第5話:悪魔の少女
その時だった。クオンの目線の先、何もない空中に突如として巨大な罅割が出現する。大気が割れ、空間が崩壊していくかのような感覚がクオンの脳裏を過った。そしてその罅割は徐々に拡大し、ついに決壊する。
音もたてずに硝子のように崩れ落ちた先、まるで渦のように開いた空間の裂け目は黄昏色に輝く。クオンの目ではその奥先を見通すことが出来ず、それがこの世のものではないと本能が警鐘を鳴らす。まるで無限の地獄へ落とされるかのような恐怖を抱かせる。
あれは……なんだ? この魔獣達が出したものか?
その正体を推し量ろうとした時だった。その渦の奥に人影が浮かび上がる。それは徐々に大きくなると一人の少女として現れる。
射干玉に深海より深い蒼のアクセントが入った髪は肩程まで伸びる。猫のように大きな目は僅かに吊り上がり、大海のような深い青の瞳孔は蛇のように輝く。それは小柄で華奢な体格と合わさり愛くるしさと勇猛さを兼ね備える。黒を基調としたその服装は肩に掛けられたコートとともに彼女を凛々しく包み込む、スカートの裾とブーツの間から僅かに覗く雪色の大腿は満天の星々より輝くことで可憐さの中に扇情的な色を醸し出す。
女の子……俺と同じくらいか。だが、一体何者だ?
少女は暫く無言で宙に浮かびつつ、眼下の光景を眺める。空中浮遊という人智を超えた力はクオンに衝撃と恐怖を与えるが、しかしその少女は一切気にする素振りを見せない。剰え、それを誇示するように可憐で冷徹な瞳でクオンを見下ろしていた。それに対して魔獣たちもまた彼女の出現に気づき、そちらを見据える。
「何が起きているかと思えば、君達の仕業か。10,000年程度の間に随分と偉くなったものだな」
少女はふわりと空中を移動すると近くの民家の屋根に座り、足を組んで頬杖をつく。外見上は可憐さに包まれた少女然としたものながらも、その存在感及び威圧感は女王とも魔王とも呼んで差し支えない高圧さや傲慢さを存分に見せつけていた。
そんな彼女から発せられる膨大な魔力はそれだけで魔獣たちを刺激する。その魔力の持ち主が一体誰でどれほどの力を有しているかを本能で感じ取った魔獣たちは、ただ無言で委縮して震える事しか出来ない。
「どうした? さあ、かかって来い。君達の相手はこのワタシがしよう」
少女は地面に降りると魔獣たちに歩み寄る。その所作は優雅なようでどこか傲慢さを兼ね備えている。自信に満ち溢れた相好は、その所作と相まって魔獣たちに恐怖を与える。
少女が一歩寄るごとに魔獣は一歩下がる。クオンの身体は魔獣の手から解放され無様に落下する。もはやクオンの存在は眼中になく、彼らの脳内には少女への恐怖が刷り込まれていた。
どうにか地面を這って安全な場所まで逃げたクオンは少女と魔獣の動向を見守る。本来であればもっと遠くまで逃げるべきだろうが、しかしできなかった。少女の瞳が影を地面に縫い付けたようにクオンを拘束し、彼の行動を制限する。
そしてついに、彼の目の前でその戦いは勃発した。……いや、正しくは蹂躙の二文字に集約される凄惨な殺戮風景が繰り広げられた。
魔獣達は挙って雄たけびをあげると一つの集合体のように少女に突撃する。それは意を決した反撃か、或いは深層でなおも燻る本能的な衝動に抗えなかったのか。魔獣ではないクオンには窺い知ることは出来ない。
しかし、それは完全な徒労に終わる。少女の手により一体、また一体と魔獣が斃されていく光景は蟻を踏み潰す幼子のように破壊的で、しかし殺意とは異なる感情で動いている様でもあった。
彼女が手を一振りすれば身体が両断され、一蹴りすれば頭部が潰される。クオンが一体斃すだけでも苦労したというのに果たして同じ魔獣とは見えなかった。
戦いとも殺戮とも呼べるそれはものの数分で終わる。数百はいたであろう魔獣の雄たけびはもう聞こえない。あるいは生を希う断末魔だったのかもしれない。そんなこと考えつつ、クオンは周囲を見渡す。
地面には魔獣だったものが無数に転がり、町は赤い血色に染められる。そして、それを成した少女はクオンの前へ降り立つ。これだけの殺戮の跡だというのに、身体には一切の傷もなければ返り血一滴浴びていない。彼女は冷徹な微笑を崩すことなく無言でクオンの前まで歩み寄る。地面に転がる魔獣の骸を踏みつけると腰に手を当てる。
