Ex.000 或る英雄の光について
その男は特別ではなかった。
現代にありふれた内の一人だった。
就職活動に失敗し、フリーターの身で細々とバイトをしつつ、気付けば三十代を超えた。
家族との連絡は絶えて久しい。アプリの最新トーク履歴はずっと昔の通知のまま。休日にやることと言えば、好きだった特撮ヒーローのビデオを見るか、ネットの海に沈んで行くか。
いつか俺だって。
そんな言葉で慰めて、どれほど時間が経ったのか。ちょっとした趣味の共有を面と向かわず出来た時の、ささやかな喜びを生き甲斐だって言い訳して、ずるずると穏やかに"詰んでしまった人生"。
冷めた弁当を温めるレンジの隅に残った汚れ。
きっとそんな色の目をして生きていた。
『か、かっけー!』
だから、憎たらしかった。
ショッピングモールの屋上のバイト。
仮面のヒーローに扮して風船を配る時給920円の稼ぎ。
怠惰な日々を引き伸ばす、それだけの意味も意義もない仕事姿に、爛々と目を輝かせた少年が。
風船を渡した後にも、かっけーかっけーと喚きながらついてくる子供が。
憎い。妬ましい。鬱陶しい。眩しい。
『うるさいんだよっ、どっか行けよ!』
スカッとした。くしゃっと泣き顔に崩れた子供を見て。一目散に逃げてく後ろ姿に、ざまあみろと思った。
でもその瞬間は見られていたらしい。
着替える間もなく年下のバイトリーダーに胸倉を掴まれて、そのまま会場裏の従業員室に連れ込まれて。
ボロクソに言われた。
あんな子供相手に、あんたはクズだ、って。
そんなこと自分が一番分かってた。
だから──目の前に広がる光景が天罰なんだとしたら、いくらなんでもやり過ぎだって思った。
焼け焦げた匂い。いつから回ったかも分からない火の手。降りたシャッター。喧騒。悲鳴。煙。
パニックに陥って、一周回って落ち着いた。
あぁ死ぬじゃん。息苦しくて、ビニール製の覆面仮面の下半分を千切った。大した延命にもならないのに。
それに、命を引き延ばす意味なんてなかっただろう。
クソみたいな人生だったし、こっから先もどうせそうだろし。
肺につまる息苦しさに、もういいかって諦観が混ざって巣食って飲み込もうかって瞬間に。
『ぅ⋯⋯ぅ、ぅ⋯⋯』
その男は不運にも、見つけてしまった。
その男は幸運にも、聞いてしまった。
煤と火傷だらけの子供の姿を。呻き声を。
『たす、け⋯⋯る⋯⋯か、ら⋯⋯』
救いを⋯⋯"望まず"。
『おれが、みんな、を⋯⋯たすけ、る⋯⋯から⋯⋯』
地に這いつくばいながら、自分が"救い"になろうとする姿を、見て。
気付けば、身体が動いていた。
『──────仮面ヒーロー、参上ッッ!!!』
『え?』
『やあ少年。私が来たからもう安心だ!』
これはありふれた名もなき
◆Ex.000 或る英雄の光について ◆
馬鹿な事をしている自覚はあった。
助かる保障もない。熱は徐々に思考と体力を奪っていく。
でも、何故だが力が湧いていた。
引っ越しのバイトではすぐに折れた気持ちも足も、ちっとも折れることはなく。
朦朧としていく意識の中で。
小さな右手が縋る、本当は頼りないはずの自分の肩。
小さな左手が握る、あれだけ酷くあしらったにも関わらず掴み続けてくれていた風船。
背中から伝う、少年の心臓の鼓動。
命の音。まだ生きている音。
諦めないという気持ちばかりが、湧いてきた。
この子を絶対に助けてみせると、本能が誓う。
だからフラフラと炎の中を歩きながらも、彼は仮面を被り続けられた。
『けほっ、かめっ、んっ、ヒーロー、大丈夫⋯⋯?』
『もちろん、だとも。仮面、ヒーローは、"無敵"だからね』
笑顔が気持ち悪いと言われて、接客業をクビになったこともある。
目があっただけで一回り下の女の子に舌打ちされたこともある。
でも背負った小さな温もりは、自分の下手くそな笑顔にさえ、安心したように目を細めてくれている。
『そっかぁ。凄いなぁ』
『凄い、か⋯⋯』
『うん。おれなんかより、よっぽど凄いよ』
『⋯⋯そんなことはないさ。きみが、私を立ち上がらせてくれたんだ』
『⋯⋯え?』
今こうしていられるのは、この背にある希望のおかげだった。
何者でもない自分を奮い立たせてくれたのは、他でもない少年の勇気があったからだ。
ろくでもない人生。ただ死んでないだけだった人生。
それを変えてくれたのは、こんな小さな光だった。
『さあ、ついたぞ』
満身創痍ながらも辿り着いた非常階段への入口。
背中の少年をゆっくりと地に下ろしながら、力を振り絞って扉をあける。
パラリ、と顔のすぐそばを石ころが落ちてきた。
限界が近いことがわかった。
自分も、奇跡のような時間も、この建物も、天井も。
けども仮面を被ったのなら、最後まで被り通す。
何者でもなかった男の最後の意地は硬かった。
『さあ、行きたまえ、少年。私は、もう⋯⋯⋯⋯いや。
私には、まだ、救わねばならない人達が居る』
『う、ん⋯⋯わかっ、た⋯⋯⋯⋯』
扉の向こうへと、少年が行く。
小さな背中だ。自分よりもずっと小さな。
けども心に火をくれた、優しく強い意志を持つ幼子。
思い出す。その無垢さに嫉妬した理由を。
多分あの時は、もう取り戻せない煌めいていた自分の時間を、見せつけられていた気がしたのだ。
でも、今は違う。
最後に、男は確かに取り戻せたのだ。
この目に映る光が、その証だった。
『あぁ、そうそう。ひとつだけ、伝えるべきことがあった』
『!⋯⋯なに? 仮面ヒーロー』
『少年。
私を⋯⋯⋯⋯、────いや。
俺なんかを、ヒーローにしてくれて、ありがとうな』
名も知らぬ小さなヒーローへ。
名も残らぬヒーローからの、感謝の言葉。
それだけ伝えると、男は扉を勢いよく閉めた。
閉めて、背を預けて、ずるずると座り込む。
見上げたのは、今にも崩れそうな天井の亀裂。
けどもそこに浮かんでいたのは、背から下ろす際に少年が手離してしまった、風船が一つ。
(⋯⋯あぁ、なんだよ)
懐旧。嫉妬。憧憬。奇跡。
光。
光。
さいごの、ひかり。
(⋯⋯悪くないもんだな)
拝啓。この空の向こうの神様へ。
願わくばどうか、この背にあった小さな光が。
(⋯⋯⋯⋯、────────)
そして名もなき英雄は。
満足したように目を閉じて。
奇跡のように保ち続けた風船は。
崩落と共に、散っていった。
こうして、少年──『熱海 憧』は、家族で訪れたショッピングモールにて発生した火災事件の中、生還した。
だが、生還者の中に、彼の両親の名はなかった。
けれどその胸には、あまりに強い憧憬が残った。
幼き彼が、目にした背中。
名もなき英雄の詩である。
【Ex.Episode-000.】 Fin.
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