第17話 深淵の王子様、想いを告げる


 辺りはすっかり薄暗くなり、わずかに残る橙色の光が、きらめく星々に追い立てられるように地平線に沈もうとしていた。風が夜の空気を運んでくる。

 鈴乃は脇腹に痛みを覚えながらも、壮馬の待つ踏切まで走るつもりでいた。

 だが、こちらに歩いてくる人影に気が付くと、足を止めた。

 壮馬が電話を受けて戻ってきてくれたのだ。


「走って来たの? 大丈夫?」


 壮馬は傍まで来ると、鈴乃が肩で呼吸しているのを見て、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 今までの鈴乃ならば、反射的にのけぞるところだが、今の鈴乃は違った。目の前にある壮馬の顔をまじまじと見つめ、かつて出会った少年の面影を探す。


(やっぱりそうだ、ソーマなんだ……)


 幼い頃に、たった一度だけ遊んだ友達。

 だけど、誰よりも心が通じ合った気がして、離れがたかった男の子。

 ずっと、会いたくてしかたのなかった大切な人。


「どこか座れる場所あるかな? 休もうか」


 壮馬は辺りを見回して、休憩できる場所を探しているが、住宅しか見当たらず、困ったような顔をした。壮馬にとっては馴染みのない場所なので、休憩場所の見当をつけることさえできないのだ。頭を掻く壮馬に、鈴乃は「あそこに公園があるんだ」と誘導することにした。話をするにも、落ち着いてできる場所が良い。

 三、四棟しかない小規模な団地の間に、ささやかな公園があった。

 すべり台、ブランコ、全体的に色の剥げたカバのオブジェ、飲み水用の水道、ベンチがある、子供たちの遊び場だ。だが、夕飯時なので、子供たちの姿はない。

 鈴乃と壮馬はベンチに腰を下ろした。

 ベンチの横に立つ電灯が心許ない光で、辺りを照らす。

 脇腹の痛みはすっかり消えたものの、話をどう切り出すかを考えこんでしまい、鈴乃は黙ったまま膝の上で重ねた手の甲を見ていた。


「今日、三度目だね」


 鈴乃は顔を上げて、壮馬を見る。

 壮馬は右手の親指、人差し指、中指を順番に折り曲げて、鈴乃に見せた。


「一日で三度も会うなんて、不思議な感じがする」

「そう言われれば、そうだよね」


 一度目は、海へ写真を撮りに行くために。

 二度目は、壮馬が鈴乃に会うために。

 三度目は、鈴乃が壮馬と話すために。


 自分が大事な話をするために、壮馬を引き留めた。

 鈴乃は大きく息を吸って、改めて壮馬を見る。鈴乃が話し始めることに気が付き、壮馬は居住まいを正して、彼女に向き合った。


「あのね、神谷く……」


 壮馬の咎めるような視線を感じ、鈴乃は直感的に彼の真意を理解し、言い直す。


「えっと、ソーマ……くんは……なんだよね?」


 風が吹いた。

 傍から聞けば、意味の分からない台詞だ。たまたま通りすがって聞いた者があっても、何で当たり前のことを聞くのだろうと思うようなおかしな台詞。

 だが、その言葉を向けられた彼にとっては、世界が反転するくらい大きな意味があった。

 鈴乃の言葉を聞いた瞬間、壮馬は呼吸を止めた。

 そして、目を細め、口を堅く結び、涙を堪えるような顔をして、俯く。鈴乃の方を向いていた体を真正面に向けて、顔を隠すように額に手を当てた。

 鈴乃は驚いた。壮馬のこんな反応を想像もしていなかったからだ。


「あの、ソーマくん、大丈夫? 私……」


 心に不安が広がっていく。自分が言った言葉がどんな意味を持っているのか、目の前の壮馬を見ていると、それすら考えられなくなる。


「ごめん、ちょっと、思っていた以上に……来るものがあって」


 壮馬は震える声でそう言うと、手を下ろし、目を瞑って空を仰ぐ。

 その先には、小さな光が数えるほどしか見えないが、美しい夜空が広がっている。

 しばらくの間、壮馬はそうしていたが、次第にゆっくり目を開けて、首を回して鈴乃を見た。


「もう大丈夫。落ち着いた」


 心配そうな鈴乃の瞳を受けて、壮馬は軽く笑った。いつもより、少しだけぎこちない笑顔で。


「すずの言う通りだよ。僕がソーマだ。……あの日からもう八年近く経つんだよね」


 壮馬は立ち上がって、鈴乃の前に来ると、片膝をついてしゃがみ込み、彼女の左手を自分の両手で包み込んだ。そして、いつも見上げられる側の彼が、見上げるように鈴乃の瞳を覗き込む。まるで、おとぎ話の王子様が、お姫様に挨拶するときのように。


