第6章 夜の張り込み

 華は立ち上がると、家から持ってきた腕時計を見た。八時十分。最後に見てから既に二十分以上は過ぎたように感じていたが、実際には五分も進んでいなかった。焦りといらだちだけが胸の内を満たしていく。華はそのまましばらく時計をにらみ続けていたが、それで時間が早く進むわけでもない。華は三十秒ほどで諦めて全身に込めていた力を緩めたが、振り子のように振られた腕が勢い余って側の防火扉にぶつかった。思った以上に大きな音が響き、華はギクリとして身を強ばらせる。隣では、透が珍しく慌てた顔で忠告してきた。

「ちょ、何やってんの華、そんな音出して誰かに気付かれたら……」

「わ、分かってるわよ、それくらい! ていうか、あんたこそ声のボリューム考えて!」

 透も自分の出した声が想像以上に大きかったことに気付いたのか、慌てて口を塞ぐ。二人はしばらく身じろぎせずに耳をそばだてていたが、誰かが駆けつけてくる様子はなかった。どうやら幸いにも今の音や会話は誰にも聞かれなかったらしい。どちらからともなくホッと息をつく。透が呆れ顔でぼやきを漏らす。先ほどの反省からか、声量は幾分控えめになっている。

「だから、僕は早すぎるって言ったんだよ。いくら何でも、8時前から忍び込んで見張ってるなんて……」

「だって、仕方ないじゃない」華もできる限り小声で話すよう意識しながら言い返す。

「今夜だって思ったら、いてもたってもいられなくなっちゃったんだから。そもそもあの男が8時半ジャストに騒ぎを起こす保証だってないんだし。……それよりも」

 と、華は今さらになって首をもたげてきた不安を口にする。

「本当にあそこで合ってるんでしょうね。もしも外れてたりしたら、あたしたち空振りどころか忍び込み損よ」

「うーん、そこまで言われると自信がすこしなくなるんだけど……でも、これまでの話から考えると、一番怪しいのはあそこしか考えられないんだ」透は困ったような顔をしながらも、華にというよりは自分自身に言い聞かせるように断言した。直後に、「まあ、それにしても」と自分たちが現在身を潜めている場所を改めて眺め渡し、ため息をつく。

「まさか、お化け騒動を調べてたのが、こんなとこになるなんて思ってもいなかったよ」

「何言ってんの」華は心外だと言わんばかりに反論した。

「確かに、ここで見張りをしようって言ったのはあたしよ。だけど、忘れてないでしょうね。あそこを見張るのにがぴったりだって言ったのは透、あんたよ」

「いやまあ、それはそうなんだけど」と、透は困ったように続けた。

「だからって――学校に忍び込もうなんて、誰が本気で考えると思う?」


「男がお化け騒動の犯人だとしたら、次に騒ぎを起こすのは学校の近くにある、空き家が集まった地域だろう」というのが、透の推理だった。

「どうしてなんだよ?」大吾が首をかしげる。

「確かにあの二年たちがお化けを見たのはどっちも学校の近くだけどよ、あいつらそこが具体的にどこだとは言ってなかったじゃねえか。それなのにどうしてそこの空き家だって分かるんだ?」

「そうよ」華もすかさず口を挟む。

「そもそも、あたしたちが聞いた話ってそれと五年の子の三つだけじゃない。他にもあるかもしれないのに、それだけでお化け騒動が学校の近くだけで起きてるなんて言い切っていいの?」

 自宅で鬼火を目撃した春樹たちの同級生は学校の近くに住んでいるという。そして、千夏が人影を見たのもその同級生の家の近く――すなわち学校の近くだ。横川小学校の近くに、人間が住んでいるのかどうかすら判然としない古い家が密集した一角があるのも事実である。しかし、二人がそれぞれ怪奇現象を目撃した具体的な場所について、透たちは聞いていない。お化けに脅されたという五年生の男の子がどこで何を見たかも同様である。だが、透はゆっくりと首を振って二人の疑問に答えた。

「ううん、さっきの男が電話で話してた内容と合わせて考えると、当てはまるのはあそこの空き家しか考えられないんだよ」

 と語る真剣な眼差しも落ち着いた声音も、普段の透からは想像もつかない姿であった。これも、「探偵モード」(いつの間にか華は、推理しているときの透のことを勝手にそう呼ぶようになっていた)の成せる業かもしれない。

