第2話:プレラハル王国

【輝皇暦1657年6月7日 プレラハル王国王都】


 プレラハル王国の王都は、国土の中央に位置する巨大な城壁で囲まれた広大な町。純白の建材が陽光に照らされる事で高貴さと聖純さを殊更ことさらに強調する。大小様々な家屋が建ち並び、その屋根だけは鮮やかに彩られる。それは遥か昔、戦いから帰還する戦士達が自宅を見つけやすい様にという想い、そこから転じて戦いの無事に対する祈願として発展していった名残だった。

 国の枢要都市である王都は当然の事乍ら国で最も人口密度が高い町。喧騒が飛び交い、老若男女が行き交うその光景は平和そのもの。隙間段差なく敷き詰められた石畳の上を馬車が行き交い、高らかな蹄音を鳴らしていた。


「はぁ、やっと着いた」


 馬車に揺られる事数日。馬車酔いと臀部痛による苦悶な身体環境が一気に浄化される快感。王都到着の知らせは、即ち無事に辿り着いた安堵感。それと同時に、無事に師匠の支援無しでも順調に進んでいる事の達成感を与えてくれる。

 既に陽光は西の山に傾き、景色は一面の茜色に染まっていた。上空では、黒鳥が帰宅を告げる鳴き声を町に響かせる。


「やぁやぁ、クオン君。待っていたよ」


 王都の門を潜って目抜き取りを暫く進んだ先を横に逸れた工商広場に馬車を止めると、恰幅の良い壮年の男が歩み寄る。下顎に溜まった柔らかな贅肉は、彼が抱く富と利権の具現化だった。豊満な腹部は、彼がこれまで得てきた数々の贅沢を未消化に蓄えたものだった。


「申し訳ありません、エーデルワルト卿自らお出迎えいただき」


「いやなに、気にする事は無い。君の御師匠さんには昔お世話になったからね。此れ式の事で不平不満を垂れているようでは、あの方に殺されてしまうよ」


 ハッハッハッ、と豪胆な笑いを響かせる眼前の男はエーデルワルト伯ナイトハルト。プレラハル王国の伯爵にして、ここ王都の中でも王家に次ぐ影響力を持つ大貴族の一人。地方の一平民から僅か一代で上り詰めた、いわば例外を擬人化した様な存在。その恰幅の良さはそのまま彼の性格を示したかの様で、地位や貴賤を気にせず誰とでも分け隔てなく接する事が出来る稀代の貴族だった。

 そして、それはクオンという片田舎に住む職人の弟子であっても同様である。確かにエーデルワルトはその昔、クオンの師匠にちょっとした恩がある事に相違無い。しかし、だからと言って伯爵自らがお出迎えするのははっきり言って異常である。それでも、彼はそれがそうすべき敬意だと知っており、師匠が送った伝書を蔑ろにしていない事の証左でもあった。


「さて、荷台にあるものは部下に降ろさせておこう。その間クオン君はしっかりと休んでおきなさい」


 しかし、とクオンは反駁する。確かに持って来たのはクオン自身であるが、しかし荷下ろしをしている間にのんびりと座して待つのはどうしてもの申し訳なさに手を貸したくなる。しかし、そんなクオンをナイトハルトは柔らに制止する。


「気にする事は無いさ。彼らはそれが仕事であり、クオン君は休むことが仕事だ。それを含めて、社会は廻っているのだよ」


 なるほど、とクオンは納得する。しかし、その得心を嘲笑するかの様に、ナイトハルトは微笑を浮かべる。


「……と、まあ、それらしい事を言ったけど、全て適当だ。それが事実かもしれないし、或いは嘘かもしれない。いずれにせよ、あれは彼らに頼んだ仕事であり、君にはただ休んで欲しかっただけだ」


 ナイトハルトは停めてある馬車に近づき、クオンを手招きする。クオンはいつもの様にその手招きに誘われ、彼の馬車に乗り込む。続けてナイトハルトも乗り込むと、御者に合図を送る。


「御師匠さんからの伝書を読んだよ。今回、君が初めて一人で王都まで来るからよろしくして欲しいってね。あの人はああ見えて結構心配性だ。適当な指示を出してる様に見えて、こうしてバックアップを怠らない」


「確かに今回の輸送は出発の前晩に酒を飲み乍ら言われましたね」


「ハハハッ。あの人らしいね」


 日輪を左肩に背負い、馬車は舗装された大路を北上する。自宅周囲と異なり、揺れらしい揺れが感じられないそれは、馬車の質もあるだろうが何より感動的なまでに均一に整えられた整備の賜物だ。

 それにしても、とクオンは座面を手で撫でる。上質な革が全面に張られ、中に詰められた綿も最上品質のものが使用されているのが分かる。一体、どれだけの金銭が動けばこれだけのものが出来るのだろうか、と想像を超えて騒然とせざるを得ない。これまでに幾度か乗せてもらった事があるが、それでもなかなか慣れないものだ。


