第12話  淳のリハビリ

事故後四ヶ月で私は退院することになりました。

治療三ヶ月、リハビリ一ヶ月です。

それは思ったより早く、私は学校に戻ることが出来ました。

大学生なので、四ヶ月はそれほど単位上問題はありません。

退院の日、私は淳に挨拶に行きました。

入院中だって暇さえあれば、私は淳の病室に入り浸っていました。

やっと淳が、それまでの淳では無いということが分り始めていました。

「じゃあね淳、バイバイ」と手を振っても、淳はいつものようにへらへらと笑っているだけでした。

私が手を振ると、同じように手を振り替えします。

四ヶ月経って、淳は自分の名前が言えるようになりました。

私のことも分ります。

でも、私と自分がどういう関係だったのかは分らないと思います。

「また来るよ、淳」と言って出て行こうとすると、淳の顔から笑いが消えました。

そしてひどく真面目な顔をして小さくうなづきました。

もしかして、淳は正常に戻っているのでは。

全部分っていて、わざとあんな演技をしているのでは。

自分をあきらめさせるために。

一瞬そんなことを考えたけれど、それはあり得ません。

淳の頭は変形し、著しく脳が損傷しています。

三歳児の知能だって、奇跡に等しいとのことでした。


 学校に戻るとみんな良かったよ、良かった、と声を揃えて言ってくれました。

中には、泣き出してしまった子もいます。

彼女は、私が機械に囲まれて、生死の境をさまよっている時に来て、その場で泣き崩れてしまったらしい。

そのときの印象があまりに強くて、私が目覚めてからも病院に来ることが出来なかったと言いました、四ヶ月ぶりに私の元気な姿を見て、あの機械につながられていた私の姿が目に浮かび、泣き出してしまったのでした。

「ゴメンね、ゴメンね、お見舞いに行こうにも、行こうと思っても恐くて。ゴメンね。」

「うんうん、いいの。ありがとう」と私は彼女の手を握って言葉をかけました。

でも、涙は出ませんでした。

私の中で何かが変わっているのは、その時も感じました。

きっとそれまでの私だったら、一緒に泣き出していただろうと思います。

たしかに私の中で、何かが変わっていました。


 淳はなかなか退院出来ませんでした。

淳の場合は、体というより言語系のリハビリが必要でした。

口が効かないから練習、というのではなく、脳に関係したリハビリだったので、どれくらい回復するのか誰にも分りませんでした。

私は週に二回は必ず病院に行ったし、もっと多いときもありました。

言語のリハビリにもよくついて行きました。

言語のリハビリは、小さい部屋で様々な絵を見せながら、その名前を覚えていく事から始まっていました。

先生が自分では絵を見ないで淳に見せます。

そして、

「これはハサミですか、ネクタイですか」と尋ねて来る。

それを初めは首を振ったり、頷いたりしながら答えてゆく。

ハサミの絵が見えているときに、先生が「これはネクタイですか」と言って、ネクタイを締めるジェスチャーをすると、淳は首を振りました。

私は一緒になって大きく頷く、次に「ハサミですか」と言って、じゃんけんのチョキを出します。

一瞬淳は首を振る、私は淳の後ろで細かく首を振る。

「ハサミじゃないのね」と先生が念を押します。

するとやっと淳は戸惑ったように頷きます。

私は細かく何度も頷く。

先生はそんな私を見てもなんの反応も示しません。

きっと付き添う人は大抵こんな感じなんだろうと思います。

目の前で行われていることに、本人以上に一喜一憂する。


週に一回は、集団のリハビリがあります。

言語系は、集団の刺激が必要ということなんだろうと思います。

金曜日がその日でした。

集団のリハビリ用の部屋は、言語の真正面にあります。

少し大きな部屋で、黒板やカラオケの機械などが置いてあります。

その日一番初めにその部屋には入ったのは、私と淳でした。

元々ここは私もリハビリをしていたから、ここの先生は良く知っています。

すると本当に知っている先生に会いました。

「あれ、アッちゃん、今日はどうしたの」

「淳の付き添い」

「そう、どうその後は」

「字、少しうまくなりましたよ」

と言って、私は自分の名前を自分の手帳に書きました。

まだ中学生程度でした。

「へー、うまくなったわね」

「だって字汚いと恥ずかしいんだもん」

「そういう気持ちがリハビリをすすめるんだね」

「でもやっぱり腕は上がらない」

「そっちはね、重いから」

と、そんな話をしているうちに、言語の集団リハビリの人たちがやってきました。

「じゃあ」と言って、先生は現在の患者のところに行ってしまいました。


集団リハビリは五人が集まり、その付き添いが七人くらいいました。

「こんにちは。じゃあ今日もはじからご自分の名前を言ってくださいね、じゃあ北村さんから」

北村さんと呼ばれたおじいちゃんは、パジャマで自分で歩いて来た人でした。

でも口と手があまり効かないようで、聞き取れないくらいの声で何とか自分の名前を言います。

「じゃあ佐藤さん」佐藤さんは、少しみんなと違った車椅子に座ったおばあちゃんでした。その車椅子がいったいどういうものなのか私にはわかりませんでした。

でも、ただ高級というのではなく、まるで何か特殊な型に固定するような、少し頑丈な作りをしていました。

「おばあちゃん、名前ですよ」と横にいる中年のおばさんが話しかけているけれど、全く言葉が出ません。

次が淳の番です。

淳は自分の名前は言えます。

次が、田辺さんというおばさんで、この人も言葉が出ず。

そして最後が木元さん。

中年のおじさんですけれど、結構いい男で、トレーナーにバミューダーパンツをはいていて、どこが悪いのかわかりませんでした。

でもうまく自分の名前が言えていません。

まずは、ウォーミングアップで童謡を歌います。

誰でも知っている歌を先生がキーボードで弾き、それに合わせてみんなで歌います。

言葉のリハビリだから、みんなうまく歌っていません。

だから一番声が聞こえるのは先生で、次が付き添いの人でした。

こんな忘れかけていた童謡なのに、みんな一生懸命歌います。

それは不思議な一体感でした。

「じゃあ今日はこの五人で、ボーリングをしましょう」と言うと、もう一人いる先生が、五百ミリのペットボトルを立てていきます。

ダブダブのゴムボールを転がして、順番に倒しいきます。

うまくいくと、付き添いの人たちが妙に盛り上がりますが、リハビリを受けている人で反応を示すのは淳くらいで、他の人はあまり変わらないといった状態でした。

木元さんと田辺さんは分っているけれども、どうも照れているようで、それ以外の人は全く表情が出せないようでした。

淳の番になると先生が「一番の若手に期待しましょう」と言いました。

すると淳もうれしそうに笑い、なんだか私も変にうれしくなりました。

でも結局倒れたのは二本でした。

木元さんの番になると、小さな女の子が「パパ頑張って」と声をかけると木元さんは笑顔で手を振りました。

集団のリハビリというより、ゲーム大会のようでした。

そして最後にもう一度みんなで歌を歌いますが、今度は先生がキーボードを弾くのではなく、レーザーディスクのカラオケでした。

やはりここでも一番声を出しているのは付き添いの人たちで、私も一生懸命歌いました。

私も含めて付き添いの人が歌う歌は、頑張ってくれ、早く良くなってくれと、願いが込められているようで、なんだか悲痛な感じがしました。



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