四 沓掛の城

「…………」

 簗田政綱は相変わらず泥中に潜んでいる。

 すると、その泥田に、若者が「稲っこサ、元気きゃあ?」と呟きながら、泥の中を裸足で歩いてきた。

 若者は、うんうんと頷きながら政綱のそばまで来ると「如何?」と口だけ動かした。

 政綱は答えない。目だけで応じた。

「お、伸びてるぎゃあ」

 若者は朗らかに笑ったが、目は笑っていなかった。

 そして、ひょこひょこと、田の傍の掘っ立て小屋に入って行った。

 だが。

 小屋に入ると、さっと平伏して、中にいた者に拝礼した。

との仰せ」

「大儀」

 中にいた者――太田又助は筆を走らせながら答えた。

 若者は、信長が寄越した小者で、木綿もめんといった。

「予への連絡つなぎろう」

 実は信長の側妾、吉野きつのの実家――生駒家が営んでいる、馬借の手の者だという。

 木綿は目端めはしが利いて、政綱らの身の回りの世話などに立ち働き、いつの間にやら政綱ら「組」の皆から可愛がられる存在となっていた。

「書けた。では、殿のもとに、これを」

「うけたまわった」

 木綿は拝礼して、出て行った。

 そして又助は小屋の板と板のすき間から、外を覗いた。

「もうそろそろ、今川の本隊が来る頃。とすると、輿も……」


 沓掛城には湯殿があって、このような泥だの垢だの落とすのには、ちょうどいいだろうな、と政綱は思った。

 この城外のちょうどいいあたりに、さり気なく作った田んぼ。そして掘っ立て小屋。

 いずれこのような時が来るためと、政綱が入念に沓掛城外の民に溶け込んで作った「砦」である。

「まだか」

 と口に出していうわけにはいかない。

 田植えのふりをして様子を窺うのは、時宜を逸していた。

 それゆえの泥中埋伏であったが、さすがの政綱も、そろそろ一旦戻るかと思ったその時。

「お屋形やかたさまッ」

 その叫び声が聞こえた。

「…………」

 政綱はと体を震わせた。

 小屋の壁板が、と鳴った。

 見よ。

 承知。

 そういう合図である。

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