「それじゃ、僕がそう考えた理由なんだけど……一つ目に、あの男『同じ二階でも角やどん詰まりよりあっちの方が意外と見えやすい』って言ってたよね? ということは、少なくとも『角』『どん詰まり』『あっちの方』の三軒、二階建ての家が並んでる場所ってことになる」

 透の言葉に、翼が頷く。

「なるほどな。それに、複数の家の二階に真っ当な用事がある場合など考えられないからな。あの男が本当にお化けもどきを演出しているのだとしたら、空き家はうってつけかもな。だが、それでも不十分だぞ。他に根拠はないのか?」

「それも大丈夫。二つ目だけど、あの女の子の言葉が重要になってくるんだ。ええと、千夏ちゃん、だっけ? ほら、『黄金仮面』の『金』の子」

「『春夏秋冬』の『夏』でしょ! 確かにあの子、駅にお父さんを迎えに行った帰りに学校の近くで白装束のお化けを見たって言ってたわね。でも、それがどう関係するの?」華の疑問に、透は「それだよ」と答える。

「駅から学校の近くを通るルートはもちろんいくつかあるけど、夜の7時で、おまけに雨が降ってたんだとしたら、一番可能性があるのはケヤキ通りから一本入った通りだと思うんだ。」

 ケヤキ通りとは、駅と小学校を結ぶ大通りから途中で垂直に折れる道である。そこから一本折れる道と言えば、大通りと小学校方向に平行な道ということになる。

「どうして夜の7時で雨ならケヤキ通りなの?」今度は優が尋ねる。

「駅からまっすぐ大通りを行くのは、車の交通量が多いからだよ。特に、夜で雨が降ってたら視界も普段より悪くなるだろうしね。だけど、他の道だと電灯もほとんどないからそれはそれで危ない。でも、ケヤキ通りの近くなら道幅が狭いからバイクはともかく車はほとんど通らない。それに、電灯の数も他の通りに比べて多いから家族連れが夜に傘を差して歩くとしたらケヤキ通りからあそこの道に折れるんじゃないかなと思ったんだ。それと……」

「まだあるの!?」さすがに驚きを隠せない表情で華が尋ねる。それとは対照的に透は表情を変えず、「あと一つだけ」と続ける。

「最後に、繰り返しになるけど、あの男、『角やどん詰まりより……』って言ってたよね。でも、角でもどん詰まりでもない、その間が見えやすい場所ってどこなんだろうって思ったんだ。でも、今日学校からたまたまケヤキ通りの方を見たときに気付いたんだ。あそこから見える空き家が道沿いに四軒集まった路地、学校前の道とは塀に遮られてになってる。それに、その内三軒は裏手にもまだ家があるけど、どん詰まりから二軒目、つまり路地に入って三軒目の空き家の裏だけはもう取り壊されてる。つまり、んだ。もう一つ向こうの道なら人通りも多いだろうし、何より人の住んでいる家もあるからね」

「なるほど。つまり、男が言ってた『あっちの方が見えやすい』ってのは……」

 大吾の呟きに、透も頷いて答える。

「うん。多分男からじゃなくて、見えやすい、ってことなんだと思うよ。だから、男が今夜騒ぎを起こそうとしているのは、学校の近くの空き家だって思ったんだ」と言って透は推理を締めくくった。

 しばらくの間、誰も何も喋らなかった。やがて、優がふう、と息を吐いた。

「昨日も思ったけど、すごいなあ、透は。何か探偵の才能でもあるのかな? 100%そうだとは言えないけど、もし透の推理が正しいとしたら、一番怪しいのは学校近くの空き家……」

「怪しいなんてもんじゃないでしょっ! 100%よ、100%!」突然の華の大声が優の言葉を遮った。

「そうよ、絶対そうに違いないわ! あたしの直感に、透の推理! この二つが指してる以上、あの男がお化け騒動の犯人なのは間違いないわ! だとしたら、次にあたしたちが取るべき行動も一つ!」と高々と人差し指を立てて華は得意気にその行動を宣言した。

「張り込むのよ。現行犯、ってやつであいつを捕まえてやれば、事件は全て解決するはず」


 そうしたわけで現在、透と華は夜の学校に忍び込み、空き家とその周辺を視界に収められる三階廊下の暗がりにじっと身を潜めていた。当然、このような理由で学校に入ることなど認められないため、防犯カメラの死角を狙って侵入するという手段を取らざるを得なかった。二人ができるだけ音を出さないように心掛けているのも、学校に残っている先生に見つからないようにするためである。ちなみに、華は他の三人にも来るように言ったのだが、それぞれ、

