第25話:脱走
【輝皇暦1657年6月10日 プレラハル王国カルス・アムラ】
大地の淵から日輪が顔を覗かせ、木漏れ日がカルス・アムラに注ぎ始める。朝鳥が、一日の開始を告げる歌声を響かせてその存在価値を誇示する。龍人たちは、霞む瞳を擦って身体を起こしつつ朧気な意識を手繰り寄せて支度を始める。
それは日常。それは普段のルーティンワーク。なんてことない日常を埋める味気ない一コマ。しかし、日常は些細な契機で崩壊するもの。平和とは、突貫工事で建築された基礎がない家のようなものなのだ。
突如、町はずれの森の中から耳を劈く爆発音が轟く。それは、天に届くほどの煙と大地が反転したかのような振動と共に龍人を襲撃する。兵は武器を手に最大限の警戒心を抱き、町の民は反射的に地に伏せて身を護る。
「何だ⁉ 何があった⁉」
混乱と恐怖が綯交した渦潮が統率力を奪い去り、町は平和の活気を過去と未来へ追いやる。警備兵たちは辛うじて残る理性を回転させて現状確認にひた走る。バレンシアは苦虫を嚙み潰したような忌々しい相好を浮かべて爆発の中心地へ駆ける。
「この騒動……やはり牢屋かッ‼」
逃げられた、と怒りの色に染まったバレンシアは麾下の兵を伴って一秒でも早く現場に急行せんとする。それは、警備兵としての存分な使命遂行を果たさんとする彼の意志であり義務でもある。
数分後、バレンシアは麾下を率いて牢屋に駆け付ける。龍人特有の身体機能をもってしても相当息苦しいほどの全力疾走で駆けつけた彼は、乱れる呼吸をそのままについ先ほどまで牢があった場所を仰ぎ見る。
「こ……これはッ⁉」
しかし、彼の視界の中には牢屋らしきものは一切映っていなかった。あるのは切り開かれた青空と深く抉られた巨大クレーターのみ。稀代の悪魔とそれに追随する人間を封じ込めていた檻は跡形もなく消滅していた。
そして、バレンシアはそのクレーターの中央に立つ二つの影を見下ろす。土煙の隙間から覗くそれは、このクレーターの生みの親にして彼が騒動の元凶であることに相違なかった。
「貴様等……一体何のマネだッ⁉」
凄みつつ問いかけるバレンシアの相好は怒りに歪んだ恐怖の具現化。しかし、それを向けられる当の本人は一切気に留めることなくコートに付着した土汚れを払う。
「ん? 君は確か……バレンシアだったか? 早朝というのに、態々見送りにでも来たのか」
「そんな訳があるか‼ これは一体何のマネだ? 余計なことはせず、大人しくしていろ‼」
バレンシアとその麾下はそれぞれ武器を構えて腰を落とす。悪魔という未知の存在に対する警戒を緩めることなく、凡ゆる行動に対応できるように一挙手一投足に意識を集中させる。しかし、アルピナもクオンも自身に向けられる武器と警戒心に一切気を留めることなく足を進める。それは、バレンシアをはじめとする警備兵たちには恐怖の象徴として映る。結果、彼らは無自覚の後退と尻すぼみな覚悟を抱く。
恐怖に駆られた彼らの態度を冷めた瞳で見据えるクオンは、ポツリと呟く。
「どうするつもりだ、アルピナ?」
「フッ、どうする必要もないだろう。あの様子では、最早ワタシ達に手を出すことは不可能。堂々としていればいい」
悠々とした態度でアルピナは足を進める。青い双眼は、恐怖に萎縮する彼らの魂を滑る様に一瞥する。その様は、磊落な富豪のようでも冷徹な領袖のようでもあった。
クッ……。
アルピナ達を包囲する龍人の一人、メルケンスは恐怖に震える自身の肌を恨んだ。手の届く距離に居ながら何もできない自身の無力感に絶望した。迷子になった克己心を探し求めて、群青の海に沈みこむように暗がりへ迷い込んだ。しかし、いくら空元気を振りかざしても脳髄からの電気信号が下肢に送られることはない。できるのは、ただ己の怯懦に従うのみ。
それでも、とメルケンスは一縷の希望を手繰り寄せるようにバレンシアを見る。カルス・アムラの安全と平和を維持する閂ならこの状況を打破できるに違いない、とする思いだった。しかし、相応の立場にある者に対する希望は往々にして夢想や幻想でしかない。誰もが他者に対して一方的かつ過剰な幻想を抱き、現実に直面すると勝手解釈で失望するまでの信用。信頼には程遠い一時的な関係性に彼もまた囚われていた。