さて、と少女はクオンを見下ろす。肩程まで伸びた髪がフワリと揺れる。その外見は至って普通の少女。齢は10代後半。黒を基調とした衣装は現代的で、スカートの裾から僅かに覗く雪色の大腿は年齢に見合った蠱惑的魅力を振り撒く。しかしその少女的服装と外観とは異なり、肩に羽織られたコートは男性的で、その勇ましさを雄弁に語っていた。
「いい瞳をしているな、君は」
琥珀色に輝くクオンの瞳を見つめながら、彼女は呟く。何の話だ、と訝しがるクオンの言葉を遮りつつ彼女は微笑を浮かべる。
「いや、こちらの話だ。そんなことより、一先ずは無事のようだな」
「ああ、助かったよ。それにしても凄いな。あれだけの魔獣を一瞬で……」
クオンは土汚れを手で払いつつ、改めて周囲を見渡す。つい先ほどまで周囲を埋め尽くさんばかりいたはずの数百を超える魔獣たちが無残に地に転がされ、町には無音の凪が吹いていた。それは魔獣の殲滅であることと同時に町にいた人間達もまた同様であることを物語っていた。
「魔獣ではなく、正しくは聖獣だ。頭部にある暁闇色の角は彼らが天界の生き物であることの証左。魔獣と呼ばれる生物は存在しない。仮にあれが魔物であるならば、それは魔界と同じ黄昏色になるだろう?」
……聖獣? 天界? 何の話だ?
感謝の気持ちを表明しつつも、クオンはその少女に対する不信の眼差しを向ける。
「ところで、お前は一体何者だ……?」
命を助けてもらって、随分と無礼な聞き方かもしれないのは百も承知。しかし、直前までの光景と彼女から感取される威圧感が彼の心に感謝を上回るほどの恐怖と不信を募らせていた。
無知が恐怖を生み、恐怖が不信を呼び、不信が礼節を排する。理性で抑えつけられない本能的防御反応として、クオンは携えた剣に手をかけていつでも抜ける用意をしたまま尋ねていた。
しかし、少女の反応はクオンの想像するそれとは大きく異なる。梃子でも動きそうにない彼女の相好が僅かに乱れ、いわば瞠目に近いそれを形成する。猫のような目が見開かれ、蛇のような鋭い眼光が輝きを失う。しかしそれもまた一瞬で崩れ、また元の相好に戻る。
「……そうか……いや、こちらの話だ。気にしなくていい。ワタシはアルピナ。君達が言うところの悪魔にあたる種族だ」
明朗快活な、しかしどことなくやや傲岸不遜な気性が窺い知れる口調と相好でそう語るアルピナに対し、クオンの相好は曇り猜疑心を強めていく。
「……悪魔? あれは神話や創作物で語られる空想上の生物。人間の理想と妄想から生じる欲望に合理性を持たせるために生まれた創造の歯車だ、なんて話が主流らしいが?」
プレラハル王国民の宗教観は二分される。かつては神や天使などを信じる有神論者が全てだったが、現在はそうした超常の存在を信じない無神論者が半数ほどを占めるまで増加している。また、基本的に若年層に無神論者は集中する傾向にあるという話も多い。
クオンはどちらかと言えば無神論者。かといって有神論を否定するつもりはなく、居ないと思うけどいればそれはそれで面白いな、程度の認識でいる。しかし、だからと言ってこの少女の言葉を面白がることは出来ない。有神論者はあくまでもそうした存在が実在することを信じているだけ。自分がそういった類の存在だ、と声を大にするのはまた別問題だ。どちらかと言えば一次的な誇大妄想だと断じて当人の精神状態を不安視せざるを得ない。
「ハハハッ、随分と酷いことを言ってくれる。しかし、その様子だと近年は天使や悪魔が地界に降り立つことがなくなったという事だろう。確かに、ワタシが最後に地界に降りてからこの星の時間で10,000年ほど経つからな」
しかし、とアルピナは心中で反駁する。
ワタシは兎も角、あいつらまで地界から姿を消したと言うことか? 確かに、地界に残留する利点は無いが……。やはり、一度あいつらを探し出して話を聞くべきか?
無言で思考に耽るアルピナに、クオンはややあって声を掛ける。
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