「あの日から、君を忘れた日なんてなかった。ずっと、会いたくて、いつも君の姿を探してた。いつか絶対、会えると信じてた。すずがおまじないをかけたトウカエデの葉が、僕たちをまた巡り合わせてくれるって」


 壮馬は柔らかく笑う。


「八年もかかってしまったけど、僕は今すごく幸せだよ」


 鈴乃は言いたいことがたくさんあった。だが、何から口にすれば良いだろう。

 目の前にいる壮馬が、あの幼いソーマと重なって、胸がいっぱいになり、視界が滲む。

 今声を出せば、絶対に気持ちがあふれて、涙が止まらないだろう。


(私も、私も……)


 伝えたい。自分の気持ちも、壮馬と同じだと。


「でも、ずっと不安だった。あの日のことを、あの日の約束を、覚えているのは僕だけなんじゃないかって。すずにとっては思い出の一つにしかすぎなくて、僕のことなんてとっくに忘れてしまったんじゃないかって。すずに会えるんじゃないかって、よくあの公園に行ったんだ。行く前は、今日こそはって、期待がすごく大きくて。でも、帰るときの絶望はそれ以上に大きくて……もう、耐えられないんじゃないかと何度も思った。会いたい、会いたい。だけど、現実はそう甘くない。わかってた。でも、諦めたくなかった」


 鈴乃の手を握る力が強くなる。


「すずが部室で、『幼い時に一度だけ会って、成長してから再会する、運命の人みたいな話』が好きだと言ったとき、驚いたよ。もしかして、すずは僕のことを覚えていて、敢えて僕にそう言ったのかと。でも、違ったね。……あの時は、すずを無視するみたいな格好になってしまって、ごめんね。すずの言ったことをぐるぐる考えていたら、完全に自分の世界に入ってしまってた」


 あの日、壮馬が黙り込んで考え込んでいたのは、このことだったのかと鈴乃はすとんと心に落ちた。


「僕の家に来たとき、トウカエデの前で話してくれたね。あれを聞いて、すずはあの日のことを今もちゃんと覚えていて、その思い出を大切にしてくれていると知った。すずも僕に会いたがっているとわかったから、嬉しかった。素直に喜びたかった。でも、不安が付きまとったよ。すずは僕を女の子だと思っているから、女友達を期待しているんじゃないかって。ソーマが男だと知ったら、ショックを受けるんじゃないかって」


 壮馬は握っていた手を離した。包んでくれていた手が突然離れたので、名残惜しさと、微かな寂しさが込み上げる。


「それに……ここで終わってしまうのではいう思いがあった。入学式の日、一目見てわかったよ。この子が、すずだって。でも、すずは僕を見ても何の反応もしてくれなかった。責めてるわけじゃないよ。当たり前のことだから。そもそも覚えていないかもと思っていたし、女の子だと思われているからだとも思ったけど……すずが覚えていると知ってから、僕はひたすら願った。思い出してほしいって。僕のことを、僕たちの出会いを、僕たちの約束を。でも、ふと立ち止まって考えた。思い出してもらって、そのあとはどうするんだろうって。思い出したとして、ただそれだけで終わってしまうとしたら、それに何の意味があるんだろうって」


 壮馬は立ち上がった。電灯が壮馬をぼんやりと浮き上がらせる。


「僕は多くを望みすぎているとわかった。ずっと会いたかった。ただ会えるだけで良いと思っていた。だけど、すずが目の前に現れたら……ただ会うだけじゃダメだった。思い出してほしかった。でも、ただ思い出すだけでもダメだ……僕は、君にも同じように僕を想ってほしいと願った。僕は我儘だ。我儘だとわかってる。だけど、どうしようもないんだ。僕にはすずが必要で、すずにも僕を必要としてほしいって……そう願ってしまう」


 壮馬はそう言うと、「しゃべりすぎたね」と鈴乃の隣に脱力したように腰を下ろした。

 鈴乃はしばらくの間、壮馬が口にした言葉、ひとつひとつをゆっくり心に落とし込んでいた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る