第9話  私は誰を愛している?

私はリハビリの移動に慣れてくると、淳の病室に入り浸ることが多くなりました。

リハビリは一日二回、午前と午後です。

朝は体を動かすリハビリでした。

私の足は完全に弱っていて、足を動かすリハビリというより筋力トレーニングに近いものでした。

午後は腕のリハビリ。

私の左腕は肩より上がらなかった。

それ以上に筋が何本かも切れていたので、微妙な指の動きがままならず、初めはグーパーからはじまり、そのうちに籐で籠を編んだり、革に模様のついた釘のようなもので、模様を入れて財布を作ったりしていました。

確かに指がうまく動かなくてイライラすることも多かったけれど、おおむね自分がリハビリをしていることを忘れてしまうくらい楽しいものでした。

そして一日のリハビリが終わると淳に会いに行きました。

淳は言葉を話しません。

私が話しかけても笑っているだけ。

それでも私は良かった、ただ淳が生きてさえいればいい。

私はテレビを見ている淳を無理やり私の方に向かせて一方的にしゃべりました。

たいてはリハビリのことでした。

その時の私には、それしか話すことがない。

きっと淳との沈黙が恐かったんだと思います。

ともすれば淳は何時間でも黙っています。

そんな沈黙が怖かった。

「今はね、籠を作っているの。毛糸とか入れるやつにしょうかなって、そしたらリハビリかねてセーターでも編むから、淳にプレゼントするね」

淳とは一緒にクリスマスを過ごしたことがありません。

それどころか一つの季節しか一緒に過ごしていません。

夏の淳も、秋の淳も、そして冬の淳も私は知りません。

夏はTシャツにジーンーズ、きっと淳はサングラスが似合うと思います。

秋は、・・。

そうブラウンのジャケット。

冬は・・・・・。

私はまだ淳のほとんどのことを知らない。

「良くなったら、海、行こうね、あたしそれまでにダイエットするから」

話せば淳は反応してくれます。

それは淳が私の話を分かって反応しているのか、分からなくて反応しているのか、私にはわかりませんでした。

看護師さんに言わせると、おそらく分かっていないのでは、と言います。

今にして思えばあの頃が一番いい時だったのかもしれません。

答えない淳はあのころの、元の淳かもしれないと思える時がありました。

そこに反応はなくても、きっとこう思ってくれているだろうと想像に浸ることが出来ます。想像というと、一人よがりなことと思われがちですけれど、でもそれが明確な淳への愛情表現となりました。

今日はこんなことがあったの、と言って淳が微笑でくれるだけで、淳が喜んでくれていると思える。

たとえばあのダイエットと言う言葉だって、ただ淳がほほ笑んでくれれば、

「馬鹿だなー、お前これ以上痩せてどうするんだよ、皮下脂肪がないと遭難した時に真っ先に死ぬぞー」淳はいつだって、真面目な顔で冗談を言いました。

「それでいいもん」と私は答えるでしょう。

きっとそのころの私は、物言わぬ淳を前に、自分勝手にそんな会話を作って遊んでいたんだと思います。

でもある程度淳の頭がはっきりしてくると、今日こんなことがあったと話しても、淳は聞いてくれなくなる。

そして退屈そうに騒ぎ出す。

淳が私のことを分かってくれていない。

私の話すことを理解してくれない。

いくらコミニュケーションをとろうとしても一方通行で、まるで夜の闇に消えてゆく懐中電灯の光のよう。

照らせているようでいて、その闇があまりに大きくて照らし切れていない。

淳が何も言ってくれなかったころは、きっと淳は分かってくれていると、私自身を信じ込ませることが出来ました。

でもその頃は、そんな私のささやかな思いも、淳は決して許してくれませんでした。

淳を思い出すことも、過去の人とすることも出来ません。

淳はここに存在しています。

でもそれは淳ではない。

でも淳だ。

この淳を、私は愛しているの?

いや違う、私の愛した淳は、私をかばってくれた淳だ。

一緒にディズニーランドに行って、カラオケをして、ドライブに行った淳だ。

でも目の前にいる淳は私が愛した淳そのものだ。

その頃の私は混乱していました。

いったい私は誰を愛している。


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