「悪い、今夜はトレーニングの日だ」

「僕も今日は家族が皆出かけてて留守番しなきゃいけないから」

「教師や警察に見つかったらどうする。私は面倒事に巻き込まれるのは御免だ」

 と言って拒否されることになった。大吾と優はいかにも用事さえなければ行きたいとでもいうような様子を見せていたが、おそらく本心では翼と同様の理由で断ったに違いない。

「全く、あいつら……」三人に対する不満がいつの間にか声に出ていたらしい。横の透が不思議そうな顔を向けてくる。

「何か言った?」

「ううん、何も。っていうか透、あんた言われた通りにやった? ちゃんとノート持ってきたんでしょうね?」

 今回、張り込みをするにあたっての一番のネックが「夜に家を抜け出す口実をどうするか」ということであった。二人で頭を捻った結果、「宿題用のノートを学校に忘れてきた」というものを二人とも使うことにした。しかし、忘れ物を取りに行ったのに手ぶらで帰ってきては怪しまれる。そこで、手提げかばんの中にノートを忍び込ませて学校へ持って行き、帰ってきたときにはそれを家族に見せることで何とか辻褄を合わせようとしていたのだが、

「あっ」ノートのことを聞いた途端、透がしまったという顔になる。

「どうしよう。ノート忘れてきちゃったよ」

「何やってんのよ、もう。帰っておばさんに何て言い訳するつもり?」

「うーん、まあ、『学校に忘れたと思ったけど、よく探したらちゃんと家に持って帰ってた』って言うよ。僕、そういうことしょっちゅうあるから父さんも母さんも疑わないだろうし」

「あんたって本当にそういう抜けてるとこあるわよね、全く……」どこか諦めたようにぼやきながら華は再度腕時計を見る。夕方のことを思い返し、ノートを忘れたことについて透と話している内に時間が経っていたらしく、時計の針はいつの間にか8時25分を指していた。華は慌てて透をつついた。

「ちょっと、もうすぐ時間よ。集中して見てて」

 とささやきながら自身も窓の外に注意を向ける。目をこらすと、視線の先には空き家の黒々としたシルエットが四つ、闇の中に連なって浮かび上がっていた。木造の家々は、春先でもどこかで火の手が上がれば、たちどころに4軒全てに燃え広がってしまいそうなほどぴったりと身を寄せ合っていた。日中でさえも人気が全くと言っていいほど感じられない空き家だが、夜の暗がりの中で見ると、その姿は一層不気味に見えた。

 誰一人として動かず、何一つ動きが見られないまま、数分が経過した。続く沈黙に堪えられなかったのか、透がぽつりと呟きを漏らす。

「まるで『D坂の殺人事件』みたいだな……」

「はぁ?」華はポカンとして思わず隣の幼なじみに目を移す。「何言ってんのこいつ?」という意味の「はぁ?」だったのだが、どうしたことか透はそれを先を促すものだと捉えたらしく、前置きもなく流暢に話し始めた。

「ほら、一昨日話しただろ、明智小五郎が初めて出てくる話。あの話でも、こうやって明智探偵、あ、その時はまだ探偵じゃなかったんだけど、ともう一人が一軒の家をずっと見てるところから事件が起こるんだ。向かいの古本屋が30分以上人の気配がないことを変に思った二人が『何か事件かも』と思って店の中に入ってみたら……あっ」

 突如として透が短く叫んだ。しかし、華の方が一瞬早く同様の声を発していた。

 闇の中、一軒の家の窓の向こうに何か青白いものが唐突に表れた。二階の窓だ。家の位置は、月明かりと電灯の光から察するに学校側、すなわちどん詰まりから二番目だろう。数秒の後、それは表れたときと同様、何の前触れもなくかき消えた。直線距離でも十メートルは離れた校舎の四階からでも、それが燃えていたことははっきりと分かった。

「ね、ねえ、透、あれ……」

「う、うん、華、あれ……」

 二人は思わず確認するように声を掛け合う。華は知らず知らずの内に自分の声が震えているのを自覚した。横から聞こえてくる透の声も同様だった。

 しばらくの間、二人は根が生えたようにその場に立ち尽くしていた。が、突然華は身を翻すと、足音が校舎内に響き渡るのも構わずに猛スピードで階段を駆け下りだした。透が慌ててその後を追う。二人は瞬く間に一階に到達すると、忍び込んだときと同じ場所から学校の外へと転がり出た。そのまま、脇目も振らずに空き家の方へと駆けていく。しかし、透がやっとのことで塀を乗り越えたときには、既に華の姿は角を曲がって見えなくなっていた。それもそのはずで、普段部屋に籠って推理小説を読んでばかりいる透と、運動神経抜群で男子に引けを取らない身体能力を持つ華とでは、塀を乗り越える身軽さも走る速さも圧倒的に差があるのであった。

