8作目:余熱
空港の窓から見える旅客機は次々と発っていく。
数時間後には、俺もあの空の向こうだ。
未経験の土地で、果たして俺はやっていけるのだろうか?
……いや、やっていけなければ困る。
約束したのだ、大好きな彼女と。
世界一のコメディアンになると。
「……はあ」
とはいえ、あんなに可愛くて楽しくて面白くて最高な彼女と、しばらく会えないなんて。
無意識にため息がもれた。
「お兄ちゃん、ため息ついたらしあわせがにげるよ?」
ふと聞こえた声は、俺の目線の下の方からだった。
見ると、小さな少女。7、8歳くらいだろうか。
「君、名前は?」
「わたし、石田かえでって言います。7さいです」
聞きなじみのある苗字と、親しい何かを感じる名前。
彼女の名字と一緒だが、まさか妹なんてことは無いだろう。
年の離れた妹がいるとは言っていたが……。
まさか、サプライズで見送りに来ているだなんてことは無いだろうな。
彼女は俺が海外へ行くのを反対していたし。
それでも意見を曲げずにいると、最後には折れてくれた。
代わりに「世界一になるまで私の前に顔を見せるな!」とまで言われてしまったのだけど。
「親の人はどこにいるんだい?」
俺の問いに、少女は首を横に振った。
「今日はね、おねえちゃんといっしょに来たんだよ」
「そしたら、お姉ちゃんはどこにいるの?」
「おねえちゃんは迷子になっちゃった。まったく、おねえちゃんったら子どもなんだから」
迷子になっているのは、この子の方ではないのだろうか?
そう思いつつ、一応は少女の言葉を真に受けておく。
出発まで時間も無いが、このまま見捨ててはおけない。
「そしたら、一緒にお姉ちゃんを探そう」
***
「ちょっと、待ってくれ!」
「お兄ちゃん、はやく! こっちだよ」
少女は駆けまわるようにして移動するため、追いかけっこのような構図となってしまっている。
背が低く、すぐに見えなくなりそうだ。見失わないように目で追うのに必死である。
「なかなか足が早いんだな」
「お兄ちゃんがおそいんだよう」
そう言うと少女はいたずらっぽく笑う。
小癪な、それでいて、くすぐられるような笑顔。
つい最近までこんな笑顔がいつも近くにあった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
少女は足を止めた俺に近寄る。
きっと、さびしそうな顔をしてしまっていたのだ。
「なんでもないさ。それより」
近づいた少女の手を握った。
「人混みにまぎれると危ない。しばらくはこうして手を繋いでおこう」
「はあい」
少女はしぶしぶ俺の手を握り返した。
***
「おなかすいたよお」
走り回ったせいもあってか、少し空腹を覚えたらしい。
「おやつでも食べる?」
俺も小腹が空いた。近くの売店にでも寄ろう。
立ち寄った売店。商品のレパートリーは豊富だ。
そこらのコンビニよりかはお高めだが、どれを選んでも後悔は無さそうな雰囲気である。
「お兄ちゃん」
手をぐいぐいと引かれた。少女を見ると、陳列された商品のひとつを指さしている。
「わたし、あれがいいなあ」
指さされた先を見ると、美味しそうなチョコレートがあった。見るからに甘そうな、ミルクチョコレートである。赤い包装紙が食欲をそそる。
「好きなの? チョコレート」
「うん、大好き!」
少女は満面の笑みで言った。
うっ……可愛い。自分に対しての言葉という訳でもないのに、好意を表明しているというだけで少しときめいてしまった。
いかん、7歳の女児を相手になんたるざまだ。落ち着け俺!
「おねえちゃんも好きなんだよ、チョコレート」
「へえ、そうなのかあ」
そういえば、彼女も甘いものが好きだった。
放課後、帰り道でコンビニに寄ると、毎度のごとく甘味をねだられた。中でもチョコレートを選ぶ確率は高く、買ってあげると板チョコ一枚を数分でたいらげるのであった。
「このチョコレート、美味しいよな」
少女が指さしたのは、奇しくも彼女の好物と同じ種類のものだった。
彼女からちょくちょく分けてもらったので、俺も知っている味だ。
「お兄ちゃん、はんぶんこしようよ。ふたりで食べたら、ふたり分しあわせだよ」
「いいのか? ありがとう」
分けてもらったチョコレートの欠片を、ゆっくりと口の中で溶かしていく。海外ではきっと食べられないから、しばらくはこの味ともお別れだ。
カカオ含有率は特別高くなかったはずなのに、少しだけほろ苦く感じたのはなぜだろう。
***
「お兄ちゃんはどうしてくうこうにいるの?」
ベンチに座り、しばしの休憩中。
ふと、思い出したかのように少女がたずねた。
「お兄ちゃんはね、世界一面白い人になるんだ」
芸人としてというよりも、コメディアンとして世界中の人を楽しませたい。そのためには日本でのお笑い修行よりも、海外に出た方が効果的だと思ったのだ。
世界に通じるユーモアの真髄を身に着けるために。
「へえ、そうなんだ。すごいねえ」
「ありがとう。でも、すごくなんかないよ。これからすごくなるんだ」
そう、海外に行くからと言ってすごいことでも何でもない。
むしろわがままを押し通して誰かを寂しがらせている分、ひどいことなのかもしれない。
「じゃあ、これからすごくなるんだね。わたし、今のうちにお兄ちゃんにサイン貰っときたい」
そう言うと、少女は先ほどのチョコレートの包装紙の裏、白地の部分を見せてきた。ここにサインを書けということらしい。
