096 種明かすレギンレイヴ
「はっ、はっ⋯⋯!」
本調子とばかりに降り注雨の中を、ローズは息を切らしながら走っていた。
「どうしてっ!」
ざざ鳴りに混じる悲鳴はもはや金切り声に近い。
どうして。何故。
脳裏に占める疑問符は、いくら考えても拭い去ることなど出来なかった。
「なにも⋯⋯なにも、起きなかった⋯⋯」
描いていた悲劇など起きなかった。
幕が降りる最後まで、観客達の誰一人として異形に化すことはなかった。
ジオーサの町民達も。審問会の五老人も。
確かに自分の目の前で、神の毒を飲み干していたというのに。
「話がっ、違うじゃない⋯⋯」
茫然としている間に舞台袖に追いやられて。
我を取り戻した時には既に、カーテンコールは過ぎていた。
頭の中が真っ白になった。どうしたんだと気遣うマーカスの手を払って。舞台衣装のまま、逃げるようにジオーサの町を飛び出して。
気付けば今は、雨に濡れた森の中。
「どうしてなのよ」
片付かない疑問に押し潰されるように足を止めたローズは、すぐ傍らの大木に寄りかかり、崩れ落ちた。
「私は、騙されたの?」
あのワインは、神の毒じゃなかったのか。
ざざ降る雨に今にも掻き消されそうな、か細い呟き。
だが雨の幕の向こうから、答えは返ってきた。
「へえ。興味深い独り言ね」
「っ!?」
弾かれるように顔を上げれば、灰色髪の戦乙女が自分を見下ろしていた。
エシュラリーゼ・ミズガルズ。まさに英雄騎士の名に恥じない威風を纏った美しい少女が、ローズに剣を突きつけている。
否、彼女だけではない。その傍らにはミリタリーコートが特徴的な少女、リャム・ネシャーナも居る。
「⋯⋯ヒイロ」
「よう性悪女。シケた面してんじゃねえか」
不覚にも好ましさを覚え、だからこそ振り切る為に。
その命に手をかけようとまでした、憎たらしい相手。
ヒイロ・メリファー。
男は不敵な笑みを浮かべながら、ローズと対峙した。
「聞かせて貰うぜ。あのえげつねえワインを持ち込んで、俺を、ジオーサの町を!どうするつもりだったかをなァ!」
◆ ◆ ◆
ぶっちゃけさ、クソほど焦ったよね。
贔屓目な美女とのディナーが、まさかの命の危機でしたーとか洒落にならん。昨晩、凶悪からあっけらかんと告げられた事実に背筋が凍り付いたもんだ。
なんせ最後に飲ませられそうになったあのワイン、ガチで危険な代物だったらしいし。
《毒?⋯⋯うーん。当たらずとも遠からずかな。ほら。人の身体で一番魔素を溜め込んでるのが【血】だってことはマスターも知ってるよね? で、これはその血に溶けた魔素を、こう、ぐちゃぐちゃあってする劇薬みたいなもの⋯⋯って言えば分かるかな? 》
《作り方とか材料までは流石に分かんないけど。
んー、でもなんていうか、ありとあらゆる負の感情を無理矢理実態化して、ぎゅーっと絞って固めて伸ばしてワインにしてみましたー!って感じがするかな。あはは。少なくとも飲んだ奴は人間だろうが無かろうが、まともじゃなくなるだろうねえ》
《分かるかな、マスター? そんなもんを急にばっしゃぁあ!ってぶっかけらされたもんだからさ。いくらボクでも最悪な気分になるのは当然だよねえ?》
何故か饒舌に俺が何を飲まされそうになったのかについて語り、ついでにネチネチ口撃してくる凶悪さんである。
ホント、冷や汗で滝が出来る勢いだったよ。魔素をボロクソにするとか、なんだその劇薬。あいつなんてもん飲ませようとしてくれてんだ。
殺す気か!⋯⋯殺す気、だったんだろうか。
ひょっとしたら、単に凶悪が俺をからかう為についた嘘なのかも知れない。でもそうじゃなかったとしたら。
心当たりも理由もまるで思い付かない。けど、真偽を確かめない訳にもいかないだろう。
だから俺は直ちに、小隊の皆にこの一件を報告することにしたのだが。
『うわわわ⋯⋯ひひひ、ヒイロンッ!ちょっとあっちいって!ウチらに近付かないで!』
『ひぃっ⋯⋯ご、ごめんなさい!⋯⋯でも、ヒイロくんから、なんだか凄く⋯⋯嫌な気配がして』
ネシャーナ姉妹は俺が近付くなり途端、ズシャアァッ!と後退った。後で聞いた話だけど、姉妹は魔素の感知が一際鋭敏らしい。まるで猫がきゅうりを見て飛び上がるような拒絶反応だった。うん、ガチで傷付いたよね。