そして、何もできない彼らを嘲笑するようにアルピナとクオンはクレーターを登る。不安定な地盤をものともしないその態度は上位者としての矜持と畏怖。彼女らが一歩前進するごとに龍人たちは一歩後退する。決して広くない公衆距離にすら届かない彼らの覚悟は傍から見れば実に嘆かわしく、しかしヒトの子らしさに満ちた儚さも抱き合わせていた。
しかし、龍の血を引いてこの様とは……やはり紛い物か? まったく、10,000年前の人間のほうがまだ敵愾心に満ちていたな。
心中で溜息を零しつつ、アルピナは足を進める。嘗ての地界と現状とを比較しつつ、冷めた瞳で先を見据える。抵抗するだけの覚悟と意地を持ち合わせていたら多少は楽しめたか、と邪推しつつも失望に囚われないだけの理性を保つ。
対するクオンもまた、アルピナと似た思いに至る。今の地界に生まれ育った身として、龍人と呼ばれる者達の存在と力には興味関心と羨望が綯交した感情を持ち合わせていた。当然、彼らが人間と比較して身体機能が格別に優れていることも知っていた。しかし、今こうして向き合うとそれの片鱗すら見せずにこうして怖気づく彼らには失望の色しか見えなかった。
もはや武器すら手に持たず、二人は徐に警備兵の間をすり抜ける。抵抗もなければ雑言もない。穏やかな朝の森林風が彼らの間をすり抜け、清涼感が熱気と恐怖を洗浄する。もはや、誰も彼らを止めようとは思えなかった。そして、アルピナとクオンの姿は森の中へと消えていった。
消え去る彼らの背中を無言で見送ったバレンシアは大きく息を吐いて膝をつく。窒息しそうな恐怖が消えさり、春の陽気に似た安堵が血流に乗って全身へ循環される。そして同時に湧き上がるのは己への失望と屈辱感。不可視の死神が鎌を喉元へ突き立てているような感覚が今も微かに残存し、目で見えるほどハッキリと四肢が震えている。
「クソッ、何なんだあれはッ⁉」
初めて相対する悪魔という種族の恐ろしさを彼は理解した。或いは理解した気になっただけで、それが種族としての本質とは程遠いかもしれない。何れにせよ、それがヒトの子とは隔絶された存在であることは明々白々だった。しかし、その感覚は果たして彼ら個人の感情が産み出したものなのか、将又彼らの魂に残存する龍の残滓が今もなお記憶する恐怖が引きずり出されたのか。それを知る者はこの場にはいなかった。
「バレンシア隊長……いかがされますか?」
彼のすぐそばで同じく冷汗を流すダルシアは、息も絶え絶えといった様子で問いかける。彼もまた恐怖に顔を引きつらせ、微かに残る理性を振りかざして森の奥を見据えていた。
そうだな、とバレンシアは徐に立ち上がる。貧血による目眩に似た感覚が全身を襲い、脱力感でバランス感覚が失調する。しかし、それでもどうにか転倒を堪えた彼は深く息を吐く。そして、周囲の部下を律するように号令をかけようとする。しかし、それは一つの声によって遮られる。
「よい、放っておけ」
その声の発せられた方向を振り返ると、バレンシアを初めとする龍人たちは一斉に敬礼を送る。その声の主、アルフレッドは両脇を近衛に固められて歩み寄ってきた。
「しかし、龍王様。それでは……」
「今は我が息子を救出するほうが先決。下手に追跡して徒に被害を拡大させる必要もあるまい」
さて、とアルフレッドは館のある方角を見る。
「我等も出立するとしよう。あの者よりも先にレイスを見つけねばな」
準備を急げ、と命令したアルフレッドは再び館の方へ戻る。そんな彼に対してバレンシアは口を開く。
「二点ほどお尋ねしますが、龍王様。レイス様の行方に検討はついているのでしょうか?」
「……龍眼を開け。あの悪魔どもは西方に向かって進んでいるあの方角は妙に聖力が強い。背後に何か隠し事が秘められているのだろう」
「畏まりました。それと、ナナ様はいかがされますか?」
ふむ、とアルフレッドは顎髭を撫でる。そして、憂いた瞳で龍眼を閉じつつ呟く。
「ナナには安全な場所に避難してもらっている。これ以上、悲惨な目に合わせる訳にはいかんからな」
そして、アルフレッドはその場を立ち去る。それを敬礼で見送ったバレンシアは、部下を呼び集めて出立の準備に取り掛かった。
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