5.憧れの矢


 足を踏み入れた途端、全身の肌が粟だった。

 そこはダンスホールのような広々とした一室。

 しかしきらびやかな印象は一切感じられず、むしろ濃密な鉄臭さでサクラは顔をしかめてしまう。


 薄暗い部屋の奥には何かがいた。

 こちらに背中を向けている上、赤い霧のせいでいまいち姿の判別ができない。

 ただ、人型であることはわかった。ずんぐりとした肢体の全身を覆うように黒く長い体毛が覆っている。

 

 しかしサクラの目にそんなものは映っていなかった。


『着いたな。君の友達がそこにいるはずだが……』


「――――――――」


 見開いた目の先。

 人型の『何か』の向こうに、横たわる柚見坂ハルの髪が見えた。

 体毛に覆われた『何か』がその太い腕でハルを掴み上げているのだ。


 そう。

 まるで、今にもハルを捕食しようとしているかのように。


「……助けなきゃ」


 うわごとのように呟く。

 その声を聞いて念話の主はある程度の状況を察したのか、慌てたような声を上げた。


『待て、そこにモンスターもいるのか? 無理だ、君ではその階層のモンスターには太刀打ちできない!』


 その忠告は右から左に通り抜ける。

 サクラの意識にあるのは、ハルと黒い体毛のモンスターだけだった。

 徐々にその頭部がハルへと近づいていく。

 モンスターの巨躯に隠れていて良く見えないが、ハルはぴくりとも動かない。

 ぼたぼた、と液体がしたたり落ちた。モンスターの口から溢れた、血と涎の混ざったような粘液だ。

   

 ぱちん、と後頭部で火花が弾けたような感覚。

 ズキズキと頭が疼く。

 この感覚には覚えがあった。思い出したくもない、絶望のきっかけ。

 誰かを傷つけた焦げ臭い記憶。


 だが、今は。

 この力は。


「は…………」

 

 気づけば右手をモンスターに向けて突き出していた。

 まるで銃の照準を合わせるように。


 ――――だってサクラちゃんは助けてくれたじゃない。


 誰もが嘲る中で、ハルだけが信じてくれた。

 そんな彼女の命が脅かされようとしている。

 

 手が震える。

 まだ怖い。

 この身に宿る力は、人を傷つけた。


 だが。

 何より、ここでハルを助けられないことの方が恐ろしかった。


「ハルちゃん!」


 絶叫と共に雷光が閃く。

 サクラの右手から飛び出したその異能は赤霧を引き裂き――モンスターの後頭部に炸裂した。

 モンスターの動きが止まる。おそらく大したダメージにはなっていない。しかし苛立たしげに身体を揺らすのが見えた。


「……使えた」  


『どうしたんだ、使えたって……まさかクオリアが?』


「つ、使えました。あたしのクオリア……」


 唖然としているのはサクラの方だった。

 あれだけうんともすんとも言わなかった自分の力が、ここに来て再起した。

 

(あたしの力は――――) 


 この異能がまた誰かを傷つけるのではないかと恐ろしくて引きこもったあの日々の中、偶然動画サイトで見た試合。

 最条キリエという名の選手が勝利をつかみ取った試合だ。

 光に照らされた観客たちが浮かべるいっぱいの笑顔を目の当たりにして、自分もこんなふうに希望を与えられる選手になりたいと願った。

 傷つける力でも、今の自分のように誰かを救えるのだと確信したから。


 だからスカウトを受けた。

 だから学園都市に来た。

 

 そして、今、サクラはここにいる。


『ダメだ、今すぐそこから離れろ!』


「え?」


 モンスターはおもむろに掴んだハルを適当な様子で放り捨てる。

 床に転がされたハルは力なく横たわった。

 思わず頭にかっと血が上り――直後。


 気づけばサクラも吹き飛ばされていた。

 振り向いたモンスターが伸ばした黒い体毛の束が全身に直撃したのだ。

 瞬間、ガラスが割れるような音。サクラの纏うアーマーが一撃で砕け散った。

 

