンは呟いた。


 セレナはずっと本気だった。本気でこの村を救おうとしているのだ。

 そして、ほとんど人ではなかった者を、彼女は元に戻してしまった。


 そんなことが、果たして今の自分に出来るだろうかと考えて……。


「私だって……頑張るわよ」


 カノンは静かに決意した。


 部屋に残されたセレナは手早く『人戻し』を水に溶かして残った2人にも服用させる。


 彼らも同じように苦しみに暴れたが、それでも少女のように壁に何度もぶつかるような自暴自棄な真似はせず……静かにベッドの上で人に戻る辛さを噛み締めた。


 そして、鱗が剥がれてヒレが焼け落ちると……そこには、ひどくくたびれた顔の男女がいた。


 きっと満足の行く食事が出来ていないのだろう。

 栄養状態は悪いように見えたし、それに何よりも水分が足りていない。


 それでも男の方がひどくかすれた声で、ほとんど聞き取れないような声で、セレナに対して言葉を紡いだ。


「……ありが、とう」


 その言葉にセレナは微笑んで、


「仕事、ですから」


 そっと包み返した。

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