第1章 名探偵になりたい

 ガバッという音と共に決して優しいとは言えない勢いで布団がめくられる。それと同時に、

とおるっ! 起きなさーいっ!」

という声が頭上から降ってきた。しかし、その時にはとっくに少年の目は覚めていた。何しろ、布団と同時に彼は投げ出されて床にしたたかに背中を打ちつけ、

「んぎゃ!」

という情けない声を上げていたのだから。

「いてて……」透と呼ばれた少年は涙目で起き上がりながら、目の前に仁王立ちする少女を恨みがましい目で見上げる。連休前までは肩まであった髪も休みの間に切ったらしく、今はショートカットになっている。しかし、勝ち気そうな眼差しと男子相手でも容赦しない乱暴さはこの十数年、ほとんど変わっていない。少年は見慣れたその顔に向かって、朝の挨拶代わりの文句を吐いた。

「またじゃないか。そういう乱暴な起こし方はやめてくれっていつも言ってるだろ、はな

「何よ」華と呼ばれた少女は知ったことかという顔で腕組みをする。「せっかくこのあたしが起こしに来てあげたっていうのに、ありがとうの一言もないわけ? それとも何、何か楽しい夢でも見てたの~?」ニヤニヤとしながら見下ろしてくる。

 言えるわけがない。自分が名探偵になって、殺人事件を解決する夢を見ていたなんて。絶対に。

 そう、さっきまでのあれは全て夢だった。今彼がいるのは山奥の屋敷ではなく山のように本が積み上がった自分の部屋。目の前にいるのは凶悪な殺人犯ではなく凶暴な、じゃなかった、少しばかり元気が良すぎる自分の幼なじみである。その幼なじみ、弓長ゆみなが華は、部屋を見回してため息をついた。

「また休みの間じゅう推理小説ばっか読んでたの? 全く、よく飽きないわよねー」そんなことを言いながら、枕元の一冊を手に取ってみる。江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』。聞いたこともないタイトルだ。

「ああ、それ」途端に透は嬉しそうな表情になる。「この前父さんの古い本棚で見つけたんだ。びっくりしたよ、だってあの明智小五郎が初めて登場した小説なんだ! いやぁ、面白かったけど、全然犯人が分からなかったよ。華も絶対読んだ方が――」「よ・ま・な・い!」ぴしゃりと華ははねつけ、本を透に押し返す。「あたしが小説なんてほとんど読まないの知ってるでしょ! 何年幼なじみやってんのよ!」ましてやタイトルに「殺人事件」なんて物騒な単語が入っているものなんて、まっぴらごめんだ。全く、どうしてこの幼なじみはこうも小学生が好き好んで読むとは思えない本ばっかり読むのだろうか。

「何だ、つまらない」透の方も、目に見えて不機嫌な様子になる。「そういえば華、何でこんな朝早くから起こしに来たんだよ」

「何言ってんの! 今日から学校じゃない! だから起こしに来たんじゃないの!」

「え? ああ、そうか…… もう休みが終わっちゃったのか……」透は残念そうにつぶやきながら、手に持った『D坂の殺人事件』を見つめる。「あーあ、またしばらく、本をじっくり読む暇がなくなるのかぁ……」

 彼の名はもり透、人より探偵物の小説やアニメ、マンガなどが大好きで、自身も探偵に憧れていることを除けば、取り立てて特徴のない、どこにでもいる小学6年生である。


「ほら、さっさと食べちゃってよ! あたしまで遅刻しちゃうじゃない、もう……」

「ふぁふぁったふぁら《わかったから》、ふぉおふぉっとふぁって《もうちょっとまって》……」

 その十数分後、場所は森家のダイニング。パジャマから普段着に着替えた透は、華にせかされながらトーストを口に半ば押し込まれるようにして食べていた。寝坊しても病気になっても三食きっちりと食べる所は、この少年の数少ない長所と言える。

「ごめんなさいねぇ、華ちゃん。全く、家の子ときたら、ホント探偵物にしか興味がナないんだから……」

 そんなことをつぶやきながら空いた皿を片付けていくのは、透の母、明美あけみ。年齢はまだ三十代半ばのはずだが、それを差し引いても見た目は若々しく、とてもじゃないが小学生の息子がいるようには見えない。身長も女性にしてはすらりと高く、ゆうに170㎝はあることも、人目を引く一因だ。それはさておき、

