第10話  ここにいるのは誰なの?

車椅子のころは案外早く過ぎました。

元々私は車椅子を必要とする状態ではありませんでしたので、車椅子というのは私にとって通過点でしかありませでした。

松葉杖を使って歩けるようになると、私は、今度こそ本当の一般病棟に移りました。

松葉杖で動けるようになると、私の行動半径は広がりました。

自分で動けるようになると、行くことの出来なかった、私の初めに運び込まれた、集中治療室と、重病患者用の病棟に遊びに行きました。

実は私はここでの記憶があまりありません。

初めは意識が無かったし、意識が戻っても、ほぼベッドから起き上がることも出来ない状態でしたから。

でも私が知らないのに声をかけてくれる人が何人もいました。

きっと私が眠っていた時に、私の周りにいた人たちなのかもしれません。

私の知らないところで様々の人が、私の心配をしてくれていたんだなと思いました。

だからそういう人たちのためにも、私がこんなに歩けるようになったと、見せに行きたいという衝動に駆られました。

間取りが同じでも病棟が違うと雰囲気が違います。

 主治医だった先生が嬉しそうに肩をたたいたり、看護師さんや、ちょっとだけ知っている人から、「良かった、良かった」と言われ私はすっかり気をよくして、そのままの勢いで淳のところにも行きました。

淳はまだこの病棟から出ることが出来ずにいました。

本来だったら一番初めに淳のところに行くべきだったのかもしれません。

でもそれをしなかったのは、どこかで淳に会うことが怖かったのかも知れません。

後ろめたくもあった。

私だけが順調ということに、そしてそれと同時に淳に私がこんなに元気になったことを早く報告したくもありました。

それなのに淳の反応が怖かった。

淳の中に私など存在していないのかも知れない。


淳の病室が近づいてくると、調子に乗っていたせいか、さっきの不安はどこかに消えていました。

早く私の姿を淳に見せたい。

淳はナースステーションの続きの集中治療室に入っていて、いつものようにテレビをみていました。

淳の病室に入ると私は調子に乗っていたので、私は使っていた松葉杖を入口の壁に立てかけて、自分の足で淳のところまで歩いてゆきました。

淳は私に気付いたので、いつものように振り返ると、状況が分からないという顔をして、近づく私を見ていました。

私は淳のところまで自分の足で歩いて行きました。

でもまだ松葉杖が必要だったのでしょう。

淳の手前でよろけ、そのまま車椅子の淳にもたれかかりました。

淳の顔が私の顔と十センチくらいのところに近づきました。

淳は私をみつめました。

その目には、精気が戻ったというか、力がありました。

私は淳が元に戻ってくれたと思いました。

懐かしかった。

それは本当に久しぶりに、淳を感じたようでした。

もし目覚めたとき、そこに淳がいてくれたら、それはどんなによかっただろうと思いました。

私が深い眠りから覚めるとそこに淳がいるの。

そして優しく微笑みながら

「お帰り」って言ってくれる。

そして私は「ただいま」って言うの。

「お前遅いぞ。なかなか帰ってこないから、もうこのまま帰ってこないのかと思ったぞ」と淳はいつもの調子で言うのに、その目に涙が浮かんでいる。

淳は私が帰って来たことを心の底から喜んでくれている。

そんな夢を何度も見ました。

ああ淳がいる。

私の目の前に何度も夢に見た淳がいる。

私は懐かしくて。

うれしくて。

そして淳に甘えるように、淳の唇に私の唇を合わせました。

そこで淳は私を抱きしめてくれるはずでした。

でも。

でも、淳は気持ち悪いものを押し付けられたように嫌がり、アンと小さく叫ぶと私を突き飛ばしました。

私は後ろにひっくり返ると、その時目の前にいた人が淳だとは思えなくなりました。

すると今キスをしたことと、少しでも早く私が歩けるようになったことを報告したいという私のプラスの感情が一気にしぼんでしまいました。

怖くなりました。

ここにいるのは誰なの?

ここにいるのは淳ではないの?

心を開放していただけにその怖さが私を苛みます。

うかつにも私は悲鳴を上げてしまいました。

どやどやと看護師さんたちが入って来て、尻餅をついて座り込んでいる私を見つめました。

淳はそんな私の姿を見て、さも面白いものでも見たかのように、手を叩いて喜んでいました。



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