第3話:ラス・シャムラ

【某刻某所】


 少女の周囲を無限の群青宙が覆う。遠くに瞬く星々は、朧々たる光輝を放つ事で一切の暗黒世界に微かな安らぎの光を齎す。

 少女の眼下にはその瞬く星々の内の一つが広がる。しかし、それは決してただの星ではなかった。いうなれば“世界”そのものと言っても過言ではない。

 様々な星々を内包する広大な宇宙空間で構成された地界、天使達が住まう天界、悪魔たちが住まう魔界、その三界を包み込み、一つの球体としてその形を保持する不定形な世界である龍脈。全てを纏めて“世界”と呼ばれるそれが、鷹揚な態度で鎮座する。

 彼女がいる蒼穹は、こうした“世界”が無数に存在する場所。いうなれば宇宙の宇宙とも呼べる空間。神が暮らす神界に最も近いこの場所で、彼女は眼下に広がる一つの“世界”を見つめる。正確には、“世界”の中に含まれる地界を構成する一つの星、そこに住む一人の人間を見つめていた。

 その目は猫の様に大きく、世界の光に照らされて大海のように青く輝いていた。膝に至る程の長いコートとその下のスカートの裾が無風の蒼穹で微かに靡く。


「なるほど、そこにいるのか。しかし、あれから10,000年。随分と様変わりしたな」


 それにしても、と少女は腰に片手を当てる。口元は微かに笑い、可憐な様で冷徹にも見える雰囲気を醸し出す。


「地界の繁栄具合に対して天界と魔界はそれほど変化していないな。あの子達を探し出して話でも聞いてみるべきか?」


 そう言うと、少女は“世界”へ降り立つ。蒼穹と龍脈を隔てる膜を潜り、龍脈の中を飛翔する。宵闇で包まれた蒼穹と対極する琥珀色の空間を飛び続け、ある特定の場所に立ち止まる。


 この辺りか。


 一見して何ら変哲もない空間。と言っても、龍脈はただの琥珀色の空間。三界を包んで余りあるその空間は上下左右前後の感覚を失調させる為、果たして本当に何も無い場所なのかは内部から窺い知る事は出来ない。それでも、彼女はそこが正しき地点だと認識し行動する。

 彼女の全身から内包する力が溢出する。瞬きをすると蒼玉色サファイアブルーの瞳が金色に染め変わりつつ輝く。右手を翳すと、そこに溢出する力が集約される。

 その力は魔力と呼ばれるもの。或いは彼女がそう呼ぶもの。彼女が生まれながらに持つ力で、彼女に超常の力を与えてくれる。

 彼女は右手に集約された魔力を琥珀色の空間に流し込む。その魔力に応える様に、琥珀色の空間の直中に罅割ひびわれが生じる。その罅割は徐々に拡大し、ある一定の大きさまで広がった時それは崩壊する。崩壊した先、琥珀色の空間には薄暮時を思わせる空間が渦の様に広がる。魔界と呼ばれる空間への通り道を開いた彼女は、その奥へと躊躇無く踏み込んだ。

 黒い装いに黒い髪の少女は黄昏色の空間を飛ぶ。空間全てが同色に染まり、点在する浮島は一つ一つが地界の星々と同程度の大きさを誇る。


 やはり、外から見た通り魔界はそれほど変化していないか。しかし、妙だな。あの子達ならワタシが来たことが察知出来るはず。にも拘わらず、ここにいる気配が無ければ近づいてくる様子もない。10,000年の間に一体何があった?


 様子を探るべく、暫く魔界を飛び回りつつ不審な存在がないか捜索していた彼女は、一つの声を察知する。


『天使でも悪魔でも何でもいい。本当に存在するのなら、俺を助けてくれッ……』


 ハッキリと聞こえたその声は遥か遠くから聞こえる。天界でも魔界でもなく、地界から語り掛けられるそれは、生死を彷徨する懇願の叫声。超常の存在を希うその姿勢に、少女は歓喜する。猫の様に大きな目を見開き大海のような蒼玉色の瞳が蛇の様に鋭利に輝く。そして、鷹揚な口調でその声に答える。他の悪魔に先を越されない様に、他の天使に出し抜かれない様に、大胆かつ迅速に答える。その声色は明朗快活とも傲岸不遜ともとれる、可憐な彼女を悪魔足らしめる声だった。


