第4話:0032F「カンパネーラ」

 ――いや!


 プリオシン港に向かいバイクを走らせているジョンの頭に、いきなり聞き知った声が響いた。この悲鳴――


 「カンパネーラか!?」


 ジョンはヘルメットを押さえながら問うた。しかし返事は来ない。ジョンは法務局を出てからずっと、特殊なヘルメットでネーラの意識に間接結合しようと試みていた。が、向こうのテロリスト共が妨害しているのか、ずっと結合は上手くいかず、砂嵐のような耳障りな音を返してくるばかりだったのに……


 ――やめて、私の中に入ってこないで!!


 また悲鳴が頭に響く。それを聞いて確信した。これは幻聴ではなくカンパネーラのものであると。 

 

 「ネーラ! 繋がっているのか!? 俺が分かるか!? 俺の声が聞こえるか!?」


 返答はない。その代わりジョンの頭の内側を、奇妙な映像が走った。と、同時に腐臭のような臭いまで匂ってきた。

 古ぼけたアパルトメント、シャワーの水滴が華奢な身体を滴る。血まみれの包丁。倒れている男、白い雪が降る中、どこかの崖に柵を越えて立っている女――


 あれは……


 ジョンの頭痛が酷くなる。バイクを路肩に寄せ停止させ、もう一度ネーラと間接結合を試みる。意識が身体から乖離し、砂嵐が舞う映像は徐々に鮮明になっていき、視界だけではなく、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感が鋭敏になっていく。まるで捜査前、ネーラと直結し、彼女の研ぎ澄まされた感覚をリンクするみたいに。

 意識が暗転する。するとジョンは道路ではなく、古びた列車に乗っていた。

 

 「……!?」


 驚いて周りを見渡す。他に乗客はいない。自分の手を見てみる。ライダー用手袋を着用していた両手に手袋はなく、自分の服装もライダースーツから、くたびれた背広姿になっていた。

 窓の外を見る。雪が降っている。どこまで行っても町は雪に覆われていて、空はどんよりと灰色だ。

 と、その光景を窓枠に肘掛けながら見ている者が正面にいた。いつの間にか現れたそいつは若い女だった。長い黒髪、青い瞳の――

 

 「ネーラ!?」

 

 間違いなかった。服装こそ薄汚れた冬のコートを着ているが、その姿はいつもアフターケアの時に電脳空間で会うネーラの姿だった。


 「ネーラ、無事か!? ここはなんなんだ? なんで俺とお前はこんな列車に乗っている!?」


 その言葉にネーラは答えなかった。代わりに視線を寄越した。大きな青い目には何の光も灯っていない。絶望した者のみが持ち得る目の色だ。


 『次は、サザンクロス駅、サザンクロス駅、コールサックへお行きのお客様は、こちらでお降りください』


 アナウンスと共に、ネーラは立ち上がった。彼女は何の荷物も持ってなかった。


 「おい!」


 彼女の肩を掴む。すると景色が変わる。先ほどまでの列車の客室内ではなく、そこはスラム街であった。

 饐えた匂いが狭い路地に漂っている。落書きされた壁、ゴミ箱はゴミで溢れている。段ボールにくるまって寝るホームレス、煙草を吹かしながら客を待つ立ちんぼの娼婦。猥雑感と、退厭感が、ここには漂っていた。

 ジョンはそのうちの一つの古ぼけたアパルトメントの一室に入っていった。何故そこに入るのか、彼にはわからない。ただ身体が勝手に動いていた。

 鍵を開け、室内に入る。中は外観通り小さく、物に溢れていた。


 「おかえりなさい、お父さん」

 

 まだハイスクール上学年程度の少女がキッチンで洗い物をしながらジョンに言う。それは10代のネーラだった。


 「ああ、ただいま」


 いかにも労働者然とした小太りの男が返答した。ジョンはその光景をまるで映画でも見るかのように傍観していた。これはなんだ、ネーラの、記憶……?


