191.さようなら、初恋
この部屋は殺風景すぎる。
そうハルに言われて買ったローテーブルを挟んでサクラとココは向かい合っていた。
サクラの淹れた麦茶に口をつけ、ココは喉を潤す。思っていたより渇いていた喉に命じられるままにコップを傾けると、いつの間にか半分ほど減っていた。
ココは湿らせた唇を静かに開く。
「…………大丈夫?」
「あんまり……です」
普段浮かべていた笑顔も、今のサクラには見る影もない。
ココが思っていたよりは沈んでいなかったものの、ショックは大きいのだろう。
「いろいろ考えてたら頭の中がぐちゃぐちゃで……あはは、そのおかげであんまり悲しくないのかも」
「私もずっと考えていたのだけれどね……」
「え?」
「
それは。
サクラがまさに頭を悩ませていたことだ。
どうしてココまでそのことについて考えていたのかという疑問が浮かぶ。
そんなサクラの考えを察したのか、ココは薄っすらと苦笑した。
今は置いておいてくれと、そう言われた気がした。
「命の譲渡――つまり自分の命を捨てて、誰かの命を救う技。そんな技を使うとなれば、やっぱりアンノウンはあなたを救いたいという考えに至ったとしか思えない」
「でも、あの子は……あたしを殺そうとしてました」
「ええ、それは間違いないと思うわ。でも人間の感情って一面的、一辺倒じゃないのよ。相反した感情が同居してることだって珍しくない。例えばダイエットを試みる人間の中には『食べたい』という思いと『食べたくない』という思いが同居してる、みたいにね」
だから。
仮にアンノウンがサクラを殺したいほど憎んでいたとしても。
それに相反する感情を抱いていても不思議ではない。
「あなたが死ぬまで戦いをやめなかった。つまり彼女はあなたが死んだ後に『死んでほしくない』と思ったんでしょう。自分の使命や――命を投げ捨てても構わないと思えるほどに強く」
それは読解だった。
ココはアンノウンと対面したわけではない。
しかし思念のクオリアという人間の心へ強く干渉できる力を持ったことによって、幼いころから心の機微には人一倍敏感だった。
だからこそ、状況と結果からアンノウンの考えや行動原理を読み取り、こうして述べた。
そしてそれは的を射ていた。
アンノウンは確かにサクラへ向けた親愛によって、その心に根差していた行動原理を歪めたのだ。
「…………だったら」
だが。
真実が常に人の心を癒すとは限らない。
「だったら、憎んだままでいてほしかったです……。何もかも終わった後で、あの子がそんな想いを抱いていたなんて言われても……苦しいだけじゃないですか」
例え心変わりしたのが真実だったとしても、死んでしまったらそこで終わりだ。
サクラとアンノウンの関係は、もう二度と前に進むことはない。
あの戦いが終わったときに、道は途絶えてしまった。
もし彼女が最後まで悪に徹していたなら。
サクラを裏切り脅かすことを貫いていたら――もしかしたら彼女のことを心置きなく恨めたのかもしれない。
その場合サクラは命を落としたままだったので、どちらにせよありえない仮定ではあるのだが。
「そもそも……っ」
サクラの喉からひきつけを起こしたような声が上がる。
ぼろぼろと涙があふれ、テーブルに水滴となって落ちる。
過去を振り返るたびに苦しくて死にそうだった。
「あの子の考えを変えられたのなら……っ、もっともっと早くに変えられていたら、違う結末になったんじゃないかって思ってしまうんです……! あたしたち二人がわかりあえる未来だってあったはずなんです……! なのにあたしは……」
失うばかりだった。
そのたびに無力感を嫌と言うほど味わった。
こんな思いをしたくないからそのたびに『強くなる』と誓うのに、未だ力が足りていない。
「あたしは、ずっと……あたしが……大嫌いです……」
「サクラ……」
もう限界だった。
ずっと抑え込んでいた本音が、心と身体の殻を突き破って流れ出す。
「あたしはっ……! 人を、傷つけたから……! 誰かのために頑張ろうと思ったのに、今も人を頼って、助けられて……誰かの人生を損なってて……あたしなんて死ねばいい、早く死ねって四六時中考えてるくせに死ぬ勇気も無くて、罪悪感を吐き出すために人を助けてるクズで、なのにみんなはあたしに優しくしてくれて、それでまた死にたくなって……」
吐瀉物のような想いが口から溢れる。
尊敬すべき先輩が目の前にいて、止めなければと思うのにブレーキが効かない。
なにか大切なものが壊れてしまったのだと、頭の隅の冷静な部分が考える。
