第8話  アッちゃん

あれから湾岸に乗っていないから、五年ぶりです。

吉川さんの運転する車の助手席で私は、身をかためて、小さく震えていました。

「あっ、もしかして湾岸て」吉川さん今気付いたように言います。

吉川さんはすべてのことを知っています。

ただ私と淳が事故を起こしたのは首都高速だということしか話していません。

「ゴメン、配慮が足りなかった。許してください」

「いえ、別に」と私は小さく答えました。

吉川さんはとても優しい。

世の中には、いい人というのはたくさんいます。

でもそういう人は大抵地味で目立たなくて、仕事の上とかは別として、プライベートではあまり恋愛対象とされません。

よく女の子同士で言うことに、

「何々さんはとてもいい人だよね、結婚するなら、あんな人だよね。なんで世の女はあんないい人を放っておくんだろう」でもその世の中の女に自分は入っていないんです。

でもいったん自分の人生観が変わると、そういう人の優しさがひどく心にしみてしまうことがあります。

吉川さんの優しさが荒れてスカスカのスポンジのようになっていた私の心に、水がシミ込むように満たされて行きました。


いつだったか、お酒を飲んだ時に、吉川さんが突然私のことを「アッちゃん」と呼びました。

それまで頑なに「淳子さん」と呼んでいたのに。

吉川さんが酔っているのが分かりました。

でもその言われ方に私は驚いたけれど、なんだか嬉しくてクスクス笑ってしまいました。

「ゴメン気に障った?」吉川さんはいつだって私に気を使う、私の反応がどう見ても気に障っているようには見えないのに。

「うん、うん、何だかその呼ばれ方、ものすごく久しぶりだから」淳はそうは呼ばなかった。

「気安く呼ぶなよって、そう呼ばれたくなければ、もう呼ばないよ」

「いえ、呼んでください。なんだか気に入りました。その呼ばれ方」

吉川さんは嬉しそうに笑うと、今度は照れたように下を向いた。

そしてもう一度、

「アッちゃん」と呼びました。

「はい」と私は楽しそうに答えました。

「アッちゃん」

「はい」

「アッちゃん」

そう呼ばれるたびに、私の心が吉川さんに近づいていくようでした。

でもそれと同時に淳と引きはがされていくような苦しさも感じました。

それは淳への裏切り。

そう思えて仕方がありませんでした。


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