 男がネーラに言う。シャワーを浴びてきなさいと。ネーラは無表情で頷き、キッチンの蛇口を閉め、慣れたようにバスルームに行き服を脱いだ。そして熱いシャワーを浴びる。今日はどれくらいで終わるのかな。できるだけ早く終わればいいのに。あとどれくらい回数を重ねれば終わるのだろう。お母さんが退院してきたら、これももう終わるのかな。でもお母さんは昏睡状態だ。治る見込みがないってドクターは言っていた。入院費も治療代も馬鹿にならない。ああ、いつになったらお父さんは普通になってくれるのだろう。いや、そもそも家が普通だったときがあったかな。あれが始まる前だって、お父さんはいつも私を叱って――


 ネーラは壁についた手をぎゅっと握る。シャワーの水滴がネーラの身体を流れ、排水溝に流れていく。汚いバスルーム。私と同じ――


 ザザ、と砂嵐が走る。しかしそれは一瞬のこと。すぐに映像が回復する。しかし今度の映像はおかしい。大昔のサイレント映画のように白と黒と灰色のモノクロで構成されている。古びた天井をネーラは見ていた。そこにある染みの数はもうとっくに数え終えてしまった。


 父の動きに合わせてネーラの身体も揺れる。なんの感情も抱けない。もう何かを感じるのを止めたのだろうか。


 最初はいつだっけ。私がハイスクールから帰ってくると、父が仕事にも行かないで酒を飲んでいて、何があったのか聞けなかった。父は泣いていたから。いつも強いお父さんが泣いている。私は動けなかった。父の太い手が制服を脱がしてきても、泣いているお父さんの前では気づくのに時間を要した。ベットに連れて行かれて初めて抵抗した。だけどお父さんはごめんよ、ごめんよと泣きながら謝るばかりで、私はされるがままだった。その時はとても痛かったけど、何回かしたらすぐに慣れた。私が我慢することで失業してしまった父が再び働いていけるなら、私は甘んじてこの行為を続けよう。私が我慢すればいい。誰にも言わなければいい。そうすれば全てが丸く収まるのだから。


 揺れる。世界が小刻みに揺れる。ただ早く終わるよう願いながら、空虚な目をネーラはずっと天井に向け続け――


 『はじめまして。私はソーシャルワーカーの――』


 "彼"が来たのは、私が大学受験を断念するとハイスクールの先生に言って暫くしてからだった。優しい男の人。彼は私の家庭に問題ありと見なしたスクールカウンセラーが通報して福祉局からやってきたソーシャルワーカーだった。


 彼は父親を福祉法に触れているとみなし、父は警察に捕まった。私は福祉局に保護され、しばらくセーフティハウスと言われる私と境遇の似ている子供達の集まる施設に入れられた。私はそこでは最年長だった。だから年下の子達の面倒を見なければいけなかった。弟妹の居ない私は子供とどう接していいかわからない。

 そこで子供達への接し方を教えてくれたのは”彼”だった。彼は優しく賢かった。私はこんな知的な男の人に会ったこともなければ、こんな風に優しくしてもらったこともなかった。だから彼は生まれて初めて私に好意的に接してくれた異性だった。彼の事を思うと、胸が締め付けられ、同時に甘い感情が心を満たす。彼に会えた日はそれだけで幸せだった。


 それから暫くして私は施設を出なくてはいけなくて、"彼"が施設を出た後のことを相談に乗ってくれた。彼と離れるのが嫌だった。だから福祉局で働くことを希望した。彼は驚いていたが、私は彼の近くに居たかった。本当なら一緒に住みたかった。恋人関係になりたかった。でもそこまで図々しいことは言えなく、私は特別枠の雇用で福祉局の受付の担当になった。専用の宿舎まで用意してもらって、仕事はなかなか充実していた。


 ある時、彼が食事に誘ってくれた。嬉しかった。はじめてブランド物のワンピースを買って、初めてハイヒールを履いて食事に行った。出てくる食事は今まで食べたことのない程美味しかった。

 初めて飲むワインで酔った勢いもあるのだろう。私は彼に告白した。ずっと好きだったと。初めて会ったときから惹かれていたと。彼はひくこともなく真剣に私の告白を聞いてくれて、恋人にしてくれたのだ。嬉しい。今まで生きてきてこんなに嬉しいと感じたことがあっただろうか。幸せ。彼は言った。

 

 『ファーストネームで呼んでくれるかい? 君は僕の恋人なのだから』

 『ええ、わかったわ、ジョバンニ』

 

 ジョバンニ・ラ・カムパネルラ。それが彼の名前。私の恋人の名。一番愛おしいヒトのフルネーム。二十歳の夜、私はジョバンニと恋人になった。


 ジョンの意識にはネーラの記憶や感情が、時折ノイズが混じりながらも、全て流れ込んできた。コードネーム"ジョバンニ"と名付けられた男は、意識をコードネーム"カンパネーラ"と名乗った少女とほぼ完全に同調させていた。他人の記憶を勝手に見ていることへの羞恥心も背徳感も感じなかった。今のジョンはネーラで、ネーラはジョンであるのだから。

 

