エズラ・ネイスンとの出会い
私はメールボックスを確認する。結局、SNS上には例の日本国憲法以外からは連絡が入っていない。しかし、誰とも知れない様々な人物から、様々な内容のメールが届くようになった。
イタズラ。ファンからの応援、或いは罵倒。詐欺。勧誘。怪文書……そうしたものに混じって一つだけ、私の目を引くものがある。
日本語と英語のテキストがあり、双方に同じ内容が記述されている。
メールの送り主はエズラ・ネイスンというらしく、彼は英語圏で宮川春子の評伝を書き、出版する予定。それにあたり、日本に協力者が欲しいと書いてある。
私は送り主と同じように日本語と英語の両方で同じ文面を書き、相手に返信を送る。
概ね、このような内容になる。
〈エズラ・ネイスン氏へ。記者の奥村剛男と申します。こちらとしても英語圏の人間とのコネクションが必要だと感じていました。しかし現段階ではあなたが信用に足る人物であるか否かの判別がつけられません。何らかの手段を講じて互いの身分証明を行う必要があるでしょう
そのメールに対する返答はこうだ。
〈来週私が日本入りするので、その際に一度会って話をしよう。場所は日暮里駅東口。来週の木曜日。日本時間19時だ。当日を楽しみにしている』
なんと自分勝手な、と私は思う。木曜日に予定があれば文句をつけることもできたであろうが、実際には予定もない。行かない理由もない……。
イタズラと考えて無視することもできない。何であれ、今の私は宮川春子の評伝を書くことに身代を注いでいる状態にある。
その日。木曜日の日暮里駅には多数の人でごった返していた。こうなると待ち合わせも難しい。何か目印になるものはあるか、と思案する。十九時を過ぎても、それらしき人物は現れない。思えば、リアルタイムに連絡を取り合う手段も持ち合わせていない。人混みの中にあって私は孤立していた。二十時になる。いい加減、例のメールのことなど忘れて帰路につくべきかを悩み始める段階まできた。
そこまで考えて、気が付く。人混みを挟んだ向こう側に大柄な白人の男性が一人いる。彼はあからさまに不慣れな様子で周囲と腕時計とを繰り返し見る。
私は歩き出す。人混みを横切り、見知らぬ誰かから舌打ちを頂戴する。その白人も、私の方をじっと見る。
私は英語で話をする。……とは言え、何年ぶりに発したかすら定かではないその英語が果たして本当の英語圏の人間に通ずるかは定かではない。
『お会い出来て光栄です。ミスター、ネイスン。私がタケオ・オクムラです』
彼は答えた――流暢な日本語で。
「はじめまして。エズラ・ネイスンと申します」
そう言って彼は手を差し出すので私は握手をする。冷たい、ささくれた、乾いた感じのする手だった。
「久々に日本語で話をするから緊張した」
「私も英語で話をするのは久しぶりでした」
「非常に上手いですよ、あなたの英語。ロンドンでも通じるでしょう」
「あなたの日本語も大変お上手です。日本に住まわれていたことがある?」
ほんのちょっとだけ。彼はそう言った。
「二年ほど、大学で講師をしていた時があります。北米で日本文化の研究をしているのです」
「なるほど、どうりで」
「どこかで食事にしましょう。代金は私持ちで構いませんから。私、日本食大好きです」
そう言って彼は歩き出す。
「どこにしましょうか」
「確か駅前に天丼のチェーンがあったはず。私の好物だ」
彼の歩き方は独特で、少し不思議な雰囲気があった。欧米でなければ買えないであろう大きな服に、日本人が身につければ何らかの仮装にしか見えないハットを被って、コウテイペンギンのように歩く。
店に入るなり、彼はすぐに注文する品を決めて、店員を過剰な大声で呼ぶ。席には呼出ボタンが備わっているのだが、彼はそれに気が付かなかったらしい。
彼は如何にも手慣れた風に注文をする。私よりもずっと多い量を食べるらしい。
「いやあ、日本はいいですね。店員さんも皆丁寧で、チップを求めてくることもない」
知っていますかミスター・オクムラ。そう言って彼はその流暢な日本語で話をする。
「ニューヨークのカフェではチップの量で応対が変わります。つまり、そもそもチップを払えそうもない人間が来ると店員は冷たく扱い、逆にチップをくれそうな客には最初から丁寧に、媚びるように応対する。それがアメリカという国なんです」
