第3話

「走って!」

「はぐれないで!」

 私達は今、双子の家を離れて森を走っていた。

 ローザのエースをなんとかやり過ごし、一時の平穏を手にしたがそう長くは続かない。一箇所に止まっていれば見つかるのは時間の問題だ。だからこそ、ハットと双子は安全な場所に案内すると言って私の手を取り、走り出した。

 隊列の先頭は双子。彼らに続くようにしてハット。その彼の手が、私を引いている。

 ハットの帽子はディーの手にしっかりと握られていた。はぐれない為に取ったこの陣形は、ディーから五メートル以上離れることのできないハットの特性をこれ以上ないほど上手く組み込んだもの。

「どこまで行く。相手は国だろう、逃げ切れるものなのか?」

「大丈夫デス。レイディ、どうか止まらナイデ。彼に見つけてもらうまでの辛抱しんぼうですカラ」

 靴底が地面をえぐる。引きずられるまま体は進む。繋がれた手は、決して離さないと誓うように強く。景色の変わらない森の中、私はただ、すがるように彼を追う。

 それは、幼い子供が親の背中に手を伸ばす行為に、どこか似ている気がした。

 行かないでと泣く子供の声と、さえずるような小さな鈴の音が聞こえて、意識が揺れる。



 気付いた頃にはもう、私の足は、地を駆けてはいなかった。

「……ハット?」

 そのてのひらに温かさはなく。誓うように、祈るように握りしめた手はただ虚空こくうくだけ。孤独と不安が濁流だくりゅうとなって襲い掛かる。耳元で、ただ鈴だけが鳴り響いて。

「鈴?」

 出会いはまたも頭上から。降り落ちる鈴の音。見上げた木には、太い枝に身体を預けて器用に寝そべる人形ヒトガタの猫がいた。黄金の瞳は、私をじっと見つめている。紫の髪が目にかかって実に気怠けだるそうだ。

 私が彼を猫だといった理由は被ったフードの凹凸おうとつの所為だった。中身があるのかどうかは不明だが、いわゆる猫耳フードといわれる代物。色がコートと同じ紺だから、フードは羽織ったコートについているらしい。中はTシャツ。少し目に痛いピンクと紫のボーダー。一瞬腰のあたりに見えたピンクの毛は、尻尾なのかアクセサリーなのか判断が付かない。

 猫は私を見つめるだけで、何も言わなかった。私は、彼から視線を逸らさないだけで精一杯。敵か、味方か。ハットの仲間なのかも、国側に立つ者なのかも分からないこの状況で、たった一人で立ち向かえるほど、私は強くはなかった。

 恐らく、猫と見つめあった時間は一分もなかっただろう。体感はあてにならない。なぜなら、地面から猫を見上げていたはずの私は今、木の上で地面を見下ろしているのだから。木の幹に添うように立った彼の隣で。

「なっ、お前っ」

 それ以上、声は続かなかった。乱暴にされたわけではない。猫は私の口に指を一本当てただけだ。それは誰もが分かるジェスチャー。静かにしろという無言の意思。

 彼は、敵ではないかもしれない。地面から移動させられた時、負荷などかからなかった。それ以前に、移動させられたことにすら気付かないほど優しく運ばれた。今も、私が木から落ちないようにずっと支えてくれている。

 この優しさが敵に与えるものだというのなら、私は何を信じればいいのか分からなくなってしまう。騙すための演技だというのなら、見事というほか言葉がない。

 信じてみよう。他に縋るもののない私は、こうして必死に手を伸ばす以外、出来ることなどないのだから。


 木の上に上げられて、それほど時間は経っていない。何故この猫が私を木へと上げたのか、声を上げないよう指示したのか。その意味が私にも分かるように、耳があの音を拾い上げる。規則的な、統率のとれた足音。金属の擦れるあの音は――。

「全く……なぜローザの後始末なんて私達がしなくてはならない。この森に深入りすれば、深手を負うのはこちらだというのに」

 高く鋭い、女性の声。追ってきたのはローザのエースではないらしい。猫に支えてもらいながら、感付かれないように盗み見る。そこにいたのは軍服の人物が数名。統一のとれた赤と黒。一人だけマントを羽織っていた。どうやらマントの女性がトップらしい。