 記憶の映画は続く。ネーラの半生が記された映画が。

 

 それから私たちは同棲することになった。幸せだった。彼は誠実で優しくて、私を愛してくれている。父のような歪んだ愛情とは違う。女として、男に愛して貰うことがこんなにも充実して心を満たすものだったなんて。私は幸せ者だ。

 でも、時々ふと思う。彼が私と父の関係を知ったらどう思うだろう。彼は私が父から虐待されていたことしか知らない。の具体的な内容を知らない。一方的なものであったが、もし父と肉体関係を結んでいたことを知っても、彼は私に変わりなく接してくれるだろうか。

 否、きっと彼は変わらない。彼は私を愛してくれている。自分の恋人にどんな過去があってもきっと受け入れてくれるだろう。彼は、ジョバンニは、器の大きい人だ。大丈夫。

 

 『そんな……まさか君が……そんなことを……』

 

 ある日の夜、私は彼に過去を話した。”虐待”の内容を。それがどのくらい続いたのか、それが始まったきっかけも、全て。

 ジョバンニ、あなたには私の全部を知ってもらいたかったの。今まで隠していてごめんね。そう言うと彼は台所でえずいた。その背に手を乗せようとすると『触るな! 汚らわしい!』と拒絶の言葉と共に、私の手は払いのけられた。今、なに? なんていったの?

 

 『ずっと僕を騙してきたんだな! 汚らわしい売女ばいため!』

 

 騙した? 私が貴方を? 私はなにも好き好んで父に身体を預けていた訳じゃない。私には私の辛さがあった。貴方は私を愛してくれていたんじゃなかったの? 何故私を罵倒し続けるの? 何故? なぜナゼ何故――

 ああ、そうか。


 彼は、私のことなんて愛してなかったんだ


 気がついたら、私は包丁を握りしめていた。血まみれの包丁。彼の、ジョバンニの血がべっとりとついた包丁。彼は、ジョバンニは床に蹲っている。血だまりが、彼の身体からどんどん広がっていく。

 何も考えられなかった。父に初めて犯された時と同じ。思考というものがすっぽりと抜け落ちて、何も考えることが出来ない。一つわかったのは、

 

 私は、誰からも、必要とされていない、ということ

 

 それから北へ行く列車に乗るまでの記憶はない。気がついたらこの列車に乗っていた。北の地に行き先を決めたのは、付き合いたての頃、彼と北に旅行に行ったから。あの日も雪が降っていた。私は彼と寒いねえなんて話ながらお互いに手を繋いで観光して……

 私はその地で一番高い崖から飛び降りた。なんの躊躇もなく。どんどん地面が迫る。私は死を覚悟して目を瞑り――


 次に目覚めた時は、病院のベットの上だった。


 私は死ねなかった。途中にあった木々がクッションとなり、私は一命を取り留めた。しかし足の骨が粉砕骨折して、骨はバラバラ状態、脊髄にも損傷が見られ、私は大手術を受け、生き残ってしまった。何故死ねなかったのだろう。私なんて生きていても仕方ないのに。誰からも愛されない私が生きていたって、何の意味が――

 

 『そんなことない。君は幸福に生きる権利がある』

 

 そう言ってきたのは初老の恰幅の良い男だった。ブルカニロと名乗るその男は、法務局の局員だと自己紹介をしたあと、こう言った。

 

 『連邦法第一条にこうある。我が連邦国民は誰もが幸福に生きる権利があり、心身共に健康であるべき、とな。君には幸せを求める権利がある。どうだね、君の素質を生かして、我が国に貢献してくれないかね?』

 

 ブルカニロ課長は言った。今度連邦第13特殊捜査法が施行されると。それは戦後国内で急増した身体改造やドラッグによる重犯罪者を、同じく心身を強化することを許可され、連邦法のほぼ全てを行使できるライセンス許可証をもつ捜査官を作り上げ実際に捜査させるのを認めた法律であると。その為に素質のあるものを片っ端からスカウトしていると。私も十分その捜査官になれる素質があることが検査の結果わかったと説明された。


 ブルカニロ課長の言っていることの全てを理解したわけじゃない。でも私にはがある。その言葉に魅力を感じた。どの道断ればジョバンニを殺害した容疑で刑務所に入れられるのは確実だ。


 私はイエスと答えた。だけど直接捜査はしたくない。もうなんにもやりたくなかった。何もかも忘れて私は眠りたい。夢の中なら私を傷つけるモノはないから。もう嫌だ。誰かを愛したり愛されたりそんなことで心を摩耗してくのは。


