『鵞鳥の魔女』の遺産

@Lo-Fa

第1話

 夢を見た。欠けた夢。黄金の少女と、漆黒の青年。

 笑っている。知っている。なのに、顔だけがどうしても認識できなかったぼやけてしまう

 飛び立つ鳥が、白い羽根を撒き散らしていった。


   *   *   *


 目を覚ます。暗い視覚、土の匂い。それらが凄まじい勢いで流れていく。いきなりの展開に脳が止まってしまっていたらしい。

 気を失う前と変わらず、私の身体は自由落下の真最中だった。


 正直意味が分からない。説明しようにもどうなっているのか本人にすら分からないのだから、本当にどうしようもない。何故こうなったのか、記憶を探っても何も出てこないのだ。私が落ちている理由も、どこに行くのかも、私の過去も、素性も、名前さえ何一つ。まるで落ちていく私に反して思いだけが取り残されているかのように。

 抵抗もできないまま、落ちていく。あるかも分からない終わりへと向かって。



 終わりは唐突に訪れた。暗闇の中、予期せずに戻ってくる地面の感覚と正しい重力。落下の長さからは考えられないほど柔らかく、痛みもない着地だった。疲れてベッドに倒れこんだ時の感覚によく似ている。触れて確認すれば、クッションになったのは弾力を生むほどに積まれた落ち葉のようだった。空間的にも圧迫感はなく、程々には広いのだろう。

 手元が少し明るくなった。微かに光が差し込んできたらしい。太陽では表せないこの光は、月明かりだ。外は夜のよう。雲でも晴れたのか、内部が徐々に照らされていく。

「ぁ……」

ここは、大きな樹洞じゅどうの中だった。

何もない空間は、ひどく空虚くうきょだ。樹洞の中でも大きなものを、伽藍堂がらんどうともいうらしい。木の中にぽっかりと開いた穴。うろ、と呼ばれるもの。もしくは、うろ。大の大人が二人くらいは入れるこの空間は、寂しさがまとわりついて、離れない。


 外に出よう。そうすればこの心に空いた穴も、気にならなくなるだろう。


 這い出た先は、森だった。あれほど大きな樹洞ができる木がある場所なのだから、大体の予想はついていたが予想以上に広いらしい。見渡す限り木だ。果ては見えない。

 空を仰げば漆黒のキャンバスに丸く穿うがたれた穴。今宵は満月だった。月光は辺りを照らし、闇に攫われる誰かを守る。何も分からない私のことも。

 不意に何かに縋りたくなって空に手を伸ばす。触れられないと知っていても、懲りずに続けるのは愚かな人の性だろうか。

 と、伸ばした手に生じる違和感。正確には、私の腕を包む服。腕のラインを強調しながら裾へ広がる黒いマーメイド。私は、こんな格好をしていただろうか。それに、いやに足が寒い。見下ろせば全面的に主張する右足と黒の模様。体重のかけ方がやや変わっていたのはパンプスの、ヒールの所為だ。やはり違和感があって、私は改めて身体を確認した。

 長い黒髪は高く結い上げられ一つに纏められている。背中に手を回して確認すれば括っていても簡単に手が届いた。かなり長いらしい。

 身に纏うのは黒色のドレス。タイトなワンピースを骨盤から下へ、右側だけ裂いたような曖昧な服。例えるなら片側スリットのチャイナ服。形だけならそれが一番近い。裾や切れ目が動くたびに光る。それは、波を描くように裾へあしらわれたスパンコールが明かりを反射して輝いているためだった。

 服の切れ目から見えていたのは翼を広げた鳥を模したタトゥー。太腿の右を占領する一羽。残念ながら種類までは分からない。

 どれほど確認しても何も分かりはしない。名前さえも思い出せない私に自分が元々どういう人間だったのかなんて理解できるはずもなかったのだ。しかし、違和感は拭い去ることが出来ず、頭の隅をチリチリと焼く。

 ああ、どうしてこんなことに―――。

「お嬢サン、その帽子を拾っていただけまセンカ?」

「は?」

 突然、頭上から声が落ちてきた。落ちかけた思考が浮上する。見上げれば、木に引っかかったくすんだ緑の男。

「……」

「アタクシがいるこの木の下なのデスガ」

 男が何かを言っている。実に冷静に、恐らく普段通りに。しかし、聴覚と視覚が上手くかみ合わない。その冷静な声が、あまりにも普通なトーンが、目の前の異常な状況と合わなさ過ぎて頭がマヒしていく。

「お嬢サン?」

 男は、風に飛ばされたマフラーのように枝に引っかかっていた。台風に巻き上げられ、落ちてきた案山子かかしにも見え、腕や足が無理矢理な方向へ曲がり、女子供でも折れそうな細い枝にぶら下がっている。

 要するに、重さも意思もない『モノ』にしかありえない体勢だった。

 それが、揚々ようようと喋っている。ある意味一種のホラーだ。男が笑顔でいることがその異常事態に拍車をかける。語尾が多少妙な発音になっていようが、そんなことは最早どうでもよくなるほどに。

「お前……」

「ハイ?」

「苦しくないのか?」

 あり得ない状態の手足。中途半端に釣り上げられ、地に足の付かない、安定しない身体。圧倒的に不安を煽るその状況で、男は張り付けた笑みを浮かべている。

「違和感はあっても痛みや苦しみはありまセン。もしあったとしても、アタクシには何も出来ないのデス。アタクシ、ただの帽子ですカラ」

「は?」

 二度目の疑問符。なんだか頭がついていかない。これは私の記憶がないからとか、そういうのは関係ないはずだ。きっと、何かしらの常識が丸ごと取り換えられているに違いない。