「ううん、だいじょーぶおばさん! 透に待たされるのなんか慣れっこだから! あ、食べた? じゃ行くわよ、え、歯磨き? そんなのいいじゃな、ああもう分かったわよ! ほら、さっさと済ませてきてっ!」

という感じで家を出たのだが、

「いたた、引っ張るなって。っていうか今何時? え、まだ8時前? だったらあと十分くらいは読めるかも……」

「読まないのっ! 全く、暇さえあればすぐ本を読もうとするんだから……」

 という風に、いつでもどこでも推理小説を読もうとするのが透の癖であった……。

「っていうかさあ、何でこんな時間に家を出なきゃならないんだよ。やっぱりあとちょっとは続きを読めたのに……」といつもの通学路を歩きながら透はぼやく。彼らが通う横川小学校の始業時間は全国の他の小学校と(おそらく)同じ8時30分。加えて森家から学校まではのんびり歩いても十五分かかるかどうかといったところ。ましてや今前をせかせか歩く華のようなペースで行けば、おそらく十分もかからないで着くだろう。確かに、わざわざこんな時間に家をでたところで時間を持て余すだけだろう。それに対して、華はこともなげに、

「何言ってんの。『早く着きたい』から早く行くのに決まってるじゃない。これはあたしの問題なの。あたしのために早く行くのよ?」

と堂々と言ってのけたのだった……。

 じゃあ僕まで巻き込むなよ、とぼそりとつぶやく透に対して、「っていうかさあ」と、今度は華が先ほど自らに向けられたのと全く同じ問いを発する。

「透は一体何がしたいの?」

「え?」

「毎日のように推理小説だのマンガだの読みまくってるけどさ、そこから何ていうか『進展』がないのよねぇ。もっと『自分もこんな推理作家になりたい!』とかそういう目標みたいなのはないわけ?」と問いかける幼なじみに対し、透はあっさりと答える。

「名探偵だよ」

「は?」

 唖然として華は目を丸くする。この幼なじみは一体何を言っているのだろう。顔をまじまじと見つめるが、透が嘘や冗談を言っているようには見えない(そもそも透がこんな風にしれっと嘘をついたり冗談を言ったりする人間でないことは華が一番よく分かっている)。

「な……何馬鹿なこと言ってんの? 名探偵って……本気で言ってんの?」

「本気だよ」大真面目な顔で透はうなずく。「ずっと憧れてたんだ。シャーロック・ホームズ、金田一耕助、エラリー・クイーン、江戸川コナン……読めば読むほど、『こんな名探偵になりたい』って思いが強くなっていくばかりだったんだ」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな簡単に『名探偵』なんていうけど、その『名探偵』になるために何すればいいか分かってるの? 修行とか訓練とか、何か具体的に考えはあるの?」

「…………」

「ないんかいっ!」と、思わず強めのツッコミが出てしまう華。思わずはあぁ、と盛大なため息が漏れる。

「何も考えてないの? そりゃあ口ではいくらだって言えるわよ? でもそれと何をするかは別じゃない。口先だけじゃなくて、実際に何をすれば名探偵になれるか考えなきゃ」

「何をすればなれるか……って、例えば何?」さっぱり分からない、と言わんばかりの顔で透は尋ねる。

何でコイツのためにあたしが考えなきゃなんないのよ、と少しカチンと来ながら華は必死で考える。「例えばって……うーんと……あっ、例えばそう、『推理』よ! ほら、透前に言ってたじゃない、ホームズは依頼にやってくる人たちを人目見ただけでその人がどこから来たとかどんな仕事をしてるかとか、すぐに分かっちゃうって」

「そう!」『D坂の殺人事件』について話したときと同じように透の顔が輝き、急に生き生きと話し出す。「ホームズはすごいんだよ! 事務所にやってくる依頼人を見れば、一瞬でその人がどんな人か推理しちゃうんだ! あのワトソンだって、会ってすぐ握手をしただけで……」

「分かった、分かったから!」慌てて華は透の暴走をストップさせる。ここで止めなかったら、いつまで話し続けるか分かったものではない。脱線しがちな話を基に戻す。「それよ。推理! 名探偵には推理が不可欠でしょ! そうだ、試しにあたしについて何か推理してみてよ」