「時間は厳守しろ。探せ」

 命令のまま、四方へと散っていく兵士。指示を出した女性は、立ち止まったまま、動く気配はない。よりにもよって、私たちがいる木の下に陣取られてしまった。

 息が詰まる。心臓が早鐘を打つのをやめない。追われているという事実を、これ以上なく感じてしまう。見上げられてしまえば見つかるこの状況で、その先を否応なく想像させられる。

 あの女性を見ていられなくて、顔を上げて――。

「……」

 猫が、私を覗き込んでいた。

 無機質な目が、じっと私を見つめている。その表情は限りなく無。声を上げないのは分かるが、その表情からも何一つ察せるものはない。

「?」

 一体彼は何が言いたいのだろう。目は口ほどにものをいうなんてことわざがあったが、目も口もものをいわない彼のどこを見ればいいというのだ。

 私の困惑が伝わったのか、それともただの気分なのか。分かりやすく彼は右手を挙げた。コートの袖で指先数センチしか見えない手。こういうのを確か・・・萌え袖、なんて言った気がする。

 そのほぼ服の手を、訳も分からず見つめていれば、軽く手を振って服をずらした。白い、細い、綺麗な手をしている。女性のような白魚の手。ずっと隠れているから日に焼けないのだろう。

 猫は、その手を私の頭に乗せられてぽんぽんと軽く叩いた。

「っ」

 ……撫でられている。伺い見た彼の表情は、相変わらずの無だ。

 冷静になって考えれば、なんと器用な子だろうか。敵が下にいる中で息を殺し、木の上でバランスを取りながら背を幹に預け、左手で私を支え、右手で私の頭を撫でている。

 慣れているのだろうか、こういう状況に。だから、大丈夫だよ。と彼は言いたいのか。怖がる私を安心させるために、こうしてくれているのか。

 これは全て憶測で、真実は何も分からないけれど、目も口もものをいわない彼は、その行動を見ればいいらしい。

 国からの追っ手がこの森から帰るまで、彼のその行動は続いたのだった。

  


 彼に抱えられて地に降り立ち、彼に手を引かれて歩みを進めて十数分。森が一気に開け、建物が見えてきた。

 人工的に作られたであろう広い林冠ギャップに建てられていたのは小さな一軒屋だ。背の低い生垣で囲まれた、レンガ造りで暖かみのある家。その入り口は、白薔薇のアーチ。決して豪奢ごうしゃではないが、品が良い。家主のセンスが伺える。

 迷うことなく彼は私を連れてアーチを越えた。小さい庭に幾つのも花壇。その一つに、白い老婆が佇んでいた。銀製のジョウロで色とりどりの花に水をやっている。

 彼女の身を包んでいる白の衣装は、中世ヨーロッパ時代のドレスと表現するのが妥当だろうか。貴婦人と呼ばれる階級の女性が身につけていたものに近い。上下が一つになったワンピース型で、ゆったりとしたシルエット。腰は細く、スカートは針金が入っているのか縦長のドーム状で崩れる様子がない。

「チェス」

 隣に立ったままの猫が、言葉を紡いだ。話せたのかとそればかりに気を取られて、手を離されたことにも気づけなかった。

「あら、お帰りなさいチーちゃん」

 振り返った老婆は笑っていた。穏やかな笑み。たおやかな口調。刻まれたシワに、レンズの小さい丸眼鏡。老婆というよりおばあさん、おばあちゃんといった方がしっくりくる。柔らかく、暖かい、好好爺こうこうやと呼ばれる人種。

「……

 小さく呟いた猫の言葉に疑問を抱く。お帰りなさいにはただいまと返すべきなのに、今彼はいってきますと言わなかったか。しかし、老婆はそんなことを気にした様子もない。それどころか、彼ではなく私を見て、ゆったりとした足取りで近づいてきた。

「お嬢さんがハットさんのお連れの方? お怪我もないみたいで、良かったわ。私はチェスというのよ。この子はチーちゃん」

 老婆、チェスは軽く、上品に会釈えしゃくをして、私の様子を確認してから安堵し、隣の彼を紹介してくれた。チーちゃんというからにはチーという名前なのだろうか。それとも略称、愛称か。判断はつかない。