 透が息も絶え絶えの状態で先ほどまで見張っていた空き家の前に着いたとき、華はすでに息を整えて、目の前の空き家を睨み据えていた。遅れてきた幼なじみに対し一言、「遅いじゃない」とだけ言うと、鬼火が見えた窓のある辺りに視線を戻す。

「いよいよね。まだそんなに時間は経ってないはずだから、あいつはまだこの家の中にいるはずよ」

 と言い放つや否や、勇ましく家の中へ入っていこうとしたそのとき、

「ま、待って、華、あの、鬼火、何か、変じゃ、なかった?」

 透が激しい喘ぎと共に尋ねてきた。

「は?」華はいら立ちと共に透を見やる。

「何言ってんの、あんたも見たでしょ。そりゃあたしたちだって初めて見たけど、あれこそ正に『ザ・鬼火』って感じだったじゃない。それともあんた、本物の鬼火を見たことでもあるの?」

「いや、別に、さっきの鬼火自体は変じゃなかったよ。僕が変だって言ったのは鬼火が見えた『位置』だよ」

「位置?」

「そう」透もやっと息が整ってきたらしく、まだ肩で息をしつつもほとんど途切れることなく話し始めた。

「だって、僕たちが鬼火を見たのは三階だよ? それなのに二階にある鬼火がはっきり見えたってことは……」

「鬼火は二階の床に置いてあったってこと? でもそれって、ただ床に置いた状態で火をつけたんじゃないの?」

「それでも、火をつけてすぐに窓の高さまで持って行かなきゃ。そうしないと、道路を歩いてる人からは見えないよ。それに」透はそこで一旦言葉を切ると、最も重大な疑問を口にした。

「あの鬼火が本当に人の手でつけられたんだとしたら、火をつけた奴は一体どこから来たの?」

「え?」華は一瞬、言葉の意味が分からずフリーズする。だが、すぐに透の言わんとすることが理解できた。

「あの男がこの家に入っていくとこをあたしたちが見てないってこと? そんなの、あたしたちが来る前から忍び込んでたに決まって……あ、そうか」

 華たちが学校に着いたのは8時前だ。それから鬼火を目撃するまで30分近くの間、二人はほとんど空き家の前から目を離さなかった。鬼火が人の手によるもので、なおかつそれ以前から空き家に忍び込んでいたのだとしれば、その人物は30分以上も何をしていたのだろうか。

「じゃ、じゃあ……」華は改めて空き家の窓を見上げる。隣で透が頷いた。

「うん、もしかしたら、今この中で何かが起こってるのかも」

「やだ、ちょっと待ってよ。まさか本当にお化けだとか言うんじゃないでしょうね」

「さ、さあ、僕もそこまでは……」

 つかの間の沈黙。だが、華はすぐさま吹っ切れたように空き家の門を押して中へと入っていく。慌てたのは透だ。

「ちょ、ちょっと華! 本当に行くつもり?」

「い、言ったでしょ、正体が人間だろうが本物のお化けだろうが、あたしたちがとっ捕まえてやるって!」

 と言い放つや否や、華は引き戸に手をかけた。その途端、扉は何の抵抗もなく音を立てて開いた。

「――!」二人は息を呑む。一瞬、顔を見合わせた後、先ほどまでとは打って変わって物音をほとんど立てずに空き家の中へと足を踏み入れる。

 玄関に一歩入った途端、黴臭かびくさい匂いがプンと鼻をついた。何年も放置された、木の「香り」と言うよりも「匂い」とでも表現すべき空気が空き家中に充満している。玄関を見渡すが、靴は見当たらない。やはりここには誰も来ていないのだろうか。しかし、何かがおかしい。華は直感的にそう思った。すると、華の肩越しに家の中を覗きこんだ透が「見て」と床を指さした。

「床が綺麗に拭き掃除されてる。業者さんか誰かが定期的に掃除してるからかもしれないけど、ほら」と言って今度は玄関脇にある備え付けの靴箱に視線を移す。靴箱の上には、目にしただけで咳が出てきそうなほど大量に埃が積もっていた。