けれど彼女らの如実なリアクションは、凶悪の言葉に真実味を帯びさせるのは充分で。更に、指輪状態の凶悪の表面にまだ残っていたワインを、クオリオが白魔術の感知で調べた結果。明らかに異常な魔素反応が検知出来たこともあって、小隊の皆の表情が一気に険しさを増したのだ。
更にシュラから齎されたある情報によって、危機感は加速した。
『そういえば夕方、アタシが一人でうろついてた時、アイツに声をかけられたのよ』
『アイツ?』
『マーカス。取り留めのないナンパ話だったけど⋯⋯少し気になる事を言ってたわ。確か、ワーグナーは開演前にワインを振る舞うのが通例だって』
『開演前に、って⋯⋯っ。まさか、ジオーサの人々にその毒物を呑ませるつもりなんですかっ?!』
『うええ、それ絶対ヤバイよ! あんなの呑んだらタダじゃ済まないってウチにも分かるくらいだよ!? どうにかしなきゃ、たいちょー!』
『分かっている。だから落ちつけ、シャム・ネシャーナよ』
どうしてローズがそんな危険過ぎる代物を持っているのか。どうして俺にそれを飲ませようとしたのか。
何の意味があって。何の目的があって。疑問は尽きない。
けれど、とんでもない惨劇が起きようとしている事だけは確かだったから。
『凶器はワイン⋯⋯ならまだ、なんとかする方法はあるかも知れない』
『策があんのか、クオリオ』
『策と呼ぶにはかなり力技だけどね』
『聞かせろ。テメェの考えなら間違いねえだろ』
『⋯⋯言ってくれるね』
目に見えた惨劇を食い止めるべく、俺達は動き出したのだった。
『とりあえず、ヒイロ。
ジオーサの酒屋まで、ひとっ走り頼めるか』
◆
「まさかっ⋯⋯⋯私のワインを全部、入れ替えたっていうの?! い、いつの間に⋯⋯」
「今朝方にやってた最終リハーサルの時だ。朝の内に、テメェの部屋のワインも含めてまとめて劇場の楽屋倉庫に運び込んでたろ? 聞いてた段取りにねえ動きだったんで直ぐに分かったぜ」
「⋯⋯本当だったら昨晩の内に貴女を尋問なりすれば良かったんだけど、流石に単独犯か劇団ぐるみかも分からない時点で強攻策に出る訳にはいかない。だからずっと、機会を窺ってたのよ」
「劇場が審問会の保管室みたいに頑丈な造りだったら大変でしたけど、幸い劇団員の皆さんはリハーサル中ですし、テント型だから入口以外からもこっそり忍び込めたんです」
シドウ隊長の指示で、まだ陽も昇らない内から劇団の動向を監視してたのが功を為した。
場所が分かったのなら後は実行するだけ。
レーダー変わりのシャムにワイン群の中から例の毒物入りを見定めてもらい、俺とシドウ隊長とで運び出す。そんでリャムの青魔術でボトルを洗浄し、中身を昨晩に掻き集めた普通のワインに速攻で移し替え、もう一回保管場所に戻したって訳だ。
まあ、口で言うほど簡単な作業じゃなかったけどな。
「つっても中身はジオーサでも売ってるワインだ。下手に違いの分かる奴に飲まれてバレる可能性もあったが⋯⋯開演前だ。無粋な指摘をする奴は居なかったみてえだな」
「幸運に助けられた部分も多かったですね」
「まあ、悪運だけは強い馬鹿が居るから⋯⋯なんとかなる気はしてたけど」
「一言余計なんだよテメェ」
でも、本当に綱渡りだった。
なにせ時間も情報も人員も最低限しかない。ある程度は運に頼るしかなかったのも事実だろう。入れ替え作業も人目につかない町中でやらなきゃだし、作業中に劇団員が保管室に戻ってきて、ボトル数が減ってる事に気付かれたらアウト。
相当に危ない橋を渡ってる自覚はあったのだが。
「だが⋯⋯俺達の悪運は、テメェが起こそうとした悲劇を見事に殺し切ってみせたぜ、ローズ?」
「っ」
薄氷の上だとしても。
渡りきったなら、俺達の勝ちだ。
「凶悪」
公演のカーテンコールはとっくに鳴り終わった。
ならばこっちも、最後の詰めと行こう。
指輪状態を解除した凶悪を突き付け、告げる。
これで、チェックメイトだと。
「さあ、話して貰おうか。テメェの目的を」
「くっ⋯⋯」
けれど。
──パチ、パチパチ。
代わりとばかりに返ってきたのは、雨の中でさえ際立つほどに軽薄な拍手と。
「ふむ。ふむ。いや、まったく見事なまでの威風堂々。
流石は音に聞こえしエインヘル騎士団の小隊であると、まずは賞賛しておこうか」
「なっ、アンタは⋯⋯!」
まるで言葉の裏を這い回るような悪寒を伝わせるような、男の冷たい声だった。
「────ドルド劇団長!」
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