第3話

 リョウくんと出会ったのは、六年前、私が二十二歳のころだ。


 日本人の母とオーストラリア人の父を持ち、オーストラリアで生まれ育った私は、メルボルンの大学を卒業した後、東京で就職した。英会話の講師の仕事で、「英語ができれば誰だってできる楽な仕事」だと聞いていた。


 実際に、楽な仕事だった。支給された教科書をもとに、私がゆっくりと簡単な英語を話すのを、五人くらいの生徒さんが、真剣な顔で聞く。日本語なまりの英語で質問されるので、それに英語で答える。基本的にそれだけだ。リョウくんとは、その英会話クラスの生徒と先生として出会った。


 あっという間にリョウくんに恋をした。まるで、そうなることが最初から決まっていたみたいに。リョウくんが来るクラスが待ち遠しくて、お休みの日は心底ガッカリした。

「授業外の時間で、会ってもらえませんか?」

 ラインのIDを一緒に書いた付箋紙を、リョウくんのプリントの裏に貼って渡したとき、一生分の勇気を使い果たした気分だった。

 その日のうちにリョウくんからラインのメッセージがきて、私たちは付き合い始めた。


 付き合い始めてから二年が過ぎたころ、勤めていた英会話学校が潰れた。職を失った私が、オーストラリアへ帰るか迷っていたら、「日本に残ってほしい。結婚したい」と言ってもらえた。

 付き合っている間中、自分のほうがリョウくんに夢中なのだと思っていたから、心底びっくりした。


 家族だけの小さな式も、オーストラリアでのハネムーンも、新婚生活も、幸せいっぱいで、自分の幸運が信じられないくらいだった。



「あちらの人だから、しょうがないわよねぇ」

 リョウくんとの結婚生活が数ヶ月過ぎたころ、新居を訪ねてきたお義母さんが言った。

「お客さんが来たら、スリッパを出すのよ」

「……すみません」

 お義母さんは笑っているのに、私は上手に笑顔が作れない。「あちらの人」と言われたことが、思いの外ショックなのだった。


 母が日本人で、父はベトナム系オーストラリア人だから、私はパッと見、日本人に見える。日本語も、子どもの頃から勉強して、それなりに話せていたから、日本で外国人扱いを受けたことがほとんどなかった。


 トイレ用のスリッパがない。ベランダに靴下のまま出る。ネギの刻み方が荒い。敬語の使い方を間違える。

 そういったことに対して、お義母さんは「あちらの人だからしょうがない」と許した上で、日本人ならこうするのだ、と教えてくれた。


「私ってさ、やっぱりガイジンなのかな」

 お義母さんに「あちらの人」と言われることが引っかかって、リョウくんに聞いたことがある。

「母さんの言うことは、気にしないでいいよ」

 お義母さんの話になると、リョウくんは決まってそう答えた。リョウくんは、お義母さんの話をするのが苦手なのだろうな、となんとなくわかった。


「亮平のお給料で食べさせてもらえて、いいわねぇ」

「お嫁さんもらったんだから、ちゃんとした料理を食べたいわよねぇ」

 お義母さんは、月に一度くらいの頻度で新居を訪ねて来て、なにかしらの嫌味を言って帰った。気にしなければよかったのだろうけど、気にしない、ということができなかった。


 リョウくんのお母さんに嫌われたくなかったし、日本に住んでいるのに、ずっと「あちらの人」でいるのも嫌だった。

 リョウくんが毎日、一生懸命に働いているのに比べ、自分だけ時間を持て余しているのも気が引けてしまう。


 いろいろ考えて、ファミレスでアルバイトをすることにした。少しだけど家計の足しになるし、シフトを調整してもらえば家事と両立ができる。


「ええ? そんなの、気にしなきゃいいじゃん。子どももいないんだし、好きなことやればいいのに」

 バイトで知り合った中嶋さんが、すごいスピードで食器をお湯につけながら言った。中嶋さんには、警察官の旦那さんと小学生の子どもがいる。


「うちの義母もチクチク嫌味言う人でさ。子どもの服が汚れてるとか。男の子だよ? 汚すに決まってるじゃんねぇ。面倒くさいから、なんでも『はい、すみません』って聞き流してるよ」


