第5話
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第4話まで、10月21日よりも前に読んでくださった方へ
1話〜4話まで改稿しました。物語の大筋にかかわる変更は、第2話だけです。
改稿版の第2話を読んでから続きを読まないと、続きが混乱するかもしれません。
また、全7話完結のつもりでしたが、6話完結になりました。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。最後まで楽しんでいただければ幸いです。
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結婚してからもうすぐ一年になるころ、父が倒れたという知らせを受けた。パニックのままリョウくんに電話をかけた後、その日のフライトに飛び乗った。
メルボルン空港で入国審査を通るとき、係りのおじさんがニコッと笑って「ウェルカム・バック」と声をかけてくれた。まるで旧友にでも言うような感じで。「ありがとう」と私も友達みたいに笑顔を返す。それだけのことに、ああ、帰ってきた、と感動してしまって、そのことに自分でもびっくりした。
金髪の人、スカーフを巻いている人、肌が黒い人、背がとびきり高い人、ものすごく太っている人。日本にいるときとは、比べ物にならないくらいいろんな容姿の人がいて、様々な言語が飛び交っている。
父が倒れて、心配で仕方がないのに、お腹の中でポコポコと泡が弾けるように、うれしい気持ちが湧き上がってきた。メルボルンなんて、田舎の小都市で、つまらないと思って出て行ったから、帰って来てこんなにうれしいなんて、想像もしていなかった。
いったん実家へ帰って荷物を置き、車ですぐに病院へ向かった。車を運転するのも久しぶりのことで、車幅の広い道を走っていると、開放感で声をあげそうになる。
倒れた当初、父の容体は楽観視できるものではなかった。盲腸が炎症を起こし、お腹の中で破裂してしまったのだ。あと五分、手術が遅れていたら危なかったのだと医師に告げられた。一週間ほどで退院した父は、大量の抗生物質を飲みながら、自宅療養することになった。
「新しいのが増えたな」
実家の冷蔵庫を見て父が言う。母の趣味で、旅行に行くたびにお土産のマグネットを買う決まりになっていた。東京観光をしたときに買った、スカイツリーのマグネットが、エッフェル塔やFIJIと書かれたヤシの木と混在している。
母の基準でいくと、お土産マグネットは、ダサければダサいほど、いいのだった。
退院してきた父の看病をしながら、私はいろんな話をした。父の病気がなかったら、大人同士として、あれほどちゃんと父と話す機会はなかったかもしれない。
「お父さんはさ、なんでフッツクレイとか、スプリングヴェイルに住まなかったの?」
フッツクレイやスプリングヴェイルは、ベトナム人街だ。父方の親戚の多くが住んでいて、旧正月の挨拶に何度も訪れた。
「お母さんのため?」
「……いや。僕にも、いろいろ窮屈だったしな、あのへんは」
父は、十歳のときにボートでオーストラリアへやってきた。いわゆるボート・ピープルの一人だ。あのころ、ベトナム移民を支援する人が大勢いる中、忌み嫌う人も多かったと聞く。父は過去のことをあまり話さないけど、きっといろんな思いをしたのだろう。移民が「あちらの人」でなくなるには、長い年月が要る。
ベトナム移民同士で結婚するのが普通だったころ、父は母を選んだ。母は母で、留学する前に「外国人と結婚するのだけはやめてほしい」と祖父に何度も言われた末に渡豪していた。双方の両親の反対を押し切って、二人は一緒になったのだった。
「お父さんは、お母さんのどこが好きだった?」
この質問に答えるために、数分の間、父は宙を見上げて逡巡した。
「……効率とか、あまり考えないところかな。好奇心を大事にする人だったな。味噌とかヨーグルトとか、自分で作ったりさ」
「よく失敗してたよね」
「失敗しても気にしないところは、お母さんの美点だ」
ふふっと二人で笑った。