 ずるずると扉を背に崩れ落ちる。

 身体が軋む。口内に血の味が充満する。アーマーが無ければどうなっていたか――考えるだけで恐ろしい。


「衛星より……よっぽど……!」


 モンスターはこちらを振り返っていた。

 毛むくじゃらの身体は、よく見れば毛ではなく電気製品に使われているような黒いケーブルだった。それがサクラの身体を穿った。

 全体の印象はまるで黒い雪男のような外見。空っぽな眼窩に、半開きになった口の中には歯というよりは歪な刃に近いものがずらりと並んでいて、そこから粘液が滴っていた。


 さっきサクラの放った一撃もまるで意に介していない。

 後頭部を軽く叩かれたからやり返した――そんな調子だった。


 脳が熱い。視界が揺らぐ。

 肉体的ダメージもそうだが、急なクオリアの使用も負担をかけている。

 あたかも普段使わない筋肉を酷使して筋肉痛になってしまうように。


 しかもアーマーまで砕けてしまった。これが試合だったならブレイクされたことで試合終了のコールが上がることだろう。

 だがこの場の戦いは終わらない。どちらかが死ぬまで、幕は下りない。


『大丈夫か、天澄さん!』


「けほっ……生きてます」


『もう無理だ、逃げないと死ぬぞ!』 


「逃げません! 逃げたらハルちゃんを助けられないじゃないですか」 


『馬鹿か君は!』 


「ばかでいいです!」


 モンスターは完全にこちらへとターゲットを移した。

 ならばこれ以上ハルの命が脅かされることはないが、逆に言えばここで逃げれば元の木阿弥だ。


 震える足で立ち上がり、モンスターを見据える。

 こちらの攻撃はまともに通じない。

 だけど。


「また明日ねって言ってくれたんですよ」


『え?』


 ――――うん、また明日ね〜。


 別れ際に交わした言葉。

 それはただの口約束だ。

 いや、約束ですらない。別れの挨拶以上の意味は持たない。


 それでもサクラは。


「ここでハルちゃんを見捨てて逃げたら、永遠に明日はやってこないんです!」


 その声を潰さんと、モンスターが再びケーブルの束を伸ばした。

 膨張し束ねられたケーブルの太さは合わせて直径2メートルほどに達する。


 恐ろしいまでの速度だったが、サクラはとっさに横に飛んで回避した。

 動きが見える。身体が軽い。クオリアの肉体強化が働いているのだ。


『とにかく時間を稼ぐんだ。私が到着するまで持ちこたえてくれ!』 


 その声には答えなかった。

 時間稼ぎは不可能だと悟っていたからだ。


 防戦に回れば叩き潰される。それだけの力量差は明白だった。

 さっきの攻撃はなんとか回避できたが、いつまでもそんな幸運が続くとは思えない。

 

 そしてその想像は当たる。

 モンスターがその巨体に似合わぬ俊敏さで飛びかかってきたのだ。

 大きく開いた口の中に、ずらりと並んだ鋭い刃がはっきりと見える。


「…………!」

 

 とっさに回避しようとした足を止める。


 時間稼ぎは非現実的。

 ならば倒すしかない。

 だが、こちらの攻撃は通じない。


 ――――ばけもの。


 蘇る記憶。これが走馬灯か、と理解した。

 トラウマを起点に、これまでの道のりが早回しで再生されていく。

 

 引きこもり生活。

 テレビで見た試合。

 スカウト。

 そして学園都市を訪れて…………


(…………あ)


 リミッター。

 持ち主の力を抑制する。

 それは、ハルが教えてくれた機能だ。

 そして自力では外せないということも。


 モンスターの牙が迫る。

 サクラはとっさに左手でその攻撃を防ごうとした。

 いや――自ら差し向けた。


 直後。


 生肉を潰すような湿った音と。

 木の枝を折るような乾いた音が、同時に響いた。


「うっ……ぐ……!」 


 苦悶の声が零れる。

 ぼたぼた、と鮮血がしたたり落ちた。


 モンスターの鋭牙に噛み潰された、サクラの手首から。


「…………ッああああ!!」


 がむしゃらに放った雷が弾けると、モンスターは泡を食ったように飛び退った。

 だらんと垂れるサクラの左腕。手首は裂け砕けて目も当てられない状態に陥っていた。手と腕が繋がっているのが不思議なくらいだ。


 もはや痛みすらない。

 ただ、恐ろしい勢いで流れ出す血の温かさだけが現実感を繋いでいた。

 

