第2話
「レイディ」
「ん?」
「お願いがあるのデス。アタクシを送ってくれまセンカ」
日が昇り、視界が開けて彷徨い始めた私。その周り半径五メートルほどをふらふらしていたハットが急に立ち止まって言ってきた。
「どうかアタクシを家マデ」
「……ああ、いいよ」
帽子を拾ってやった時と同じ反応をしてしまったのは、仕方がないと諦めてほしい。
帽子に家があるというのはどう反応すればいい。と、私は
本当に、果たして帽子とは何なのだろうか。
家に向かって進むハットの後をついていく。相変わらずボロボロなその姿に悲しささえ感じ始めた頃、彼の耳から垂れる紙に気が付いた。用途はピアスで間違いないはずなのに、その形状がどうも変だ。縦に長い五角形。まるで、服についた値札のような。
「なんなんだ、それ」
「ハイ?」
「その、ピアスみたいなもの」
「ピアスというよりはタグ、デスネ」
立ち止まってくれたハットに近づいて、タグと呼んだピアスを見せてもらう。そこには小さな字で、『In this Style 10/6』と書かれていた。
「この型十シリング六ペンス。だったと思いマスガ、合っていマスカ?」
「……多分。もしかして、値段か? コレ」
ハイ。と言われて分かった。確かにそれなら、コレはタグで合っている。つまりこれがザ・ハットの値段というわけだ。こいつ、売り物だったのか。
まさかのことにタグを見つめたまま黙っていれば、ハットも私を見つめていた。正確には、私の顔の右側辺りを。
「レイディのも、変わった
「え?」
「おや、知らなかったのデスカ。黒い羽根が、耳から下がってマスヨ」
黒い羽根のピアス。言われたところで実感はない。そこに何かがあるような感覚はなく、指摘された今でさえ、その存在は霞よりも希薄だ。右手で触れて初めて、その感触が存在を証明するほどに。
見てみマスカ。と、ハットは私の右耳に触れる。彼がピアスを外すその刺激だけがそこに何かがあるという証明なのに、外れた瞬間という事実だけは、明確に理解してしまった。大事な何かが無くなる
決して小さくはない。肩までは届かずともその存在を証明するには十分な大きさだった。純粋な闇が、羽根の形を模しているかのような漆黒。見つめ続ければ、いつか吸い込まれてしまうのではないだろうか。
知らないはずのそれに既視感を抱く。もしかしたら、大切なものだったのかもしれない。記憶のない私には、知りようのないことだけれど。
どれくらいそうしていただろう。数十秒か、数分か。無言で羽根を見つめる私を、ハットはじっと待っていてくれた。
「アタクシが付けまショウ。貸して下サイ」
彼と視線を合わせれば、手を差し出しそう言った。私は素直に羽根を彼の手に載せる。このピアスは、自分で付けてはいけない気がしたのだ。
「頼む」
羽根はハットの手によって再び私の耳に垂れる。ハットの家へと歩みを進めた今でも、その存在を証明するかのように触り続けてしまった。もう、あの不安はないというのに。それどころか、とても安心している。
「楽しそうデスネ」
「ああ、楽しい。ありがとうハット」
小さな認識。証明の一歩。こんな僅かな歩みでも、確かに前へ進んでいる。『私』を知る一歩への礼だったが、彼は気付いているだろうか。
一瞬、彼の張り付けた笑みがまた消えた気がした。少し驚いたような、不意に
「イイエ。アタクシの大切なレイディ」
その声に変化はない。その表情に差はない。しかし、出会ってからの短い間で見た二回の機微。仮面のようなその笑顔。
笑顔の裏に隠された寂しさと、抑え込んだ嬉しさの意味を知りたいと思った。
* * *
一緒になんて、入らなければよかった。半径五メートルは自由なのだから、外に居てもよかったのに。
私は今、双子の少年に囲まれて着せ替え人形にされている。
「双子が失礼しまシタ」
「・・・いや、大丈夫」
どれほどの時間がたっただろう。やっと双子から解放された私は、ハットにお茶会への参加を進められた。無論用意するのは双子なのだが、もみくちゃにしてしまった謝罪だとかで大人しく客扱いを受けている。ハットに、どうしてお茶会なんだと聞けば、なんでも昔はよくやったのだとか。帽子がお茶会というのは理解できないが、意味が分からないのは今に始まったことじゃない。
「ごめんね、お客さんなんて久しぶりだったから」
小さな丸テーブル。私がハットのシルクハットを膝に乗せ、向かいにハットが座っている。そこに、まだ声変わりのしていない少年の声と、コトッと物が置かれる音。甘い
右の視界に、白いベレー帽と黒いヘ音記号の
「これもどうぞ、お姉さん」
今度は左、こちらも白いベレー帽だが、こちらの刺繍はト音記号だ。もう一人の片割れ、ツイード・ディー。青みがかった黒の髪と目、聖職者の服を参考にしたような黒いコート。明るい笑顔に抱く
この双子、帽子の刺繍がなければ見分けが付かないほど似ている。彼らをよく知るハットがそういうのだ。どれほど似ているかは想像に難くないと思う。
だがそれよりなにより頭身がおかしい。顔の比率が大きいと言えばいいか。三頭身なのだ。ミニキャラをそのまま拡大したようだが着ぐるみなどに感じる違和はない。可愛らしさだけが前面に押し出されている。まさに奇跡の三頭身。
ハットの眼といい、双子の頭身といい、違和感はあるのに拒否感がないのは何故だろう。それも記憶のカケラなのかと考えていれば、テーブルに双子も座った。右がダム、左がディー。そして目の前には笑顔のままこちらを見つめ続けているザ・ハット。
小さなケーキと紅茶が一人に一つ。小さな小さなティーパーティ。誰かと囲むテーブルというのは、それだけで価値がある気がした。