全く、嘆かわしい。彼は口々にそう言って、自分の住むアメリカを馬鹿にして見せる。
「どこへ行ってもコークがあり、マクドナルドがあり、スターバックスがある。それの何が利点ですか。文明国ですか。馬鹿馬鹿しいじゃありませんか。イラクで米軍はマクドナルドとコカ・コーラを引き連れて侵攻してひんしゅくを買いましたが、当然のことです。まるで世界がアメリカしかないとでも言うような、そんな態度をとって何故人々が良い顔をすると思っているのか?」
そのように彼がまくしたてる間に、天丼が運ばれてくる。彼は如何にも嬉しそうに。
「アメリカでも店舗を出せばよいのに、と思います。全く」
彼は天丼をぱくつき食べる。箸の使い方が異常に丁寧で、日本人の私よりもよほど綺麗に箸を持っているのに、彼自身はがっついてそれを食べるものだから、その綺麗な箸使いが逆に不自然なように思えてくる。
そうして一つ丼を平らげてから彼は今度酒と単品の天ぷらを幾つか注文し、そうした末にようやく本題の話が始まるのだった。
「この一杯を、ハルコ・ミヤカワへ捧げましょう」
店員が持ってきたジョッキを掲げて、彼はそう言い、ビールを飲む。皮肉なことだが、その飲みっぷりはまるでハリウッド映画に出てくる南部の白人層そのもののようであったが、それを口にして言うわけにもいかない。
「私は向こうで日本文化を研究していて、幾つか論文も発表しています。その上で今回、ハルコ・ミヤカワ氏の評伝を英語圏で発表しようと思っているんです」
「なるほど」
「ですが、私自身もアメリカやヨーロッパで聞き込み取材する手前、日本には中々足を運べません。今回は偶然、機会があってこのように来日することができましたが、取材のために毎回こうするわけにも行かないのです」
「日程の調整も難しいでしょう」
「そうなのです。今回もオクムラさんには迷惑をお掛けしました」
「いえ――まあ、もっとも。私も最初はイタズラかと思ったのですが、イタズラで英文と日本語の文章が送られてくるのも、手が込んでいるなと考えたんです。実際、英文の方が文法としては整っていた」
「いや、恥ずかしい。やはりネイティブな言語の方がニュアンスが伝わると思ったので」
そう言って彼、エズラ・ネイスンは額に滲む汗を拭く。
「ここは暖かいですね」
「この時期はどうしても寒暖差があります」
ここで一度、話題が途切れる。彼は一瞬、気まずそうな顔をした後に、私に対してこう問いかけた。
「何か食べたいものはありますか。お出ししますよ」
「では一杯付き合いましょう。ビールと、それに漬物を」
私がそう答えると、彼は如何にも悲しげな顔をして、答える。
「そんな、遠慮なさらないで下さい」
遠慮をしているんです、とは言えまい。
「私はいつもこれなんですよ」
そう答えると今度、彼は満面の笑みを浮かべ――感情の起伏が激しい人だ――言った。
「おお、シブいですね。格好良い!」
単純でありがたい。私は素直にそう思った。
ビールが運ばれ、幾つかの話題が二人の間を飛び交った。宮川春子とは何者なのか。何故彼女は成功したのか。……何故、彼女は死んだのか?
そうした会話の末に、彼は一つ重要な……私の内心でもまだ答えの出ていない疑問を目前に提示する。
「結局『私は、みんな』とは、どういう意味だったのろうか?」
「私にも分からないんです。過去の彼女の発言には大抵、英語圏へのミュージシャンへのオマージュがあったんですが、どうもあの言葉だけは、そうではない」
「そうなんだ。だから私は、日本語にそういう慣用句が存在するのかと疑ったんだが、きっとそうじゃないんだろう。ほら、風が吹けばボウルが売れる、というような」
「確かに、そうではない」
この日の彼との会話の中でもっとも印象に残ったのはその部分だった。その日、私は彼と太平洋を挟んで互いに協力して評伝を書くことを約束する。
その会談の帰路の途上、私は何の気なしに例のアカウント――日本国憲法へ、メッセージを送る。
<『私は、みんな』とはどういう意味だったのだろう。教えて頂けないだろうか?>
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