「初めましてチェス。私は名前を覚えていないので、好きに呼んでください」

「分かったわ。ああそうそう、チーちゃんが迎えに行くと伝えたのに、あの子達ずっと心配してたのよ。ほら、こっちこっち。いらっしゃい」

「え、あ、あの! ちょっと!」

 チェスは、挨拶が終わった瞬間思い出したように手を軽く叩いて、私の手を掴んで引っ張って行った。意外にも力が強い。私はなされるがままに庭を突き進む。一人置いて行かれたチーは、そんな私達の後ろをゆっくりと付いてきていた。



「「お姉さん!!」」

「うっ、わ」

 部屋に入った瞬間に塊が二つ、声と共に飛びかかって来た。焦りながらも倒れないように踏ん張ることに成功して、塊を確認する。見下ろせば白のベレー帽が二つ。ツイード・ディーとツイード・ダム。共に森を走った仕立屋の双子。

「言ったそばから!」

「何ではぐれるの!」

 文句に際し顔を上げた双子は、目に涙をため、不安そうな表情を隠すことも繕うこともしていなかった。私の予期しない軽率な行動は、相当不安をあおったらしい。

「ごめんな。心配してくれたのか、ありがとう。大丈夫だ」

「「お姉さんのバカぁ」」

 ごめんとありがとうを繰り返し、優しい双子を撫で、あやす。縋る力はまた強くなった。子供二人に全力で抱き着かれては身動き一つ出来ないが、身から出た錆。不安にさせた私が悪いのだから、拒否など出来るはずもない。

「レイディ」

「……ハット」

 聞こえた声に顔を上げる。ザ・ハットが、小さい丸テーブルに備え付けられた椅子に座したまま、私を見ていた。いつもの怪しい笑顔が少し曇っているような気がして、責任を感じているのかと思った。私の手を引いていたのは、彼だったから。

「ご無事でなによりデス。よかった、本当二……」

 意識などしていないだろう。思わず出てしまったと分かる、安堵の溜息。その顔は今にも泣き出しそうだった。不安を詰め込んだ、今までに見たことのない顔。そんなにも苦しそうなのに、涙は流れない。その瞳に溜まることも、潤むことさえなかった。ただ表情が苦しいだけ。取り繕うこともせず、誤魔化しもせず、彼は苦しそうに、綺麗な顔を歪めて私を見る。

 側に行ってやりたい。抱き締めて、はぐれてごめん。心配してくれてありがとうと、言わなければ。また彼が、心の全てを飲み込んでしまう前に。

 多少強引に双子を剥がす。ハットに駆け寄った時に見た彼の表情は悲愴ひそうから驚愕きょうがくに変わっていたけれど、構わず抱き締めた。

「レイディ!?」

「勝手にはぐれて悪いっ、お前のせいじゃない私が、私が悪いんだ……ごめんなハット、ごめん」

 彼の頭を掻き抱く。うねっていても指通りのいい、触り心地の柔らかい髪。ずっと私の傍に居たのに、触れるのは初めてだと今更気付く。

「弱くて、ごめんな」

 彼が責任を感じるのは当然だった。だって私は、自分がない幽霊のようなモノなのだから。存在さえ不確定な、

 名前というものはとても大切だ。ただの識別番号ではなく、個人に与えられた自分という証。存在の証明そのもの。全てのものには名があり、名のないものは存在しない現実。というのに、今の私に名はない。私はただ、人間という曖昧な種族の名だけで、存在を証明しているに過ぎないのだ。それは、奈落を目の前にして、崖に立っている状況と変わらないのではないか。

 思えば、私は守られてばかりだった。ハットに。ツイードの双子に。チーという名の猫に。守られて、庇われて。

 何も知らない、何も分からない子供のような私。誰かに縋るしかない幼子おさなご。自分が分からない者は、自分に責任が持てない。自分で持てないものは、誰かに持ってもらうしかない。私が持てなかったものは、ずっとハットが持っていてくれた。溺れる私を引き上げるように、迷う私を導くように。空っぽの私に初めて出会った、ただそれだけの理由で。

「――――お帰りナサイ」

「……ただいま」

 強くなろう。優しい彼の声を聞いてそう誓う。ちゃんと一人でも立てるように。前を見て歩けるように。彼の痛みを受け止められるくらい、私は強くなろう。

 無くしてしまった『私』を取り戻す。それだけが、今私に出来る唯一だと知った。

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