 パワフルで親切な中嶋さんと話すと、気分がスッキリして元気が出る。仲良くなるにつれ、中嶋さんになんでも相談するようになった。


「中嶋さんの旦那さんって、何時くらいに家に帰ってきます?」

「日によってまちまちかなぁ。遅い日が多いけど」

「寂しくないですか?」

「寂しくはないけど、疲れるかな。家事と育児がワンオペだから。でも、休日はがんばってくれるし」

「そういうものですか」

「あのね、警察官の嫁はね、夫が家に帰って来るって思っちゃいけないの。最初から期待しなかったら、ストレスにならないし、帰って来たときにうれしいでしょ」

「なるほど」


 中嶋さんの言うことは、いつも実用的で前向きだ。中嶋さんをお手本にして、お義母さんから「あちらの人」と言われないように、最大限の努力をした。


 ファミレスのシフトは週四回、朝十時から午後三時まで。朝はリョウくんに朝ごはんとお弁当を作って送り出し、掃除と洗濯を済ませてからバイトに行く。バイトが終わると買い出しをして晩ご飯を作った。献立は、スーパーのお買い得な食材を中心に、肉と魚を交互にする。野菜たっぷりの副菜も、できるだけ二品付けた。


 お休みの日は、お風呂の掃除やシーツの洗濯など、バイトがある日にできない家事をして過ごす。主婦業とバイトの両立は、思った以上に大変だったけど、充実した毎日を送っていた。


 毎日、夕方七時には晩ご飯を準備していたけど、リョウくんが七時までに家に帰って来ることはほとんどなかった。だいたい九時過ぎで、遅いときは深夜になる。仕事の納期が迫ると、会社に泊まってくる日もあった。


 リョウくんが何時に帰ってきても、掃除の行き届いた家と、おいしいご飯で迎えてあげよう。そのことを毎日の目標にして、忙しい結婚生活に誇りを持っていた。

 徐々に、お義母さんから「あちらの人」と言われることも減った。

 リョウくんは優しくて、私は幸せだ。そう自分に言い聞かせていることに、疑問を持ったりはしなかった。


「少し残ってくれない?」

 バイトを始めて半年後、初めて店長に泣きつかれた。

「夕方シフトのバイトさんが、二人も病欠したんだよ」

 困り切った店長の顔を見ながら、リョウくんから、『今日は九時過ぎに帰ります』とお昼にラインをもらってたなと思い出した。

「七時までなら、大丈夫ですよ」

「ありがとう。悪いね。助かるよ」

 店長さんは、急ぎ足でフロアに戻った。


 夕方のシフトは昼間のシフトよりもずっと忙しくて、夢中でフロアやキッチンを動き回った。朝から働いているから、足がジンジンと痛む。ふと時計を見たら、八時になろうとしていた。リョウくんのご飯が間に合わない、と一気に汗がひいた。


「ごめんなさい。先に上がります」

 お店のみんなに何度も頭を下げながらエプロンを脱ぐ。更衣室で素早く着替えると、ママチャリを全力で走らせた。家に八時三十分までに着けば、パスタくらいなら九時までに作れる。


 ベランダに植えてあるバジルを使おう。ビールが冷えてるけど、白ワインも冷やそう。疲れ切った頭で、そんなことを考えながら家路を急いだ。


 家に着いたら、リョウくんがすでに帰宅していて、仰天した。リビングのソファでビールを缶から直接飲んでいて、ローテーブルの上にコンビニ弁当のゴミと割り箸がある。


「おかえり」いつもの笑顔で、リョウくんが言う。

「今日、九時過ぎるって、言ってなかった?」まだ荒い息を整えながら聞いた。

「頭回んなくなってきたから、もう明日でいいやって、帰ってきた。真衣は、バイト?」

「うん。夕方のバイトの人が病欠したから、カバーしたの」

「そう。お疲れさん」

「ご飯……、準備できてなくてごめんね」

「気にすることないよ。コンビニで適当に買ってきたし。真衣は、ご飯食べた?」

「まだだけど」

「真衣のぶんも一応買ってきたよ」

「ありがとう。……とりあえず、着替えてお風呂入ってくる」

 全力で自転車をこいだから、前髪が汗でおでこにへばりついている。


「ねえ」脱衣所に向かう私に、リョウくんが声をかけた。

「バイト、無理してない?」

「してないよ」

「バイトとかさ、真衣がしたくなかったら、しなくていいから。ご飯も、そんなにがんばらなくていいよ」

「……ありがとう」


 お風呂にお湯を入れている間に化粧を落とし、服を脱いで髪と体を洗う。湯船にはまだ半分くらいしかお湯が溜まっていなかったけど、何かから逃げるように湯船に浸かった。


 膝に顔を埋めると、涙が頰から膝を伝って湯船に流れた。涙が、後から後から出てくる。どうしてこんなに悲しいのか、自分でもよくわからなかった。

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