「えっ? 華について?」透は一瞬目を見開く。すると、「うーん、そうだなぁ……」そのまま30秒ほどかけて華の全身を頭からつま先までまじまじと見回し始める。そして、顔を離すと今度は目を閉じてじっと考える姿勢をとる。たっぷり一分はそうしていただろうか、急に「うん」と小さくうなずくと、ぐいと顔を近づけて「華」と呼びかける。

「え? な、何?」急に真正面から見つめられて華は一瞬ドキッとする。そんな彼女の様子には気付いていないかのように(多分本当に気付いていない)、透は「推理」を披露する。

「華……さては、昨日ウサギの世話を忘れたんじゃないか?」

「ふえぇっ?!」予想もしていなかった返答に、思わず声が裏返る華、しかしそれ以上に驚いたのは、

「あ、当たってる……でも、どうして? 何で分かったのよ、あたしが大見得きって飼育当番の子に『日曜の当番替わってあげる!』って言ったのにすっかり忘れちゃったってこと、何で知ってんのよぉ!」

「い、いや、そこまでは……」さすがにそんな詳しい背景までは推理していなかった透、思わずタジタジとしながらも一つずつ自分の推理を挙げていった。

「まず、華のその格好。いつも着けてるヘアピンを今日は着けていないし、それに袖のそのイチゴジャムか何か」と、華の袖に付いた赤い染みを指さす。

「多聞今朝、家で朝ごはんを食べた時に付いたんだろうけど、着替えなかった。つまり、ヘアピンを着けたり、目立たないとはいえ汚れた服を着替える時間も惜しむくらい急いでいるってことが分かる。だとすると、もう一つの疑問が出てくる。つまり、 答えは一つ。華が急いで行く必要があって、なおかつ一人ではできなさそうな用事と言えば、ウサギの世話くらいしかないんじゃないかな、と思っただけさ。多分、僕を学校に連れて行って何か理由をつけて世話を手伝わせるか、僕に荷物だけ先に持って行かせて自分はそのままウサギ小屋に向かおうとしたんじゃないか? だから『早く着きたい』なんてめちゃくちゃな理由でこんな早くに学校に向かってるんだろ?」

「う……」思いもかけない幼なじみの名推理に唖然となる華。すごい。何から何まで当たりだ。

「そうなの。実は金曜日、リカが『週末に田舎のおばあちゃん家に行くから当番になってるウサギの世話ができない』って言ってるのを聞いてね、それで思わず『あたしに任せて!』って言っちゃったの。土曜日は忘れずにちゃんと行ったんだけど、昨夜になって日曜日は忘れてたこと思い出して……」

「だから、いつも言ってるじゃないか。華はすぐ安請け合いする割に、ガサツですぐ忘れちゃうんだから……で、僕は何をすればいいの?」

「まあその……バレちゃったから、せっかくなら手伝ってもらえたらなって……でも透、すごいじゃない! あたしをちょっと見ただけでそこまで分かっちゃうなんて! これなら本当に名探偵になれるんじゃないの?」一時いつもの威勢の良さを失っていた華だったが、すぐに調子を取り戻す。

「え……そ、そうかな?」戸惑いつつも、思いもかけない幼なじみからの高評価に透もまんざらではない様子。しかし、すぐに真顔に戻り、不安そうにポツリとつぶやく。

「でも、一つ推理しただけで名探偵って言えるのかなぁ……何か、急に自信がなくなってきた……」

「なーに気弱になってんのよ! 大丈夫、あんたなら立派な名探偵になれるって! あたしの直感がそう言ってんだから、信じなさいよ!」反対に、華の方はすっかり平常運転だ。得意げにバシンと透の背中を叩き(ランドセル越しだから立っていられたものの、背負っていなかったらどうなっていたことか……)、堂々と宣言する。「大丈夫、あたしに考えがあるから! とりあえずはウサギの世話しに行きましょ!」そう言うが早いか、先に立ってずんずん歩き出す。

「ま、待ってよ華……」透も慌てて後を追いながら、先を行く幼なじみに問いかける。「何だよ、考えって……?」

華はそれには答えず、ただ振り返ってニヤリと笑った。「まあ見ててよ。あたしに任せなさいって」

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