【BONUS TRACK】

星の陰影/残光


 二〇二〇年七月二日。

 シドニー、オペラハウス。

 万を超える観客が集まる中、宮川春子はライブの準備をしている。メイクセット、側には通訳のダン・イチワラ。

 彼女は心のなかで、言葉を唱える。

 ごーだうんらいく、あ、りーど・ばるーん。

 らいく、あ、ろーりんぐすとーん。

 彼女は英語を学んでいる。だと言うのに、これらの文言を唱える時にはいつも、脳内でひらがなに変換されてしまう。

準備が終わり、人が居なくなる。さっきまで何人も居た関係者が捌けていって、ダン・イチワラ氏のみが最終確認のために残る。

 彼は言う。

「他に用件はございませんか?」

 すると彼女――宮川春子は、言う。

「もし私が」

「……もし私が、音楽をやめたら」

「アーティストをやめちゃったら、一体どうなるんでしょうね」

 ダン・イチワラは応える。

「大変なことに、なるでしょうねえ」

「鉛の気球みたいに急降下するんでしょうか」

「……なんですか、それ?」

「グラーフ・ツェッペリン号みたいに、音を立てて破裂する、鉛の気球」

「縁起でもない! ……冗談でもない」

「あはは!」

 彼女は笑う。綺麗な声で。楽器のように、高らかに。

「そうですよね。そうに決まってますよね」

 彼女は言った。

「もう他に――用件は、ないですよ」

 その言葉を聞いて、ダン・イチワラはその場を去った。

舞台裏には、宮川春子一人が残される。

舞台裏には、観客のざわめきがここまで伝わってくる。

彼女は回想する。

かつて――自分自身の周囲に居たはずの、人々の名前を。

甲斐和美。阿久津光輝。木崎紅葉。大泉五月。白瀬美希。大野啓司。芹沢嗣治。竜崎善知鳥。夏川りりこ。ダン・イチワラ……。

彼女は、自分以外に誰も居ない舞台裏で一人――こう、呟いた。

「私は」

「『私は、みんな』……」

 口をついて出てきたその言葉の意味を考えようとして、そうして彼女は――考えることをやめる。

「もう。何もかも全部……どうでもいいことだね」

 そうして彼女は立ち上がり、舞台に立つ。

 波立つペンライト。興奮する観客のざわめき立った静寂の中、彼女は叫んだ。

「世界を、震わせろ!」

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