「あたしは人に助けられる時だって、助けられる理由を貰って、言いくるめられるフリして甘えてる! 誰かの理由に寄りかかって、優しさに甘んじてる! おかしいじゃないですか、あたしなんて死んだ方がいいはずなのに、頭ではわかってるのに、どうしても怖い! 生きてる価値なんてないクズのくせに意地汚く生きたがる! インスタントで薄っぺらでその場しのぎな価値を求めて誰かを助けて気持ちよくなってる……!」
今まで我慢しきれていたのはハルのおかげだった。
彼女がいたから生きる活力を保っていられた。
前を向いて歩くことができた。
だけど彼女はもういない。
「でも……ほんとはずっと誰かと触れ合いたかった。生きててもいいよって認めてほしかった。この命を許してほしかった。そんな私に、ハルちゃんは一緒に生きていこうって寄り添ってくれたんです。あたしはそれに救われてしまって……だから、あたしは」
告白をするつもりだった。
だけどあの子はもういないから――こうして吐き出すことしかできなかった。
「あの子が好きだったんです。柚見坂ハルって人はいなかったけど、確かにあたしはあの人が……好きだったんです……」
ココはただ静かに息を吸い、目を伏せた。
ややあって、ゆっくりと、優しく微笑みを向ける。
「本当に好きだったのね。そんなにも自分を嫌っていたあなたが、それでも愛して欲しいって思えるほどに……あの子のことが、大好きだったのね」
「はい……っ」
好きだった。
好きだったのだ、心から。
だから今これほど胸が張り裂けそうになっているのだ。
そのことを痛いほど自覚したサクラの両目からとめどなく涙があふれる。
「あの子が……柚見坂ハルが仮初の人物だったとしても、彼女と過ごした時間、そしてその子の言葉で、行動で……あなたが癒されたことも救われたことは間違いなく事実なのよ」
「……そうですね。あの子のおかげであたしはここまでやってこられました」
「起きたことは変えられない。だから『柚見坂ハル』の存在もまた、無かったことにはならないわけだし……そこは胸を張って大事にしまっておいていいと思うわ」
失ったことは変わらない。
しかし、今こうして生きているのなら、前を向かなければ。
サクラはエリに誓ったことを思い出す。
もう振り返らないと。
絶望して膝を折りそうになっても、足は止めない。
ゆっくりでも確実に前へと進む。
「ありがとうございます、ココ先輩。変なことばかり言っちゃってごめんなさい」
「……私が言うのもなんだけど、大丈夫?」
「はい! もうだいじょう――――」
そうサクラが意気込もうとした瞬間。
ぐう、と。腹の虫が空腹を訴えた。
「そう言えばしばらく何もお腹に入れてませんでした……」
「ふふっ……そう」
ココは内心、少し安堵していた。
サクラは間違いなく無理をしているし、空元気混じりだ。
だけどまだ癒されない傷を負った少女の瞳には確かな活力が戻っていた。
何があっても止まらない、生きる意志が。
「ごはんを作ります。良かったらココ先輩もどうですか?」
台所に向かうサクラに、ココは問う。
「そうね、たまにはいいかも。何を作ってくれるの?」
「おかゆにしようかなって」
「おかゆって……風邪の時に食べるものじゃないかしら」
当然の疑問に、サクラは振り返って笑う。
サクラが風邪に倒れた時、おかゆを作ってくれた人が居た。
あの時のことは、今でも鮮明に思い出せる温かい思い出だ。
――――ちゃんと食べなきゃダメって前から言ってるのに……!
――――キューズは心と体が資本だよ。どっちもおろそかにしちゃいけないの。
…………思い返すと叱られてばかりだった気もするが、それでも大切な記憶だ。
「はい。心の風邪です。治すために食べるんです」
「……そう」
いそいそと調理器具を取り出すサクラを、ココは温かいまなざしで見つめていた。
* * *
その晩、サクラは夢を見た。
ハルと手を繋いで一緒に登校する、なんでもない朝のワンシーンだった。
何を話したのかは覚えていない。
それでも心から幸せで――しかし。
それに縋ってばかりでもいられないのがすぐにわかって。
「さようなら」
繋いだ手を離してひとりで歩いていく。
ハルのことは振り返らなかった。
彼女が笑っているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。
それはついぞわからないまま。
だけどそれでいいと思う。
そのままのハルを胸に抱いて、前に進む。
(好きです、ハルちゃん。好きでした、ハルちゃん)
(どうか、綺麗なままで)
未練と悲嘆に別れを告げ、サクラはゆっくりと歩みを続ける。
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