「今日は何時も通り私の家に泊まるとして、明日はどうする? もう帰るか?」


「ええ。師匠も待ってますし、無事を知らせる為に早く帰ろうかと」


「そうか。確かに早く帰ってやらないと、あの人は寂しさで死んでしまうだろう」


「心配こそすれども、孤独で死ぬ人では無いかと」


「いやいや、クオン君は知らないだけさ。あの人の本性は寂しがり屋の塊。兎みたいなものさ」


「兎が淋しさで孤独死するのは迷信ではありませんでしたか?」


 そうだったな、とナイトハルトは笑う。やがて馬車は豪奢な家の敷地へと入り、建物の前で停車した。

 相変わらず桁外れだなぁ、と安直で幼稚な感想をクオンは心中で呟く。それしかできなかった。


「さあ、少し早いが夕食にしよう。恐らく出来てる頃合いだろう」


日は完全に落ち、夕闇で包み込まれた町に彩を添える様に星空が浮かぶ。やたら豪華なドアが開けられると、中からは空腹を刺激する芳醇な香りが鼻腔を刺激する。その刺激は電気信号となって脳へ送られ、様々な生体反応を生じさせた。そして二人はドアを潜り、エーデルワルト家一同とクオンの温かい団欒が過ごされた。



 夕食が終わり、大人達は酒を片手に食後のブレイクアウトを楽しむ。クオンは飲酒の習慣がない——プレラハル王国には飲酒を制限する法律が存在せず飲む事自体は可能——為、非アルコール飲料で代替している。


「ところで、クオン君。ここへ来る時に何かトラブルはなかったか?」


「トラブル……ですか? いえ、何事も無く順調に来られましたね。途中の宿場町に立ち寄った際もトラブルの類は被っていませんし、そういう話も聞きませんでしたね」


 それがどうしましたか、と問うクオンに対しナイトハルトは徐に語る。


「いやなに、最近この近辺で魔獣が多数出現しているという情報が相次いでいてね」


 魔獣とは、この大陸の大半を占める非人間生活圏に暮らす種々の動物達の内、特に凶暴で人間にとって害となる種族の総称である。神話にいて天使と悪魔が敵対した時に悪魔が生み落とした獣達、あるいはその末裔とされており、人間や一部の動物達の様な組織的社会構造を持ち合わせている訳でも無ければ道具を使いこなす訳でも無い。その為、専ら本能的行動に全てを委ねる種という認識がそれを知る者達の共通認識として挙げられる。その外見は様々で陸・海・空の何れにも存在するが、その全てに共通するのは頭部から暁闇色に輝く角が一本伸びているという事。

 しかし残念なことに、一部のコレクターや業者から家具や小物、薬等のあらゆる商品への転用を目的とした取引が後を絶たないという。そのお陰もあり、人間の被害と言うのは生活圏の重なり以上に甚大で深刻な場面に直面している。


「確かに魔獣の被害は常日頃からそれなりにあったかと思いますが、それ以上にですか?」


「ああ、例年の五倍近いペースで被害が出ている。死者もそれなりだ。人間の生活圏の拡大は我々に富と繁栄を齎すが、技術がそれに追いついていない。安全な生活圏間移動が確立されていない以上、被害は拡大する一方だ。ああ、失礼。こんな話、君に言ったって解決しようがないか」


 兎に角、とナイトハルトは念押しする。


「帰る際はくれぐれも気を付けてくれ。何とかなるだろう、と言って戦う道を選ばない様にな。それとも、護衛を何人かつけようか?」


「お気遣い頂き感謝致します。ですが、護衛までは遠慮しておきます。武器防具の作り手としてそれなりに使い方も学んでいますので」


 気を付けてくれよ、と改めて念押しするナイトハルトに感謝の意を示しつつ、クオンは窓の外を見やる。酔いがないお陰もあり冷静に思考を回転させられる。


 魔獣……か。一度も戦ったことなんかないが、まぁ、会わないに越したことはないか。


  宵闇に星が輝く。灯りの技術が乏しいこの世界では、未だに主要な照明は蝋燭や焚火といった原始的な火の類に限られる。故に、天頂には満天の星が魔法の絨毯の様な抱擁を与えてくれる。

 遠くから犬の鳴き声が反響する。この時間になって外を出歩く様な愚昧者はほぼいない。その為、夜間は日中とは打って変わった無音が広がっていた。



 翌朝、日の出とともに起床したクオンは馬車の荷台に乗り込む。持ち運んだ商品は全て運び出され、空になった荷台はピカピカに磨き上げられている。


……エーデルワルト卿の指示か? お礼の一つでもしたいが……もういないし、また次の機会だな。


 直接口に出した場面は見ていない為に完全な憶測でしかないが、クオンはそう推察しつつ心中でお礼を言っておく。明言しない隠れた気遣いには尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


 ……確かに、馬車の清掃は俺や師匠の本来の業務じゃないから代わりにしても仕事を奪ったことにはならない……か。


 なるほど、と頷いたクオンは、御者台へ乗り込む。忘れ物がないか一通り確認し、手綱を握る。


「よし、帰るか」


 手綱を振り合図を送ると、馬車は徐に進む。やがてスピードに乗った馬車は王都の出口へ邁進する。町はいつもと変わらない喧騒に包まれ、今日も各所で人々は命の灯を躍らせていた。

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