第16話 深淵の王子様、名前を呼ぶ

 鈴乃が急いで家に帰ると、家族は誰もおらず、「ただいま」の声に返答はなかった。

 都合が良いと、鈴乃は自分の部屋に入り、ざっと見まわす。脱いだままの寝間着と、着て行くか迷った洋服がベッドの上に散らかっており、洋服箪笥の引き出しもいくつか飛び出している。机の上も本が積み重なり、わずかだが消しゴムのカスも残っている。

 綺麗に片付けたと思っていたが、本当に人を入れるとなると、こんな片付け方では甘い。

 藤棚のベンチに、いつまでも壮馬を待たせているわけにはいかない。

 鈴乃は素早く洋服類を丸めてクローゼットに投げ込み、洋服箪笥も全て閉め、机の上の本を棚に戻し、ゴミは屑籠に投げ入れ、台所にある大きな蓋付きの屑籠にひっくり返して移す。

空気も入れ替えようと窓も開け、気が向いたときに楽しんでいる、桜の香りのお香を焚く。

 鈴乃は腰に手を当てて、改めて部屋をぐるりと見回して、「よしっ」と頷いた。

 鈴乃の家は、三階建てマンションの三階にあった。

 全部で六世帯の小さな建物だ。

 周辺も全て同じ造りの建物が並ぶ住宅街で、地面も綺麗に整備され、どこかお洒落な雰囲気が漂う。幼稚園、学校、ショッピングモールなども揃い、暮らしやすい街だ。

 鈴乃は藤棚の下で本を読む壮馬に声を掛け、少し早足で案内した。

 三階分の階段を上り、ドアを体で抑え、少し緊張した面持ちの壮馬を招き入れる。


「お邪魔します」

「私の部屋はここで、洗面台はこちらです」


 玄関から入ってすぐ左の部屋を指さした後、右奥の洗面台に案内する。

 手を洗おうとする壮馬からシュークリームの箱を有難く受け取り、台所へ持って行った。


「神谷くんは、部屋に入っててね」


 お盆の載せたシュークリームを運びに行くと、壮馬はまだ突っ立ったまま、鈴乃が来るのを待っていた。


「そこのクッションに座って。狭いけど」


 お皿を小さなオレンジ色の丸テーブルに置くと、今度はお茶の用意をしに台所へ戻る。

 紅茶の準備を終えて、部屋に戻ると、壮馬は言われた通りクッションに座りながら、壁際にある本棚を眺めていた。


「お待たせしました」


 鈴乃はティーカップをテーブルに並べる。

 そして透明なガラスの急須から、琥珀色の紅茶を注いだ。白い湯気が天井に上っていく。

 壮馬と鈴乃は黙って立ち上る湯気を見ていたが、視線が合って、二人して照れたように笑う。


「紅茶、いただくね」


 緊張が少しほぐれたのか、壮馬の表情がいつものように柔らかくなった。


「私も、シュークリーム、いただきます」


 壮馬が紅茶を一口飲んで、ほっと一息ついているので、鈴乃も白い粉砂糖のかかったシュークリームを食べ始める。


「おいしい!」


 鈴乃が幸せそうに頬張るので、壮馬は笑って、自分もシュークリームに手を伸ばした。


「うん、おいしい」


 甘いお菓子と紅茶を楽しんでいるうちに、お互い調子が戻ってきて、いつのまにか、いつも部活のときのように、自然と話せるようになっていた。

 桜のお香も燃え尽きたようで、風が入ってくるたびに、部屋を満たしていた香りは薄くなる。


「原稿、そろそろ仕上げないとね」


 鈴乃が机の上のノートパソコンが目に入ったので、そう言うと、壮馬は肩を落とした。


「僕は、あと一遍は書かないといけない。ページがまだ余ってて」

「何かアイディアはあるの? 書きたいものとか」


 鈴乃が問うと、壮馬は俯きがちにぽつりと呟いた。


「……未来の記憶とか」

「未来の、記憶? 何だか、面白そうだね」


 壮馬はさっと顔を上げて、鈴乃の目をまっすぐ見つめた。

 その目に、なぜだか視線を合わせていることができず、鈴乃は目をそらす。


「未来はまだ来ていないんだから、記憶があるはずなんてないのに。未来の記憶って言葉が、何だかしっくりくるんだよね。予知みたいなものなのかな……」


 壮馬はそう言ったあと、黙り込んでしまった。

 鈴乃は言葉を探したが、上手い返しが思いつかない。

 そのとき、唐突に壮馬の部屋にあったトウカエデの葉のこと思い出し、彼にも自分のものを見せようと、机の引き出しを開けた。そして、ラミネート加工して栞にした、黄色と赤の混じったトウカエデの葉を取り出し、壮馬に差し出した。