「他の場所もそうだ。あちこち埃まみれなのに、床の埃だけが綺麗に拭き取られてるってことは」

「誰かが床だけを掃除してるってこと……? あっ」その時、華の頭をとある考えがよぎった。

「分かったぁ! きっとあの男、すごく綺麗好きなのよ! だからこんなに床を……」

「いや、違うと思う」即座に透が否定する。

「何よう。じゃあどんな理由で床をここまで丁寧に掃除してるっていうのよ」不満げに口をとがらせる華に対し、透は、

「もう少し単純に考えていいと思うよ。つまり、足跡を残さないように埃を拭き取ってるってことじゃないかな。ていうか、まだ犯人があの男だって決まったわけじゃないし」

「何言ってんの。あれだけ怪しい電話してて犯人じゃない方が逆におかしいでしょ。でも足跡は確かにそうかもね。ってことは……」

 と言って空き家の暗がりを見上げる華。その隣で、透が小さく頷いた。

「うん。この家には生きた人間が来ている。それも、1回だけじゃなく、何度も」


 透と華は、学校の時よりも慎重に空き家の階段を上っていた。一段ずつ上るごとに耳を澄ませ、何も物音が聞こえないのを確認してもう一段上る、その繰り返しであった。玄関で靴を脱ぐかどうか迷ったものの、床が綺麗に拭かれていることもあり、足音を立てないためにも靴下履きである。

 階段は家の中に入ってほどなく見つかった。廊下と同様、埃は綺麗に拭き取られ、階段は黒とも茶ともつかない表面を覗かせている。その様子を見て透は自分の推理が正しかったことを悟った。やはり、この空き家には誰かが定期的に訪れている。

 だが一方で、透の胸の中には先ほどまでとは別の不安が兆し始めていた。と言っても、何の根拠もない、単なる予感だ。透の頭の中では鬼火を目撃する直前、華に語っていた内容が思い返されていた。

(そうだ。確かでも、こんな風に店を覗いたんだっけ。そしたら、店の中には……)

 馬鹿馬鹿しい、そう自分に言い聞かせて頭の中から振り払おうとしても、嫌な予感は消えなかった。むしろ、階段を上るごとに強くなっていくように感じられた。

 やがて、二人は階段を上りきって二階に到達した。手前から2番目、斜め前に見える部屋の襖が薄く開いている。位置関係から考えれば、あの部屋が鬼火の見えた部屋になるはずだ。

 先に歩いていた華が振り返り、無言で頷いてきた。しかし、実のところ、透は自分が頷き返したかどうかはっきりと覚えていない。その時には、それまで感じていた不安が最高潮に達していた。

 透は一瞬、華に声を掛けるべきかどうか迷った。しかし、心の準備ができるより早く、華が襖に近づき、一気に開け放った。

 十畳ほどだろうか、思いのほか広い、というよりも細長い部屋だった。すり切れた畳が入り口から右方に広がっている。正面に見える大きな窓からは校舎のシルエットが見えたが、それ以外には押し入れも家具もない、だだっ広い空間だった。

 二人から見て部屋の正面、窓の下に、異様なものが転がっていた。釣り竿のような形状をした、それでいて大きさも太さも足りない針金のような物体だ。先端に取り付けられた紐の先には、何かの燃えかすらしき物体がくっついている。傍らに空のペットボトルが転がっているところを見ると、中に入っていた水か何かを掛けて鎮火したのだろうか。しかし、二人の視線はそれとは別のものに釘付けになっていた。

 部屋の奥、誰かが横たわっている。上下とも黒ずくめの服装に身を包んだ、中肉中背の人物だ。顔は暗がりに隠れて見えないが、体型から男性であることは分かる。異常なのはその人物がぴくりとも動かないことであった。眠っているように見えないのは、場所だけが理由ではないだろう。

 透の不安は今や確信に変わりつつあった。心臓が早鐘を打ったように鳴り響いている。不安が伝染したのか、あるいはまた別に不安を感じ取ったのか、問いかけてくる華の声もはっきりと震えていた。

「ね、ねえ。あそこにいる人、全然動いてなくない? まさかと思うけど、ほ、本当に、し、しん……」

 透は答えなかった。華の方にもその後の言葉を続ける勇気はないらしく、しばらくの間、沈黙が続いた。やがて、華が意を決したようにポケットから懐中電灯を取り出すと、それを男の頭がある辺りに向けた。

 暗がりに隠れていた男の頭があらわになる。奥を向いているため顔は見えない。が、その後頭部には赤黒い「何か」がこびりつき、そこから流れ出た液体が頭の周りに真っ赤な池を――

 二人はどちらからともなく悲鳴を上げた。

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