「今更だけどお姉さん」
「ハットを連れてきてくれてありがとう」
左右で交互に声がする。全く同じ声質の、全く同じ音量で。一人で喋ってもここまで同じトーンを維持できるだろうか。
「「ようこそ、ツイードの
ここは双子、ツイード兄弟が営む仕立屋。ハットがここを家と呼んだのは、風に飛ばされてボロボロな帽子が更にボロボロになり、それを直してもらうため殆どここに居候しているせいだった。まぁ、ただ単に動けないという理由もあるのだろうが。
こんなに大きな帽子、邪魔じゃないか? とは、流石に
「お姉さん、その帽子頂戴」
「ああ」
左側、ト音記号の刺繍。ディーに言われるままハットの帽子を託そうとディーを見れば、彼の膝には何故か、そこそこ大きなバスケットが乗っていた。今からピクニックにでも行くのかと疑いたくなるほどの
「なんでバスケット……」
「うん? ああ、コレ。別にピクニックに行くわけじゃないんだけど」
首を傾げたディーが膝に視線を落とし、納得したように声を上げる。ふたを開けて中を見せてもらえば、入っていたのはサンドイッチではなく、色とりどりの糸と何種類もの
「二人分入れるとね、これくらいじゃないと入らないんだ」
「なるほど?」
一つの箱で、二人の道具。確かにそれではよくある裁縫箱では入らないだろう。なんでわざわざ一つに集約する必要があったのかは、分からないが。
糸を解き、布を変え、縫い合わせて形を整える。
「いつもすみまセン。ありがとうございマス」
「そう思うなら飛ばされないでよ……」
こういうことはよくあるらしい。謝るハットに、迷惑そうに返すディー。けれどもその雰囲気は温かく、家族を思う優しさに溢れていた。
「え、嘘でしょ」
そんな空気を裂くように聞こえた、
「ダム?」
ディーの声は聞こえていないのか、ダムは反応しない。いや、聞いている余裕がないのかもしれなかった。カーテンを持つ彼の手が、小刻みに震えていたから。
「あれってローザ……? ローザのエースが来た!」
「ローザ!? 軍の衛兵がなんで今っ、逃げてお姉さん不法侵入で捕まっちゃうよ!」
見えるほど
ハットに目を向ければ、いつもの笑みが少し強張っているように感じた。
「隠れていて下サイ、レイディ。見つかると
「逃げるという手は」
「間に合いまセン」
統率のとれた特徴的な足音は、直ぐそこまで近づいてきていた。
「ちょっと! 何々?」
「営業妨害だけど?」
大量の足音が近づき、家の周りで止まる。ドアが
私は今、
「営業?お客の一人もいないじゃない」
低い男性の声。女のような口調。知らない声の持ち主が、この隊の長だろうか。敵意のあるその声が、
「何の御用デス? ローザのエース」
ハットの声。やってきた男性はローザのエースと呼ばれているらしい。一番ということはやはり隊長なのだろう。
「誰か来たみたいなのよ。アリスかもしれないし、見てこいって命令されたの」
「また、懐かしい名前デスネ」
ありす? なんだかとても耳なじみのある名前だった。彼らは『ありす』という人物を探しているらしい。私のことは不法侵入者ということだけが知られているようだ。
「アリスか、侵入者か。どちらでもいいの。見てなぁい? ハット」
「見てまセン」
即答する。声の印象は変わらず、嘘の有無は拾えない。
領地への無断侵入に対してこの取り締まり。この国は、思った以上に面倒なようだ。
不意に、男性の声が途絶えた。嫌な空気だ。息がつまる。汗が噴き出す。
もしかしたら、中断したお茶会を見つけられたのかもしれない。人数に合わない食器と食べ物。これは、誰かがここにいたという証拠になってしまう。明らかなケアレスミスだった。
捕まれば、どうなるのだろう。ハットは碌なことにならないと言っていた。この国のトップは、それほどまでに気難しいのだろうか。
「これが、気になるのデスカ?」
「ええ、まぁね。人数に合わないし、用意したてでしょう?」
沈黙を続ける男性に、何故かハットはそう言った。わざわざ首を
「一つお聞きしますが、アタクシの茶会に常識があるとおもっているのデスカ?」
あまりにも当たり前のように言うから、一瞬彼が何を言ったのか理解できなかった。ハットの茶会に、常識がない? それは、一体どういうことだろう。
「……
「……」
微かに、彼が笑った気配がする。
マッドハッター。ローザのエースが放ったその言葉が、妙に引っかかった。確かに彼はどこかおかしい。どことは言えないがそれは間違いない。何かしらが決定的にズレている。しかし、狂っていると言えるほどだろうか。先の言葉もそうだ。彼は
何があった。この世界に、何が起こったというのだろう。部外者である私には、決して分からないことだったが、過去の彼は、今の彼とは別人のようだったのだろうと、何故か想像できてしまった。
「……まぁいいわ、今回は見逃してあげる。あなたのことはよく知ってるし、特別よ? それに……あたし、今の女王は好きじゃないの」
「
靴底が、床を叩く音がする。
「いいの。ああ、あと一つ。リーフには気をつけたほうがいいわ。それじゃあたし達、帰るわね」
無数の足音が遠ざかる。どうやらローザのエースは部下と共に帰ったらしい。怖かった怖かったと、双子の声が届いてくる。
キィと音を立てて、
「もう、大丈夫デスヨ。レイディ」
暗闇に慣れた目には、部屋の光は少し眩しかった。
改めて彼をみたが、やはり私には、貼り付けた笑みの優しく紳士な帽子にしか映らない。
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