「お父さん、お母さんが死んじゃったあとさ、いつもご飯作ってくれてたじゃない? 家に、あんまり帰ってこなくて、ごめんね」
あのころ、父はよく私の好物を夕飯に作って待っていてくれていたけど、私は友達の家に入り浸って、ファストフードばかり食べて過ごした。母のいない家に帰り、母を亡くした父と過ごすのが辛かったから。
誰かのご飯を作って待つということが、どういうことなのか。待っている人が来ないと、どういう気持ちになるのか。理解できるまでに何年もかかってしまった。
「お母さんの代わりにはなれなかったからな」
父が当たり前のことのように言い、私は否定の意味を込めて、ブンブンと顔を横にふった。
「お前の代わりも、どこにもいないよ」
父が、照れたような笑顔になる。
「なにそれ」
私も恥ずかしくなって笑った。
「結婚ってのはさ、いろいろあるだろう。僕とお母さんにも、そりゃあもう、いろいろあったぞ」
父には、私とリョウくんがうまくいっていないことなんて、お見通しなのだ。
「この家、売る予定ないから、いつまでいてもいいし、いつ帰ってきてもいいよ」
「なにそれ」
「お母さんだったら、そう言うんじゃないかって、思ってさ」
異国の地で、ちゃんと家族を作ったお母さんが、そんなことを言ってくれるんだろうか。少し疑問に思ったけど、あのお母さんなら、言いそうだなと思った。
メルボルンに帰ってきて一ヶ月がたった頃、リョウくんが飛行機に乗って、実家まで様子を見にきてくれた。空港まで車で迎えに行くと、きれいな小箱を渡されて「結婚記念日おめでとう」と言われる。すっかり忘れていた。謝る私に、リョウくんはいつも通りの穏やかな笑顔を向ける。
「お父さんが大変だったんだから、仕方ないよ」
リョウくんはまた一つ、なにかを飲み込んだかもしれないな。そう思うと胸が痛んだ。小箱の中身は、イエローゴールドでできた、キラキラ揺れるピアス。すぐに付けると、リョウくんが「似合うよ」と言ってくれた。
父は順調に回復していて、自分でほとんどのことができるようになっていたから、リョウくんがいる一週間の間に、あちこち観光した。
私の運転でフィリップ島までペンギンを見にいったり、ワイナリー巡りをしたり。
リョウくんが何度も「広いなぁ」と大きく伸びをするのが可笑しかった。
久しぶりに過ごす、リョウくんと一緒の時間。一秒一秒を、宝物みたいに大事に過ごす。一日の終わりに、せいいっぱいの笑顔を浮かべて「おやすみ」を言うと、別の寝室で眠った。
リョウくんが帰国する前の日、父が気を利かせてくれて、夕飯のあと、私とリョウくんはリビングで二人きりになった。
「真衣、日本にいるときと別人みたいだね」
リョウくんは、夕飯のときにから、すでにビールと赤ワインを何杯か飲んでいて、顔が赤くなっている。
「そうかな。すっぴんだし、あんまり身なりに構わなくなっちゃったからかな」
ヘラヘラ笑って答えたけど、リョウくんが、そういうことを言っているんじゃないのはわかっていた。
「のびのびしてる」
リョウくんは、申し訳なさそうに言った。彼のグラスが空になりかけていたので、赤ワインを注ぐ。リョウくんは、ワイングラスを持ったまま、絨毯の一点をにらんでいる。
「私、日本に帰りたくない」
私も、同じところを見つめて言った。
どれくらいの間そうしていたのか、二人とも、身じろぎもせずに首を垂れたままでいた。
リョウくんが、急に顔を手でおおったかと思うと、鼻をすする音が聞こえてくる。
長身な彼が体を小さく折り曲げて、さめざめと泣いているのを、私は下唇を噛んで見つめた。それはもう、油絵にでもしたいくらい、完璧に悲しい姿だった。
「日本が悪いんじゃないの」
同じ姿勢で泣き続けているリョウくんの背中を、さすってあげたかったけど、やめておいた。
「リョウくんのせいでも、お義母さんのせいでもないの」
だったら、なにが悪かったのだろう。世界で一番愛しい人の妻でいることが、なぜ上手にできないんだろう。
私は、リョウくんと暮らしたあの部屋に、もう絶対に帰りたくないのだった。
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