 そう正直に言うと大丈夫だとブルカニロ課長は言った。君は感知能力と情報処理能力を強化しよう。どの道今の君の身体を強化するのは少々骨が折れる、君は他の捜査官と組んで情報提供などの支援に回ってくれればいい。君には精神面での素質があるからな、と課長は言い、以後、私は五感と情報処理能力を強化され、更に一ヶ月の大半を眠る事で変性意識を保ち、予知能力めいたものを生み出し捜査の予測を行う事になった。実際の捜査はバディ相手の捜査官が行った。


 私はバディ相手に必ず足の速い相手を求めた。もう私の足は殆ど使い物にならなく、自由にどこかを走り回ることが出来ないのだから。その欲求は彼、彼女らに満たして貰おう。


 最初に組んだ相手は同い年くらいの若い男性だった。私の要求どおり彼は非常に足が速かった。足だけでなく全身を強化された彼は、しかしある日強化の副作用で精神が崩壊し廃人状態となってしまった。この頃はまだ強化技術も今ほど進んではなく、身体の強化には必ず強い副作用がついて回った。それは精神の退行・記憶喪失であったり、強化の超過負荷に元の筋肉が耐えられなくなり半身不随になったりといったものだ。


 3人目までその副作用で皆ライセンス捜査官を辞めざるを得なかった。4人目からは私が彼らの身体のアフターケアをすることでなんとかバディを組めていた。が、4人目の相手の女性は妊娠・出産によりライセンス捜査官を退職、5人目と6人目は巨大犯罪シンジケートの捜査中に重要な情報と引き換えに殉職した。


 7人目、つまり現在の相手は馬鹿な男だ。女にフラれてヤケ酒し飲酒運転を起こした挙句、交通事故を起こした馬鹿な奴。でも、馬鹿と言えば私も馬鹿か。私だって男を刺した挙句に自殺しようとしたんだから。

 男がバディ相手の場合、私は決まったコードネームをつけていた。ジョバンニ。かつて私が愛した男の名。私が殺してしまった男の名。わたし、が、この、手、で――


 世界が乱れる。意識をネーラと同調していたジョンは、そこで初めて何者かの視線を感じた。マウントディスプレイをつけたあいつらの恰好は、間違いない、共和国のテロリストだ。 


 ネーラの意識が自分のと離れていく。彼女は悲しんでいる。泣いている。見られてしまった。私の記憶を。また犯された。もう生きていけない、生きていたくない――


 テロリスト達は笑っている。ネーラの記憶を勝手に見た彼らは、にやにやと笑っている。下卑た笑顔。その嗤い顔がぐにゃりと歪み、彼らの手がネーラの四肢に絡みつく。やめろ、ネーラに、俺の相棒に――


 「触るなぁ!!」


 怒鳴ると同時にジョンの意識は覚醒した。荒い息を整えながら身体を掻き抱く。筋肉質な身体は0057M、コードネーム”ジョバンニ”と呼ばれる自分の身体であった。

 辺りを見渡す。そこはプリオシン港へ向かう途中の道路の路肩であった。


 (戻ってきた……?)


 ジョンはヘルメットに手をつけ、もう一度ネーラの意識に”間接結合”しようと試みた。だが先ほどと違い接合は何度試しても出来なかった。


 (いや、拒否されている……?)


 接合の感じがいつもより違う。これは回路の不具合だとか、第三者に妨害されているのではない。ネーラが、自分の意識への接合を完全に拒絶しているのだ。パートナーである自分や、全ての他者の干渉を拒んでいる。


 「……………」


 ジョンはヘルメットを外すと、潮の匂いが混じった空気を肺いっぱいに吸い込み、そして顔中の汗を拭った。ネーラの意識と同調していた時に感じていた感覚が、まだ残っていた。


 あいつの記憶に誰かがハッキングした。それは恐らくテロリスト共だろう。ジョンの脳内には、最後に見たテロリストの歪んだ笑顔がべっとりと不快な記憶として残っている。

 そしてネーラは泣いている。悲しんでいる。無理やり記憶を掘り起こされたことで、彼女は泣いて心を閉ざしている。そんな風にしたのは誰だ? 俺のパートナーを悲しませているのは、どこの誰だ?

 決まっている、それはネーラを、カンパネーラを捕えている共和国のテロリスト共だ。


 「許さねぇ……」


 怒りの表情で、ジョンは再度バイクに跨り道路を走る。唯一無二の相棒であるカンパネーラを救うために、彼はプリオシン港へバイクを走らせる。

 ヘルメットからは、もうなんの音声も聞こえなかった。

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