第20話 着替え

 血の気が引くのが分かる。


「ねぇ、着替えさせて」


 何を言ってるんだこの人は。

 と言うか自分が何を言ってるのか分かってるのか。


 熱と眠たさで正気じゃなくなってるのは何となくわかる。

 ただ、こんな風になるとは思いもしなかった。

 これじゃあまるで幼児退行だ。

 さっきまで全然普通だったのに。


 僕が戸惑っていると、不意に小鳥遊たかなしさんが服を脱ぎ始めた。

 よかった、やっぱりちゃんと自分で着替えられるじゃないか。

 安堵すると同時に、彼女がシャツも脱ぎ始めたので、慌てて後ろを向く。


 シュルシュルと、背中越しに衣がこすれる音がする。

 その音が妙に生々しくて、嫌でも聴覚が集中してしまう。

 両手に耳を当て、なるべく彼女が着替えている気配を感じないようにする。

 祈るように時が過ぎるのを待った。


 しばらく経って、そろそろ良いかと耳から手を離した。


「小鳥遊さん、もう振り返っても大丈夫?」


 背中越しに尋ねるも、返事はない。

 気になってちらっと見ると、彼女は制服を半分脱いだまま座って寝ていた。

 上のシャツはボタンが開いていて、スカートはチャックが開いている。


 最悪の状況だ。


「小鳥遊さん、ちゃんと着替えて。そんなところで寝たら悪化しちゃうから」


 彼女を揺さぶるも、反応がない。

 完全に力尽きて眠っていた。

 でも、呼吸は荒く、何だか苦しそうだ。


 意を決するしかなかった。

 やるしかない。


 僕は彼女の服を手に取ると、彼女の前側へと回る。

 さすがにパンツを履き替えさせるわけにはいかないので、下はあきらめよう。

 部屋着のショートパンツをスカート越しに穿かせる。

 スカートから小鳥遊さんの白い足が伸び、思わず目を逸らす。

 なるべく見ないよう努めたが、彼女の下着が必然的に見えてしまう。


 気にし始めたら何も出来ない。

 もはや心を無にするしかなかった。


 こんなところ誰かに見られたら、小鳥遊さんの寝込みを襲っているようにしか見えないだろうな。


 下は割と楽に穿かせることが出来た。

 ショートパンツを穿かせたまま、スカートを引っ張って脱がせる。

 何とか上手くいった。

 問題は上だ。


「これって、ブラも替えたほうがいいのかな……」


 いや、さすがにそこまでしなくてよいか。

 ちょっと苦しいだろうけど、今のまま寝てもらって、あとで自分で着替えてもらえれば良い。


 シャツを脱がせ、片腕ずつ外していく。

 彼女の形の良い胸部が視界の端に移る。

 まともに捉えないよう、僕は必死に視界を外した。


 男のさがと言うのは厄介なもので、こうした時でも視線は足や胸部に引っ張られる。

 性的に意識していなかったとしても、本能のようなものでそうなってしまうらしい。

 視界から外していても、意識がそっちに向かい、どうしてもチラつく。

 そして、そうした度に、何だか自分に対して嫌悪感が沸くのだ。

 こんな時なのに僕は最低だ、と。


 ようやくカッターシャツを脱がすことが出来た。

 後は部屋用のTシャツとスウェットを着せれば大丈夫だ。

 そう思った時、ふと気づいてギョッとする。


 小鳥遊さんのブラのホックが外れていたからだ。


 多分苦しくて自分で外したのだろう。

 ホックを止めなおしてもよいが、わざわざ自分で外しているくらいなのだから、それも酷な気がする。

 だとしたらもう着替えさせるしかないが、しかし……。

 彼女の胸を、見てしまうかもしれない。

 いくら非常時とは言え、やりすぎな気がした。


 小鳥遊さんは呼吸を荒げ、苦しそうに見える。

 そんなこと言ってる場合じゃないんだと、ようやく気付いた。

 この場で対処出来るのは僕しかないんだ。