若干こっぱずかしいのだが……この子が喜んでくれるのならいいか。
「いいよ。かえでさん、へ――」
少女の名前を書き、次に俺の名前を書いて差し出した。
「わーい、ありがとう! なんか、テストにかいた名前みたい」
当然だが、書き慣れていないからな。
というか、サインなんてどうやって書いたら良いのか分からん。
***
しばらくベンチで休んでいると、アナウンスが流れた。
『A国行き、13時発、283便が15番ゲートに到着しております』
もうそんな時間か。
少女のお姉さんを探してあげたいが、残り時間がわずかしかない。
「お兄ちゃん、もう行かなきゃいけないかも」
それを聞いた少女は、あからさまに残念そうな顔になる。
「ええ~、お兄ちゃんともっといっしょにいたいよ!」
言いながら手を強く握ってくる。そ、そういうことされると、こちらも離れたくなくなるのだが……。
一緒に海外に連れて行ってしまおうかという考えが、一瞬、本気で頭をよぎった。誘拐や連れ去りの犯人の気持ちがちょっとだけ分かってしまったかもしれない。
「……ごめんな。大好きな人と、約束したから。だから、どうしても行かなきゃいけないんだ」
断腸の想いで別れを告げると、少女はしゅんとした。
「お兄ちゃんったら、しょうがないんだから。じゃあ、さいごにあそこにつれていって!」
少女はおみやげ屋を指さす。中に入ると定番のキーホルダーやストラップが売っていた。
陳列されている中に、彼女が好きだったキャラクターのアイテムがあった。
「あ、お兄ちゃんもそのキャラ好きなの? わたしも、わたしのおねえちゃんも好きなんだ」
俺の視線に気付いた少女が問う。
「ああ、実は俺の大好きな人がこのキャラクターを好きなんだよ」
胸の中に、じんわりとあたたかい感覚が広がる。
やはり、この子のお姉さんは彼女なのだろう。
「ね、さいごのおねがい! これ買ってほしいの!」
「ふふ、いいよ。ついでに君のお姉さんの分も買ってあげよう」
***
ストラップを買った後、少女を迷子センターへ連れて行った。
実際のところ、あと少し時間的に余裕はあった。それでも少女を迷子センターへ預けることを選んだのは、あれ以上一緒に居ると、決心が揺らぎそうだったから。
彼女にスマホで連絡することも考えたが、それはしなかった。アナウンスで確実に彼女は来るだろうからな。
それに、世界一のコメディアンとして、大切な人にエンターテイメント的な置き土産をしておきたかったのだ。
楽しんでくれると良いのだが。
左手に残る少女の手のぬくもり。
胸の中に広がった、じんわりとした感覚。
余熱が冷めないうちに、俺は搭乗口のゲートを通過した。
***
(かえで、一体どこに行ってしまったの)
広い空港の中、迷子になってしまった妹を探す。
お手洗いに行っている間に、どこかに行ってしまった。
小学3年生になるというのに、せわしなくて困る。
……そういう私も、小学5年生の頃に、テーマパークで迷子になってしまったことがあるのだけれど。
血筋なのかなあ。
『迷子のお知らせをします』
妹を探して歩き回るさなか、突如アナウンスが流れた。
『千葉県よりお越しの石田もみじ様。お連れ様がお待ちです』
「なんで私!?」
思わず口に出してしまった。彼氏がコメディアンだと、こういう時にツッコミ精神が働いてしまって困る。
周囲の人の視線のいくつかが私に集まった。
妹め。「おねえちゃんが迷子になりました」とでも伝えたのだろう。
とはいえ、合流できそうで良かった。
早く合流して、アイツを見送ってやらないと。
彼から海外へ行くことを告げられた時、つらすぎてちゃんと「行ってらっしゃい」って言ってあげられなかったから。
でも、もう間に合わない可能性が高い。
***
「かえで!」
「あー、おねえちゃん! まったく、どこをほっつき歩いていたの?」
かえではまったく寂しがった様子もなく、そこにいた。
一瞬ムカッとしたが、元気そうなので良しとしよう。
時間はもう飛行機の出発時刻を過ぎていて、アイツを見送ることは出来なかった。
私の気なんて知ることも無く、妹は屈託のない笑顔で話す。
「おもしろいお兄ちゃんといっしょだったんだよ」
「面白いお兄ちゃん?」
そう言ってストラップを見せてくる。
私が好きなキャラクターのものだった。
このキャラ、どこかアイツに似てるんだよね。
「お兄ちゃんの好きな人も、このキャラクターが好きなんだって。なんと、おねえちゃんのも買ってくれたんだよ!」
知らない人にずいぶんと親切にされたものだ。
そのうえ、自分が好きなキャラクターのものだったので嬉しい。空港限定版だし。
「あとね、サインも貰ったんだ」
かえではチョコレートの赤い包装紙を見せてきた。
これもお兄ちゃんとやらに買ってもらったのだろうか。
裏の白地に書かれたサインを読み、目を見開く。
「せかいでいちばんのおもしろい人になるために、がいこくに行くって言ってたよ。
大好きな人とのやくそくなんだって」
聞いた私は、両手で顔を覆ってしまった。
自分がどういう顔をしていたのか分からなかった。
なんというか、出し抜かれた感がたまらない。それなのに、胸の中はすっごくあったかくて、嬉しくて。
アイツめ。次に会ったらハグじゃ済まさないんだから。
「……ばか」
行ってらっしゃい、私の世界一のコメディアン。
<了>
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