第21話 昔話
随分時間が経った気がする。
時計を見ると、ちょうど一時間ほど過ぎていた。
「そろそろ帰らなくちゃ……」
彼女は安らかな寝息を立てて、緩い笑みを浮かべていた。
先ほどまで苦しそうだったから一安心だ。
ゆっくり休んで、薬を飲めばすぐに良くなってくれるだろう。
音を立てないように部屋を出て、ぐっと伸びをした。
眠っている小鳥遊さんの横は何だか居心地が良くて。
我ながら長居してしまったなと思う。
家の人が帰ってくる前に、さっさと退散しておこう。
そう思い荷物を持って玄関へと向かうと。
ガチャリと、ドアが開いた。
スーパーの袋を持ったスーツ姿の女性が、入り口から姿を見せ、目が合う。
女性は、僕を見てギョッと表情を変えた。
誰も居ないはずの家に人が居るのだから当たり前だ。
「だ、誰!? 泥棒!?」
「あ、いや、僕は……」
最初は慌てた様子だったが、すぐに僕が着ている制服に気づいて表情を緩めた。
「ひょっとして、ミナミのお友達……?」
探るように、恐る恐る尋ねてくる。
友達……なのだろうか。
正直、そう言って良いのか自信がない。
でも、この場ではそう言うことにしておいた方がよさそうだ。
「友達、です」
◯
事情を話してどうにか場を取りなす。
リビングのテーブルに座らされ、キッチンで片づけをする彼女を遠巻きに見た。
「あの子、友達とか連れてくることがないから驚いちゃった」
「こちらこそ、突然お邪魔してしまってすいません」
「それでミナミは? 風邪って聞いたけど」
「部屋で寝てます」
何だか居心地が悪い。
出来れば早々に退散したいところではあるのだが。
空気的に言い出しにくかった。
このまま帰ったら逃げるみたいだ。
どうしたものかと思っていると。
不意に目の前に、ショートケーキとコーヒーが置かれる。
「甘いのは苦手?」
「大丈夫です」
「良かった。ミナミに買って来たんだけど、風邪だから食べられないし。痛む前によかったら食べて」
「じゃあ……いただきます」
口に運んだケーキは、上品な甘さだった。
甘すぎず、かといって味が薄いわけでもなく。
素材の味がしっかりと調和しているような気がした。
多分、結構お高いのだろうな、などと考える。
すると対面にチョコレートケーキが置かれ、女性が僕の向かい側に座った。
一緒に食べるつもりらしい。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れて。ミナミの叔母の
「同じクラスの鈴原です。小鳥遊さんの叔母って言うと……」
「あの子の母親の妹なの」
何歳くらいの人なのだろう。
かなり若いような、大人びているような。
見た感じは二十代後半くらいに見える。
精悍な顔立ちで、ハキハキ話す姿からは、しっかりしてバイタリティがあるのだろうと察することが出来た。
「それで、鈴原くんは、ミナミの彼氏なの?」
予期せぬ言葉に、思わずむせる。
慌てて咳き込む僕を見て、サトコさんは「ごめんごめん」と苦笑いを浮かべた。
「その様子だと違うみたいね」
「ただのクラスメイトです。同じクラスで、席が隣なだけなので」
「ただのクラスメイトが、わざわざ家に送ったりしないでしょう?」
「それは……」
何と言うべきか分からず、言葉に詰まる。
そんな僕を、サトコさんは何だか嬉しそうに見つめた。
「あの子、学校では上手くやってる? あの子、あんまり遊んでる感じがないから心配なのよね。いっつもどこか寂しそうだから」
寂しそう。
その言葉は、どこかストンとハマる気がした。
小鳥遊さんはいつも退屈そうで、寂しそうで、物憂げだ。
氷のような印象があり、近づき難い部分がある。
「小鳥遊さんは、人見知りをする人なんですか?」
「どうして?」
「普段から結構、塩対応と言うか。慣れてない人には冷たい気がしたので」
「警戒心は強いかも」
「警戒心?」
「慣れるまでは口下手って言うか。だから、高校入った時は、結構無理して人付き合いしてたみたい。今はどうか知らないけれど」
「今は、そんな印象ないです」
ならよかった。考え方を変えたのかもね」
「考え方を変えた?」
「自分らしく居ようって思ったんじゃないかしら」
「自分らしく……」
――そんなに人に合わせるのがしんどいなら。自分らしく居た方が良いんじゃない。
不意に。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
それは、いつか自分が口にした言葉だ。
あの時、あの人に。
※
高校一年生の頃だ。
図書委員の仕事をしていたら、男女のグループが図書室で作業していた。
会話する声が大きくて目立つグループで、僕はカウンターで本を読みながら様子を眺めていたのだ。
「何その言葉遣い」
「関西弁?」
「クールなのに、結構ダサい言葉遣いなんだね」
グループの中の女子が一人、方言が出たか何かで言葉遣いを馬鹿にされていた。
