10

 今日の彼女は、はじめて会った時と同じ、黒い衣装に身を固めていた。黒いドレス風のワンピースは、首元まで生地を伸ばし、まるで、彼女を黒で覆いつくさんとするかのようだった。それでも、その圧倒的な美は、妖気のように部屋に充満し、以前にも増して、久弥を圧倒した。

 「苦しんだようね。少しは、彼女の苦しみを共有できた?」

 ゆうの視線が、突き刺さるようで痛い。近くには、照須もいて、じっと久弥を睨んでいた。ゆうが一歩、久弥の方へ踏み出してくる。黒いドレスで踊る十字のネックレスが金色に瞬く。

 「あなたの心の準備ができたようだから、今日は本格的なヒアリングをさせていただきます。彼女の心の内、願い、そして過去とのレゾナンス」

 久弥は、ゆっくりと頭を下げた。久弥が、朦朧とした頭で自殺をしようとしたとき、間違いなくそれを止めたのは里佳子だった。意外だった。彼女は久弥の自殺を求めていたのではないのか? 恨んでいたのではないのか?

 「彼女が、最も恐れていたことは、そして耐え難かったのは――」

 ゆうの右手が伸びてくる。それから、その右手で久弥の手首を優しく包み込む。彼女の瞼が、ゆっくりと閉じる。

 「その存在を、記憶から消されてしまうこと。せめて、忘れないでいてもらいたかったと――」

 静寂。しかし、久弥の心臓は激しく脈打っていた。まるで、堂島ゆうという美女と肌を重ね合わせているかのような感覚。熱く、頭の芯がじんじんと鳴る。

 「じっと、そのまま、じっと」

 ゆうのささやき。久弥は、体を硬直させ、微動だにしないよう努める。生き苦しさと妙な快感が同時に襲ってくる。

 静寂。


 暗い。そのうっすらとした暗闇の中に滲むように浮かんで現れたのは、折り畳み式の扉。その焦げ茶色の扉を幽霊のように突き抜け、ゆうは扉の内側に侵入した。心象物の抵抗は皆無。通常、こういった密閉された空間に閉じめられた記憶には、たやすくは侵入できない。それが、簡単にできたということは、すでに堂島ゆうという存在が憑依霊体に受け入れられいる証拠とみてよかった。

 扉の内側にいたのは、一人の少女。孤独に怯え、震えている。ゆうは、そのまま少女に近寄り、彼女とレゾナンス/共鳴状態へと入り込む。記憶の共鳴は、記憶に残った五感をも呼び起こす。

 彼女の感覚。肌寒く、空腹で、山に置き去りにされたかのような心細さ。視界に映るのは、ぼんやりとした扉の模様のみ。扉は、物理的には押し開けることができるが、それは許されない。勝手にこの場所を出れば、とても怒られるから。母親の突き刺さるような視線と、継父の肉体的暴力は、彼女を鎖の外された象にした。鎖につながれ続けた象は、鎖を外されても決して自由に動くことはない。

 愛情は与えられず、精神的自由さえ奪われた少女。桐島里佳子の記憶痕跡は、まずこの虐待に近いトラウマから始まっていた。

 激しい空腹と眠気。彼女は、もう一日近く何も食べていなかった。空腹以上に、眠ってしまいたい欲求に駆られる。しかし、勝手に眠ることも許されない。もし、寝ていたら、怒られるから。あの人が、ぶつから、お母さんが、冷たい目で見るから。

 だから――。苦しくて、辛くて、寂しくて。その痛みと苦しみ、孤独と不安に共振し、ゆうは震えた。隔絶された空間、何よりも、親の愛情から一切、切り離され、罰を受けている幼い少女の苦悶はゆうの精神を削り取る。

 そして記憶は、早回しされる。再び、暗闇。同じ場所に、また閉じ込められている。前回よりも、さらに長く、まるで、永遠かと思えるほど長く。いつもだったら、そろそろ継父が扉を開ける頃合いだ。けれど、その日は、人の気配も全く感じられず、静まり返っていた。あまりの不安から、里佳子は、そっと、クローゼットの扉を押し開けた。ほんの、数センチほど。隙間から、外を覗く。誰もいない。電気もつけられていない。家は、静まり返っている。