 壮馬は一瞬驚いたような顔をして、鈴乃を見てから、差し出されたトウカエデの栞を受け取った。


「ね? 神谷くんの部屋に飾ってあった葉っぱと同じでしょう? すごい偶然だよね」

「偶然、か……そうだね」


 その葉を見つめる壮馬の瞳がどこか寂しそうで、鈴乃は胸が疼いた。

 しばらくすると、壮馬はトウカエデの栞を鈴乃に返そうとしたが、鈴乃が受け取ろうと伸ばした手を、栞を持つ手と反対の手で掴み、彼女を見上げた。


「あの、すずって呼んでも良い?」


 あまりに突然の発言に、鈴乃は意味が呑み込めず、目を瞬かせる。

 今までも壮馬の突然の行動に対応してきた鈴乃だが、さすがに面食らってしまう。


「須藤さんが呼んでるよね、すずって。それが羨ましくて。僕もそう呼ばせてもらえたら、嬉しいんだけど」


 鈴乃は戸惑いながらも頷いた。


「じゃあ、私は……壮馬くんって呼べば良い?」

「ソーマで。ソーマって呼んで」


 鈴乃はぽっと頬を染める。

 突然、下の名前の、しかも呼び捨てで呼べるだろうか。

 そんなことを考えているとき、


『ソーマ、ソーマだよ』


 幼い子供の声が聞こえた気がした。

 鈴乃の大切な思い出の、大切な友達の声。

 鈴乃は目の前にいる壮馬の顔を見た。

 今は鈴乃の手を離し、伸ばした手にはトウカエデの栞を握らせてくれている。

 頭が混乱する。

 ソーマ……ソーマ……ソーマって誰?

 自分の知るソーマは幼い時の友達。

 でも、今目の前にいる彼も、ソーマと言わなかったか。

 ソーマ?


「そろそろお暇するよ。食器、台所に運べば良い?」


 壮馬は立ち上がり、お盆に空のお皿とカップを載せていく。鈴乃は、ぼうっとする頭を何とか働かせようと、「ありがとう、でも私が運ぶよ」とお盆を受け取り、一人台所へ移動する。

 緩慢な動作で、流しに洗い物を出し、部屋に戻る。

 壮馬はもう玄関で靴を履いていた。


「道は覚えたから、送らなくて大丈夫だよ。今日はありがとう。話せて楽しかったよ。また明日ね、すず」


 壮馬はドアを開けてから、鈴乃の方に向き直ると、微笑みながら手を上げた。

 鈴乃もぎこちなく手を上げる。頭がまだ正常に働かない。何かが引っかかっていて、思考も心もその何かに引っ張られている。


「今日はわざわざ来てくれてありがとう」


 明らかに不自然な、機械的な声で答えているのに、壮馬は気にした風もなく、笑ってドアを閉めた。


「ソーマ……」


 鈴乃は部屋に戻り、机に置いたトウカエデの葉を手に取った。


『じゃあ、すずも持ってて。僕はおまじないなんてかけられないけど、持ってて』


 またソーマの声が聞こえる気がして、鈴乃はトウカエデの栞を持ったまま、しゃがみ込んだ。頭が混乱している。何でだろう。何かを見落としている気がする。何だかとても泣きそう。わからない。どうしてだろう。何を、何を?




 鈴乃が七才の秋、母が友人の家に行くからと、三人兄弟の中で一番下の鈴乃だけを連れて出掛けた日があった。

 どのくらい電車に揺られていたのか覚えていないが、着いた先は見知らぬ土地で、鈴乃は母としっかり手を繋いで、住宅街を歩いていく。空気はすっかり秋らしくなり、涼しい風が吹いていた。道路沿いの銀杏が黄色く色づき、コンクリートの歩道を黄色で染め上げる。

 鈴乃は、地面を覆う銀杏の葉を眺め、「これは女の子!」「こっちは男の子!」と、葉の性別なるものを瞬時に判別しながら歩いて行く。以前、公園で出会ったおじいさんが、「こちらはスカートを履いているから女の子、こっちはズボンだから男の子」と教えてくれてから、鈴乃は銀杏の葉を見る度に、性別判断を行っている。葉の縁が繋がって波打っているのがスカートのように見えるから女の子。その波打っている部分が真ん中で裂けていれば、ズボンのように見えるから男の子。

 友人宅に着き、母は玄関先で立ち話を始めた。中に入る気はないらしい。鈴乃も最初は玄関に置かれた半ば枯れた鉢植えを眺めたり、目の前の道路を通り過ぎる車を見ていたが、すぐにつまらなくなった。門から覗くと、すぐそこに小さな公園があるのを見つけた。