 僕はフッと短く呼吸を吐くと、意を決して顔を上げる。

 彼女のブラの肩ひもに手をかけ、ゆっくり外した。

 そのまま外すと、彼女の胸部が露わになる。

 自分の心臓の鼓動が速くなるのが分かった。

 見ちゃだめだ、見ちゃだめだと自分に言い聞かせる。

 なるべく見ないよう視界を逸らせながら、すぐにナイトブラをつけなおした。


 片側だけ紐を通し、取り急ぎバストを隠すようにする。

 ここまで来たら、何とか一安心だ。

 そのままもう片側も紐を通し、ホックを止めに背中側に回る。


 多分、極限にまで張り詰めていた緊張が解けたのもあり、油断したのだろう。

 ホックを止めようと背中側に回った時、不意に僕の手は止まった。


 小鳥遊さんの真っ白な背中が、もろに視界に入ってきたのだ。

 キメ細やかな肌にはシミ一つなく、光を反射して輝いているようにすら見える。

 美しい陶器のようなその柔肌に、思わず動きが止まって見とれてしまった。

 外から差し込む光に、彼女の産毛が浮き上がる。


 まるで美しい絵画を見た時のように、呼吸をすることも忘れた。

 世界と自分が隔絶されたかのような不思議な感覚がして、時が止まった気さえする。

 魅入られるように、僕はゆっくりと彼女の背中に手を伸ばし、そして――


 すんでのところで、ブラのホックを止めた。

 ……危なかった。

 ぎりぎりで理性が勝ってくれた。


 もう少し遅ければ、僕は彼女の背中に触れていた。

 それだけだったかもしれないが、そこが境界線であった気もする。

 歯止めが効かなくなっていたら、多分一生後悔することになった。


 誰も見ていないから良いじゃないかと思っても良かったけれど。

 多分そうした罪悪感であったり、背徳感であったりと言うのは、心に降り積もってしまうんだ。


 そしたらたぶん、普通には接せなくなる。


「ごめん、小鳥遊さん……」


 息を吐きだし、全身の力が抜ける感覚がする。

 額から汗が流れ、にもかかわらず指先は酷く冷えていた。

 真冬のように、指先がかじかんだ感覚がする。


 そのままシャツとスウェットをスムーズに着せ、ようやく着替えを終わらせた僕は再び彼女を揺らした。


「小鳥遊さん、寝室行こう?」

「ん……」


 今度はすぐに起きてくれる。

 さっきこうだったらこんな苦労せずに済んだのに。

 ため息を吐きながらも彼女に肩を貸し、二階へと誘導した。


 ベッドに横たわった小鳥遊さんに布団をかけ、ようやく一息つく。

 布団でスース―と寝息を立てる彼女は、まるで子供のように安らかな顔をしていた。

 何だかそれが、今はずいぶんと微笑ましく感じる。


 彼女の投げ出された左手を直そうとした時、不意に彼女の手が僕の手を握った。

 感触を確かめるように、彼女は細かく何度も僕の手を握ってくる。


「鈴原……」


 小鳥遊さんがそっと呟く。

 それが寝言なのか、起きているのか、僕には分からない。


「そばにいて……」

「うん。ここに居るね」


 僕も応えるように、彼女の手を緩く握り返した。


 こんな広い家に、たった一人で彼女は住んでいる。

 両親は、ほとんど家に帰らないのだと言っていた。

 時折様子を見に来てくれる叔母だけが、彼女の話し相手なのだと。


 そんな状況で、風邪で寝込むことは、確かに心細いのかもしれない。

 彼女はいままでずっと、そうやって一人で過ごしてきたんだ。


 でも、今は近くに居られるから。

 せめて今だけは、一緒に居てあげたい。


 熱がある彼女の手は、とても温かかった。

 その左手小指から、赤い糸が伸び、僕の手に繋がっている。

 赤い糸は、いつになく光り輝いて見えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る