 「ママ……」

 囁くように、里佳子は母親を呼ぶ。もちろん、返答はない。継父の気配もない。

 どうして、どうして、誰もいないの? その不安と孤独に押しつぶされそうになる。里佳子は、扉を押し開け、這いずるようにして外に出る。そして、そのまま四つん這いで床を進み、電灯のスイッチを探す。やっと見つけて電気をつける。空腹で胃が痛い。冷蔵庫までいき、中に入っている食べれそうなものを手に取り、貪るように食べる。きっと、あとでものすごく怒られる。

 けれど、里佳子は怒られることはなかった。なぜなら、この日以来、里佳子の母も、継父もこの家に帰ってくることはなかったから。二人は、里佳子を残し、蒸発したしまったのだ。里佳子を捨て、どこかへ。

 里佳子には、行く場所がなかった。頼る人間もいなかった。家にある食べ物をすべて食べてしまうと、孤独にも増して飢餓感が里佳子を苦しめた。このまま、餓死して死んでしまうのかと思うと、目から涙が溢れた。とはいっても、外に出て、誰かに助けを求める気力もすでに残ってはいなかった。

 ほとんど、骨と皮だけの状態になった里佳子が、市の職員によって救出されたのは、彼女の両親が蒸発してから、数週間は経過したあとだった。

 その心の傷は、里佳子の心の核となり、肉体的成熟と反比例するように、より強い殻となっていった――。


 記憶は、走馬灯のように過ぎ去る。それ以後は、児童養護施設で育てられる。そこでもまた、里佳子は孤独だった。いや、みずから殻に閉じこもり、孤独を選んでいたのだ。その圧倒的な速さで過ぎ去る記憶に、ゆうは瞬間的に自分を重ね、境遇の類似性にシンクロの度合いは増した。ゆうも、親に捨てられたようなものだったから。研究施設に預けれ、ゆうを超心理学の研究対象としてしか見ない大人たちの中で、思春期を過ごした。学校には、通わせてもらえたが、ゆうもまた、孤独の殻を被り続けて生きていたのだ。

 ゆうは、いまでも恋愛の経験はない。だが、桐島里佳子は――。記憶は、飛んで。


 そして、ゆうは彼女とともに、書棚の前に立っている。死ぬ前に、もう一度だけ、読んでおきたかった。生涯ではじめて、苦しみや悲しみではなく、喜びに満ちた涙を流せた恋愛小説を。これから先、決して自分の身には起こらないだろうドラマを。誰にも愛されることのなかった自分へのささやかなプレゼントとして。その時に、声をかけてきたのが、青木久弥だった。もちろん、男性に声を掛けられたことは、一度ならずとあったが、死のうと決意して、恋愛小説のタイトルを眺めていたその瞬間に、声を掛けられたのが、どこか運命的な感じがして、心底驚いたことを里佳子は、はっきりと覚えていた。

 だから。いつもだったら、不愛想に、あるいは返事さえしなかったかもしれない。そんな、冷たい仮面を被った里佳子と、あえて親しくなろうと踏み込んでくる男性などいなかった。だから、このときも、そうすればよかったのに、里佳子は返事をしてしまった。初めての恋愛。すべては、はじめてで、少しだけ未来が明るく輝き出したころ、終わりが始まった。記憶は、飛んで――。


 落下していく。記憶が走馬灯のように過ぎ去る。久弥、ありがとう――。わたしを、忘れないでいてね、せめて。幸せになって。肉体は、衝突の衝撃で生命活動を停止する。その瞬間に、ゆうは霊体記憶と一体化するシンクロを解除した。目の前でつぶれた桐島里佳子の死体を見下ろしている。もう何度。神戸理沙の死と向き合ってから、救いがたい死と対面してきたのだろう。もう何度。


 あなたの、願いは?


 そして、問う。


 桐島里佳子の言葉に耳を傾けて。その願いを聞き入れてから、レゾナンスは解除された。

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