『その願い、ワタシが聞き届けよう』


 さて、と少女は地界への道を開く。空中に開かれた渦の向こうには、災禍に見舞われた地界とそれに巻き込まれる一人の青年の姿が映っていた。

 そして彼女は独り言を、しかしまるで誰かに語り掛ける様に紡ぐ。


「対価として何を貰うか? しかし折角の出会いだ。大切にしなければならない。そういう約束だっただろう、ジルニア?」




【輝皇暦1657年6月8日 プレラハル王国ラス・シャムラ近郊】


 晴天の下に広がる見渡す限りの平原を一台の馬車が駆ける。一頭の馬に引かれたそれは、未舗装の荒い道を駆け抜ける。静かな凪が吹き抜け、木々草花を揺らす。雲一つ無い快晴の中を大小様々な白鳥が舞い、燦々と照る日輪の熱が、御者台に座るクオンの頭部を刺激する。


「流石に暑いな。えーっと……そろそろ町に着く頃か」


 地図を確認しつつクオンは額を伝う汗を拭う。休憩までもう一踏ん張り頑張ろう、と気持ちを引き締めたクオンは、再び手綱を握り締め直した。

 数時間後、クオンはラス・シャムラに入る。平原の片隅に位置するこの町は、王国内でも指折りの上位に組み込む程に平和な町。未だかつて魔獣被害とはほぼ縁ない、と言っても過言ではない程に被害は少なく、その年間被害数は王都と比較して百分の一を下回るというから驚異的だ。

 そんな平和な町に立ち寄ったクオンは馬車を停め、近くの店で昼食を済ませようと目抜き通りを散策する。


……まあ、ここでいいか。


 数分歩いたクオンは手頃な店に目をつけると、そこに決定する。護身用の短剣は馬車に置いたまま革袋サイフだけを持ってここまで歩いてきたのは、この町が平和な町だと知悉している為。対外的に平和な町は対内的にも平和な町である可能性は高い。外敵への余裕は心の余裕であり、それは町の生活レベル向上と直結しているのだ。

 窓際に空いていた適当な席に座ると、手ごろな料理が机に並べられる。

 数時間馬車を走らせ続けるのは、自分が走る訳でも無いのにやたらと疲れるもの。それを身に沁みて体感したクオンは、溜息を吐いて窓の外を見る。通りの向こうではクオンの乗ってきた馬車の引馬が駐在の厩務員——馬車が交通の要である為、多くの町には厩務員が駐在している——から餌が与えられている。町行く子供達も見慣れているとはやはり興味津々といった具合に近寄り、純粋無垢な目を馬と交えていた。

 平和な一時を全身で受け止めていたクオンだったが、周囲の人々、特に町の警護に当たる人達がやたら忙しなく走り回っているのに気が止まる。加えて、そういった人たちは挙って武器防具を身に着け、厳戒態勢の中にある深刻な顔持ちを総じて浮かべていた。訳が気になったクオンは近くの席に座る男達に問いかける。


「随分と忙しそうですけど、何かあったんでしょうか?」


「ああ、なんでも魔物が近くに出たらしいぜ。最近魔物が増えてきたって話だが、ラス・シャムラに出るほどとはな。あんちゃん、商人みたいだが、よくここまで来れたな」


「ええ。運よく魔物と出くわさなかったので。しかし、大丈夫でしょうか? ここは王都や他の主要都市みたいに防壁がありませんし……」


 城壁は安全の象徴としてそびえるが、それは裏返せば危険と隣り合わせであることの証左。つまり、平和を一身に受け、平和である事を町の喧伝文句としているここラス・シャムラにおいて、城壁とは水と油の関係に近い。


「ああ。だからこそ兵士達には頑張って貰わねぇとな。あんちゃん、見たところ武器持ってねぇだろ? だったら、大人しく町の真ん中まで下がっとけよ」


 そういうと、男たちは手に武器を持って店を出る。

 彼らも町の警備にあたる人なのか、将又単なる自衛用の装備なのか。或いは、民間の魔物討伐にあたる人達なのかもしれない。

一体どんな人達なんだろう、と思考しつつクオンは食事を終えると町の中央まで下がる。

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