第10話 もう、本格的に、水泳と向き合うしかないよな…

「浩紀―、ちょっと、こっちに来てよ」

「今ですか?」

「うん。そうだよ」


 彼女は誘惑するかのような口ぶりで問いかけてくる。


 あの先輩から誘われているのだ。


 ここから先、夏芽雫なつめ/しずく先輩の誘惑に乗ってしまうと後戻りできないような気がしてならなかった。


 ここはグッと堪えて、耐え忍ぶしかない。




 学校の敷地内にあるプール場にいる春風浩紀はるかぜ/ひろきは、冷静な態度で水着姿の先輩と向き合う。


「ねえ、浩紀、もう少し見てよ、こっちの方」

「いや、いいですから。それよりも、早くプールの掃除を終わらせた方がいいと思うんですけど」


 浩紀は頑なに、その場所から移動しようとは思えなかった。


「そんな、真面目なことばっかり言って。そういうところはよくないよー」


 浩紀が動き出す前に、夏芽先輩の方から歩み寄ってくるのだ。




「ねえ、浩紀? 一緒に何かしよ」

「いや、まずは掃除が先では?」


 浩紀はブラシを両手に持ち、プール内の床を満遍なく掃除していた。ある程度、綺麗になったものの、まだ全然である。


「もう、つまんないし」

「つまんなくてもいいですから」


 浩紀はサッと、夏芽先輩の方から視線を逸らす。

 やはり、いくら冷静を装っていたとしても、先輩の方をずっと見ているのは、心に来るものがある。


 先輩の誘惑に押し負けてしまいそうだ。


 極力、視線を合わせないように……。


「浩紀って、そういえば、童貞なの?」

「ん⁉」


 急な質問が飛んできた⁉


「ねえ、浩紀―、教えてよ」

「なんで、そんなことを言わないといけないんですか?」

「だって、気になるじゃん。浩紀の事」


 夏芽先輩は浩紀の体を突っついてくる。


 先輩の指先が、胸元に接触するたびに、くすぐったくなるのだ。


 が、我慢するんだ……。


 絶対に、堪えるしかない。


 しかし、難しいことだってある。寄りにもよって今日、先輩が身に着けている水着はビキニタイプであり、特に胸元が見えているのだ。

 本当に目のやり場に困る。


「ねえ、教えてよ。じゃあ、私の経験人数とか知りたい?」

「い、いいです、そういうのは」

「どうして?」


 夏芽先輩は浩紀の顔を覗き込んでくる。


「どうしても……」

「どうせ、知りたいんでしょ?」

「そ、そんなことは……」


 浩紀はチラッと先輩の方を見てしまう。


「やっぱ、気になってんじゃん」

「⁉ ち、違いますから」

「浩紀、ほっぺが真っ赤になってる」

「それは……その……」

「それは、何?」

「それは……暑いからです」

「暑い? そうかな? プール全体に水を撒いてるし、涼しい方だと思うけど?」


 夏芽先輩は浩紀の態度に怯むことなんてしない。


 むしろ、さっきよりも積極的になっている気がしてならなかった。


 そもそも、単純なやり口では、先輩の攻めの戦術から逃れることはできないのだろう。


 ……こ、これじゃあ、いくら心臓があっても足りないって。


 浩紀は心の中で悲鳴を上げるのだった。




「そういう態度を見せるんだったら、やっぱ、童貞なんでしょ?」

「その話は、もう辞めにしませんか?」

「えー」


 夏芽先輩は不満げに頬を軽く膨らませていた。彼女は年上女性なのだが、一瞬、可愛らしく見えてしまうものだから、困りものである。


「じゃあ、童貞ってことで」

「ん⁉ そ、それは嫌なんですけど」

「じゃあ、色々とヤってるってこと?」

「そういうわけでもないですけど」

「ヤってるんだったら不潔じゃない」

「というか、それ、どっちの返答でも、俺のイメージが下がりますよね?」

「そうだね」


 夏芽先輩ははにかんでいる。


 多分、先輩は浩紀を弄んでいるのだろう。