「っつう……でも……!」


 がしゃんと音を立ててリミッターが床に滑り落ちる。


 手首ごとモンスターに噛み砕かれたリミッターはひしゃげてしまっている。

 完全に壊れていないことは驚嘆に値するだろう。象に踏まれようがビクともしないという触れ込みは伊達ではないが、さすがに機能不全に陥っているらしく火花が散っていた。


 これでサクラのクオリアを阻むものは何もない。


 ――――だから、あまり否定しないであげてくれ。いつか自分を認められる時がきっと来るから。


 ああ、と。

 本当に遠回りをしていたのだと実感する。


 自分を認められる時。

 それはきっと、今だ。


「勝ちます。あたしが憧れた、キリエさんみたいに!」


 朗々と叫んだと同時、モンスターが全身のケーブルを爆発的に解放した。

 膨張した夥しい量の黒い束が少女に向かって殺到する。


 回避は間に合わない。

 迎え撃つしかない。

 この質量だ、リミッターが外れたとは言え生半可な攻撃では押し返せない。


 サクラはクオリアをまともに使ったことがない。

 だからあのアンジュのような必殺の型など持っていない。


 しかし、ひとつだけ。

 彼女の中にその”形”があった。


 人差し指と中指を重ね、迫りくるケーブルの濁流に突きつける。


 サクラが学園都市ここに来た理由。

 憧れたのは、ただ一人。

 思い出せ。見よう見まねで良い。彼女の放ったあの攻撃を、今ここに再現する。


 全身から迸る雷が指先に収束する。

 ケーブルの向こうのモンスターに狙いを定め、心を支える憧れを形にした。


「――――雷の矢!!」 


 放たれた雷が一条の矢と化し、黒い群れに風穴を開けた。

 

 迸る電流と熱が吹き払った霧の向こうでは、雷矢に貫かれ頭部を失ったモンスターが呆然と立ち尽くす。

 消し飛んだ首の向こうでは壁に大きな風穴まで空いていて、矢の威力を如実に語っていた。

 

 意識という支えを失ったモンスターの巨体は一度完全に停止したかと思うとぐらりと傾いで、ゆっくり、ゆっくりと――地に伏した。


「倒した……?」


 崩れ落ちたモンスターは黒い塵となって消える。

 同時に部屋に満ちていた禍々しい気配もまた霧散していた。

 

 とすん、とサクラの膝が折れると、そのまま真横に倒れる。

 視界の端に左手首が見える。今も血を流すグロテスクな傷口が。

 その視界もどんどん黒く塗りつぶされていく。血を流し過ぎているのだと気づけないほどに意識は混濁しきっていた。


(…………だめ、倒れたら……ハルちゃんだって怪我してるのに……)


 急速に意識が遠のく。

 視界が暗く狭まっていく。

 意識を押し潰すような感覚に抗いながら、ずるずると這って進み壁際のハルのところまでたどり着く。


 よく見ればあちこちに裂けた傷のようなものができている。

 あの黒いケーブルのモンスターか刃物カニに攻撃されたのだろうか。

 息はあるようだが、出血が続いている。このままでは命に関わるかもしれない。

 

「は……やく、病院に……」


 何とかここから出て、病院に運び込まなければ。

 間に合うだろうか。いや、間に合わせなければ――と。

 朦朧とする意識の中、耳障りな金属音が連続すると部屋の扉が切り裂かれた。

 

 こま切れになった扉を蹴倒すように侵入してきたのは例の刃物カニだ。

 複数体いるが、サクラの霞む視界では正確な数はわからなかった。

 ぎらりと光る無数の刃がこちらに迫ってくる。


「こんな時に……!」


 身体が動かない。

 ハルも意識がない。

 近づいてきた一体がその大バサミを今にも振り下ろそうとして、消し飛んだ。


「…………?」


 何が何だかわからない。

 しかし、部屋の入り口から迸った光がカニたちを消滅させたことだけは理解できた。

 その光景を呆然と眺めていると、部屋に慌ただしい足音が響く。

 少なくとも二人。しかし今のサクラにはほとんど外見の判別がつかない。


「大丈夫か!?」


 駆け寄ってくる誰かの声に必死で手を伸ばす。

 そばにしゃがみ込んだその人の袖を振り絞った力で握りしめた。

 もはや縋るような想いで。


「おね、おねがい……します……たすけて……ください……」


「もちろんだ。君のことは絶対に、」


 遮るように首を振る。

 違う。助けてほしいのは、こっちじゃない。


「その子……けが、してるんです……あたしはいいです、だからその子だけでも……たすけて……」


 相手が息を呑んだこともわからず、サクラはひたすらにうわごとのような言葉を繰り返す。

 自分のことなんてどうだっていい。

 ただ、ハルだけは何としても助けなければならないと思った。


「ともだち、なんです……おねがいします……おねがい、しま……す……」


 サクラの身体から力が抜ける。

 失血。体力の低下。そして無理なクオリアの行使でもはや限界だったのだろう。

 しかし、袖を掴む手だけは固く握りしめたまま放さなかった。


 ”何者か”がサクラを軽々担ぎ上げると、その仲間と思しき者は呆れたようなため息を落とした。


「自分が死にそうなときに他人の心配とはね。嫌いじゃないけど、危ういわ」


「そうだな。こういう子たちを助けられないようでは私たちが戦っている意味がない……急ぐぞ」


 正体不明の二人は頷き合うと、その部屋を後にした。 

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