冗談っぽい雰囲気だったけれど、ちょっと言いすぎな気がしたのだ。
そこまで言う必要があるだろうか。
バカにされた女子は、さりげなくその場を離れて、本棚の陰で泣きそうな顔をしていた。
そんな彼女に、僕は声を掛けた。
「そんなに人に合わせるのがしんどいなら、自分らしく居た方が良いんじゃない」
※
僕はただ、あの女子の姿が、自分と重なって見えただけだ。
だから、過去の自分に言うつもりで声を掛けた。
自分らしく生きろと。
黒髪だったから気づかなかったけれど。
今思えば、僕が声を掛けたのは、小鳥遊さんだった気がする。
その言葉が小鳥遊さんに影響したと考えるのは、自惚れだろうか。
万一そうだとしたら、僕は小鳥遊さんにとって、良くないことをした気がする。
僕が考えていると、サトコさんはゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「一年前のミナミはね、ただの寂しそうな女の子だった。でも今のミナミは、一年前に比べると、ずっと良い顔してるの。まだ寂しさは抱えているけど、あの子を満たす何かがあるんじゃないかって思ってる。このまま上手く行ってほしいわ」
「僕は、そう思えません……」
「どうして?」
「小鳥遊さんは凄い人です。自分だけの世界を持っていて、前向きで、自分を持っていると思います。だから、本当はもっとたくさん友達を作って、知ってもらうべき人だと思います」
「ミナミを買ってくれてるのね。ありがとう」
そう言ったサトコさんは、どこか嬉しそうだ。
「でもね、誰と付き合うか、誰に知ってもらうかは、他の人が決めることじゃない。ミナミ自身が決めることだと思う。そして、あの子は、ちゃんと知ってほしい人に、自分のことを伝えることが出来る。だから、大切なのはミナミが自然体で居れることなの」
「自然体……」
「私は雑誌の編集の仕事をしててね。ミナミには時々モデルのお仕事を頼むのだけど」
「知ってます。『juju』ですよね」
「あら、ありがとう」
「妹がよく読んでます」
「あの雑誌のミナミの写真、私が選んでるのよ」
「そうなんですか?」
「どの写真を起用するか見て来たけど、去年と今では、顔つきが全然違うの」
「顔つきが違う?」
「私には今のミナミの方が、女性としても、モデルとしても、人間としても、ずっと魅力的に映ってる。あの子の良さは、もう表に発揮され始めてる」
「小鳥遊さんの良さ……」
「あなたもそう思わない?」
「僕は……」
きっかけは、運命の赤い糸だった。
僕の小指から伸びる赤い糸が小鳥遊さんに繋がり、僕は彼女に興味を持った。
でも、それだけだろうか?
もしそれだけだったとしたら、たぶん今、僕はここにいない。
赤い糸は、ほんのきっかけにしか過ぎなかった。
僕たちがこうして仲良くなったのは、周囲の人たちの助けもあるけど。
何より、小鳥遊さんが魅力的な人だからだった。
高校では誰とも交流せずいよう。
そう思った僕の世界に、彼女は入ってきた。
たくさんの
「ミナミの両親は仕事が忙しい人でね。いつも出張やら会議やらで、全然家に帰らないの」
「小鳥遊さんが関西弁なのは?」
「両親が転勤で関西に住んでた時に生まれた子なのよ」
「なるほど」
「今でも関西支部に行くことは少なくないみたいだけどね。だから私がこうして、様子を見に来てるってわけ」
「サトコさんが居なければ、小鳥遊さんはほとんど家でずっと独りなんですね」
「そうなるわね」
学校での小鳥遊さんは、どこかカリスマ性があるように見えた。
彼女の友達も派手な人が多くて、自分の世界があって。
だから彼女は、僕とは違う人なのだと思っていた。
でも、違った。
いや、違うのは分かっていた。
僕が勝手に、どこか彼女を遠い世界の人に仕立てようとしていたんだ。
「モデルで美人だけど、ミナミは特別じゃない。ただの普通の女の子なの」
まるで僕の心を読んだかのように、サトコさんは言う。
「私もずっと、あの子が独りで寂しいんじゃないかって思ってた。実際、そうだったと思うけど、今は違うと思う。ミナミの孤独を埋めてくれる人が出来て、だからあの子の魅力は、どんどん発揮されるようになった」
「小鳥遊さんの、孤独を埋める人?」
サトコさんは僕をジッと見る。
「もしかしたらそれは、あなたかもしれないわね」
その視線から、目を逸らすことが出来ない。
嘘もごまかしも、この人には通じないのだと、何となく思った。
「小鳥遊さんと僕は、生きる世界が違うと思っています。一緒に話すようになっても、その印象は消えてません」
僕は顔を上げる。
「でも、小鳥遊さんといるのは楽しいです。だから、生きる世界が違っても、一緒に居たいと思ってます」
その言葉に、サトコさんはにんまりと笑みを浮かべる。
「ミナミのこと、大切にしてね」
「はい」
僕は心から強く頷いた。
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