 そうとしか考えられなかった。




「夏芽先輩はどうして、水泳部を再開させようと思ったんですか?」

「それ、知りたい?」

「はい」


 浩紀は一応、聞いてみることにした。


 ここ数年ほど、廃部同然となっていた部活をもう一度やろうとは、普通は思わない。


 一からやるとか、膨大な時間がかかってしょうがないからだ。


 夏芽先輩はもう、高校三年生であり、これからのことを考える時期に差し掛かっている。

 就職かもしれないし、進学かもしれない。

 色々な事情だって、先輩にはあるだろう。


 それを破棄してまで、部活を再開する必要性があるのだろうか?


 浩紀からしたら、先輩が何を考えているのか不明なのだ。


「私、浩紀には昔のように戻ってほしいって思ったのもあるんだけど。どうしても、浩紀と乗り越えたいものがあるの」

「……乗り越えたいもの、ですか?」


 なんか、真面目な発言をし始めたんだけど、どういうことだ?


 ふざけた態度の多かった夏芽先輩の雰囲気が変わったことで、浩紀は戸惑う。


「水泳大会よ。今年の八月にあるの」

「八月……ということは、あと、一か月ちょっとしかないんじゃないですか⁉」


 浩紀は脳内にカレンダーを思い浮かべ、考えてみたものの、その大会までほぼ時間がないのである。


 一か月しか猶予がないのに無謀すぎる。

 今更、練習して、どうなるのだろうか?


「夏芽先輩……本気で参加しようとしてるんですか?」

「ええ、そうよ。だから、こうして、水泳部を再開するために、プールを掃除してるのよ」

「でも、え……急すぎますし。俺、二年近くも泳いでいないんですけど」

「大丈夫でしょ」

「え……いや、いや、無理です」


 浩紀は焦っている。

 身振り手振りで否定的な発言を口にした。


 夏芽先輩は陽キャみたいな感じの軽いノリで話しているが、そう易々したものではないのだ。


 大会と言ったら、多くの観客が見に来るだろう。

 故に、下手なことをしたら、余計、今通っている高校のイメージを下げてしまう可能性だってある。


 そんな無謀なことはやりたくはない。


「……どうしても参加しないとダメなんですかね?」

「そうだよ。でも、浩紀なら大丈夫だって、自信持ちなって」

「――ッ⁉」


 夏芽先輩から抱き付かれた。

 そして、耳元には先輩の吐息が吹きかかってくるのだ。


 耳の性感帯が刺激され、体に押し付けられる先輩の爆乳具合が、直接伝わってくる。


 直接と言っても水着越しなわけなのだが、夏芽先輩のおっぱいが大きすぎて、布一枚だけだと、直接感じているような気分に陥るのだ。


「浩紀、やっぱ、童貞? だから勇気出せないんでしょ?」

「ち、違います。童貞じゃ……」

「だったら、もっと勇気だそうよ。じゃないと、私、皆に浩紀が童貞だって、言いふらすよ。放送委員会の子に頼んで」

「⁉ そ、それはちょっと。というか、そういうプライベートな話題は誰にも言わないで下さい」

「別にいいけど。ということは、私と一緒に活動してくれる?」

「……は、はい」


 ダメだ。

 夏芽先輩と距離を置こうと努力すればするほど、先輩の思うつぼである。


 水泳部の入部届を書いてしまった時点で、逃れられない運命なのかもしれない。


 これでは幽霊部員としても無理そうだ。




 水泳をやりたくないって思うのは、まだ、過去と決別できていない証拠なのだろうか?

 そんな疑問が、浩紀の中に生じた瞬間だった。




 浩紀は昨日、前向きになったら夢に告白すると心に誓ったばかり。


 今は諦めて、一度嫌いになった部活ともう一度向き合うしかない。


 嫌だが、浩紀は水着な先輩と水泳部員として活動していくしか、現状を変えるための手段は残されていなかった。

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