「デスカラ、アタクシただの帽子なのデス。持ち主のいない帽子一つでは立つことさえも出来ず、アタクシが持っていれば立てても動くことは出来ず、モノには持ち主が必要不可欠ですカラ。アタクシ一つで出来ることといえばこうして喋ることダケなのデス」

 果たして帽子とは。人形ひとがたの喋る帽子など最早意味が分からない。

 よくよく見れば、異様に丸い目をしているが、整った顔立ち。ハニーブラウンの髪は天然パーマだろうか。自由にうねって所々葉や枝が引っかかっている。着ている服は、元は仕立てのいい紳士服だっただろう。今は見るも無残にぎだらけだった。パッチワークに失敗したかのように布はよれ、糸はほつれてみすぼらしい事この上ない。彼が拾ってくれといった帽子、シルクハットも同じような状態だった。

 お嬢サン。とまた声が降ってくる。

「その帽子を拾っていただけまセンカ?」

「……ああ、いいよ」

 セリフによって引き出された二度目のファーストコンタクト。今度はちゃんと、こいつの帽子を拾ってやることにした。



「自己紹介が遅れマシタ。アタクシ、ザ・ハットと申しマス」

 そのまんまじゃないか、というのは流石に止めておいた。


 私が帽子を拾い上げたと同時に木からひらりと降りてきた、ハットと名乗ったこの男。動けるじゃないかと言えば、それなら帽子を落として下サイ。なんていうものだからその通りにしてやれば、糸が切れたように倒れてしまった。

 どうやら彼にはルールがあるらしい。『主人がらねば何一つ 自身が持つなら立つだけで 誰かが持つなら従おう』。ハットは歌うようにそう語った。帽子は使われてこそですカラ。なんて、冗談みたいに笑って。要するに、持ち主が居なければ本当に何も出来ないらしい。ちなみに持ち主が居てもその周り、半径五メートルほどしか自由でいられないとか。全く持って制約の多い帽子である。

 仕方がないから、暫定ざんてい的に私がハットの持ち主になることになってしまった。持っているだけでいいというので、被ることはやめておいた。ハット自身が被るならまだしも、私のこの服装にこのボロボロシルクハットはどうしても合わないからだ。

「お嬢サン、アタクシの新しい持ち主。お名前をお聞きしてもいいデスカ?」

 そして冒頭に戻り、このセリフに続く。しかし、この質問に答えてやることは出来なかった。

「悪い。名乗れる名は、持ち合わせていないんだ」

 私は何一つ、知っていることなどないのだから。何も覚えていないのだと。全て忘れてしまったのだと語る。気付けば落ちていて、その果てがあの木のうろだったのだと。

 自分の声が、やけに寂しそうに聞こえたのは気のせいではなかったらしい。語り終えて伺い見たハットの顔が、とても悲しそうに歪んでいたから。ああ、笑い顔以外もできるんだな。なんて、外れたことを感じていた。

「デハ」

 だが、笑みが消えたのはその一瞬だけだった。いつの間にか彼の顔は張り付けたような笑みで、楽しそうに怪しさを振りまいている。なんだかとても嫌な予感がした。

「アタクシ、ご主人マスターとお呼び」

「しなくていい。やめてくれ」

 ――――――危なかった。ほとんど食い気味にセリフを重ねて止める。ご主人マスターなんて柄じゃないのに。呼ばれた瞬間こいつを殴る自信がある。寧ろ今、殴りそうだった。

「……デハ、女性レイディト」

「……それなら、いいか」

 別に、初めて声をかけた時のように『お嬢サン』と呼べばいいのに。何故かこれ以来、ハットは私を『お嬢サン』とは呼ばなかった。



 夜も深く、月が陰る。光源のない世界で歩みを進めるべきではないと忠告され、仕方なく腰を下ろしたのは、例の伽藍堂がらんどうの中だった。ハットは意外に夜目が効くらしく、エスコートしてくれたのだが。

「ここなら夜風も防げマスシ、安全デス。アタクシは外で何か来ないか見てマスネ」

 彼の声が響き、反響する。空っぽな空間が、寂しさが不安を連れて帰ってきた。もう、彼の姿は闇に隠れてほとんど見えなくなりかけている。

「レイディ?」

 咄嗟とっさだった。私が伸ばした手は彼の袖にでも触れたのだろう。震えるまま、彼の服を必死に握りしめている。

 疑問を投げかけてくるハットに、答えることは出来なかった。何も言えない。子供の様に、ただ暗闇が怖いなどと。ただ寂しいなどと言える年はとうに過ぎた。いや、何も分からないままの私は生まれたての子供と大差ないのかもしれないが、微かなプライドが言葉を詰まらせる。

「……おやすみなさい、レイディ。朝日が昇れば、寂しさや不安は溶けてしまいますカラ」

「っ」

 触れられて、引き寄せられて、抱きしめられた。帽子ハットと名乗った彼の体温は温かく、人と錯覚する。撫でるその手が、子供をあやすような優しさを持ち、乱れた心が凪いでいく。

 今の私は――縮こまって身体を震わせる、ただの幼い子供と変わらない。

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