「お母さん、あそこの公園で遊んでいて良い?」

「いいわよ。でも、絶対、その公園にいてね」


 母に見送られ、鈴乃は公園に走った。

 すべり台とベンチしかない小さな公園だが、紅葉した葉をたくさんつけた木々が、鈴乃を歓迎してくれているような気がして、嬉しくなった。すべり台を何度か滑った後は、木の陰に隠れて、一人でかくれんぼ。

 最初のうちは、風が吹くたびに落ちてくる葉っぱがひらひらしているのを眺めるだけで楽しかったのだが、やはりひとりはつまらない。だからといって、母の立ち話に付き合うのはもっとつまらない。

 そこに、ちょうど同い年くらいの子供がやってきた。

 まっすぐベンチに向かってきて、迷いなく座ると、顔を下に向けて、微動だにしない。

 鈴乃は心配になった。具合が悪いのかもしれない。

 鈴乃は隠れていた木の陰から飛び出して、その子のもとへ向かった。


「どこか具合が悪いの?」


 顔を上げたその子は、首を振って否定した。

 良かった。具合が悪いわけではないのだ。

 それなら、一緒に遊べるかもしれない。


「ねえ、一緒に遊ぼうよ」


 その子は答えてくれた。


「いいよ。何して遊ぶ?」


 鈴乃はその子の手を取って、握手した。


「ありがとう! わたし、すずのっていうの。かんざき、すずの。あなたは?」

「ソーマ、ソーマだよ」

「ソーマ? ソーマね! よろしくね! わたしのことは、すずって呼んで」


 ソーマと名乗ったその子の性別を判断するのに、少しだけ時間がかかった。

 ソーマは肩までは届かないが、髪が長く、可愛らしいワンピースを着ていた。

 だが、その下にはワンピースには不釣り合いなズボンを履き、自分のことを「僕」と言った。顔は、絵本から出てきたお姫様みたいに、白い肌、大きな瞳に長いまつ毛。でも、話し方はどう聞いても男の子。

 銀杏の葉なら、スカートとズボンで見分けがすぐつくのだが、目の前のソーマには少し手こずった。でも、ようやく、


(……ソーマは男の子なのね)


 髪型と服装は女の子だけど、それ以外が全部男の子の特徴だと結論付けて、鈴乃はソーマが男の子だと判断した。

 ソーマとたくさん遊んで、とても仲良しになった。

 きっと、あと少しで母が迎えに来る。そうすれば、帰らなくてはならない。

 鈴乃は、綺麗な赤い葉っぱを見つけて、拾い上げた。


(はっぱさん、はっぱさん、どうかお願い! ソーマとまた会うことができますように! また一緒に遊べますように! どうか、お願いします!)


 願いを込めた真っ赤な葉っぱを、ソーマに渡した。

 すると、ソーマも赤と黄色の混じった葉っぱを鈴乃に差し出した。


「じゃあ、すずも持ってて。僕はおまじないなんてかけられないけど、持ってて」


 ソーマと出会った日から、鈴乃にとって、ソーマは大切な存在だった。

 何年経ってもそれは変わらず、いつしか夢見るようになった。


——いつか、きっと、また会うことができたら、

  昔みたいに、手を繋いで、一緒に走り回れるかな。

  もし、また、出会うことができたら、きっと彼こそが、私の

 馬鹿馬鹿しいとも、夢見がちだとも、ロマンチストすぎるとも思った。

 だけど、心の片隅ではいつも、ソーマを探していたし、いつか会えると信じた。信じていたかった。

 昔を思い出していた鈴乃の意識が、徐々に現在に戻ってくる。

 そして、思わず呟いた。 


「ソーマは……神谷くんなんじゃ……」


 自分の声に、はっとした。

 真っ赤なトウカエデを掲げたソーマの顔が、いつも鈴乃に優しい笑顔を向けてくる壮馬の顔と重なった。ソーマだ。ずいぶん大きくなってしまったが、目元が全く変わっていないことに気がつく。

 これだったのだ。何か引っかかっていて、何か見えていないと思ったものは。


「聞かなきゃ……」


 鈴乃は机に置いていた携帯電話を掴んで、すぐに家を飛び出した。

 居ても立っても居られない。

 走りながら、壮馬の番号に電話を掛ける。


「もしもし、どうしたの? 何かあった?」


 すぐに壮馬の声がする。鈴乃は、泣きたいような、叫びたいような気持をぐっと抑えた。


「まだ、電車に乗ってない?」

「まだ、駅についてないよ。どうしたの? 僕、忘れ物でもしてた?」


 電話の向こうからカンカンカンという踏切の音が聞こえる。


「話したいことがあるの……今、そっちに行くから、待ってて」


 鈴乃がそう言うと、ただならぬ気配を感じたのか、壮馬はそれ以上何も聞かずに、「待ってる」とだけ言った。

 鈴乃はどうにかなりそうな気持を見ないように、ただひたすら壮馬のいる踏切に向かって走り続けた。


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