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 「ゆうさん、お疲れさまです。コーヒー、淹れました」

 照須の淹れた本格的なコーヒーの芳ばしい香りが、ゆうの鼻をついた。しかし、香りは感覚を刺激する前に遮断され、掻き消される。ゆうはひっそりと、心に空いた小さな暗闇にとどまっている。依頼人の青木久弥が帰ってからも、ゆうはしばらく、その場所に立ったままでいた。彼女の中に入り、彼女の悲痛を少しだけ共有して。彼女を成仏させることが、今回の仕事ではないと悟った。

 痛みに震えるのは、いつものこと。女の執念を、引き剥がし浄化させることは、簡単なことだ。だが、おそらく彼女は、それを望んではいない。ゆうに癒され見送られることを。そういうケースも多くある。痛みを請け負うのは、今回は、自分ではない。彼なのだ。だから。

 「ゆうさん、コーヒー、冷めちゃいますよ」

 彼女の苦しみを。その暗闇を。味わいなさい。



 眠れなかった。鏡を見ると、目の下に隈が出来ている。とても、出勤できるような状態ではなかった。空腹が極限まで達しているというのに、何も食べたいとは思わなかった。体と心のバランスが完全に崩れ始めているのだ。

 久弥は、部屋の片隅にうずくまり、痛みに震えていた。白い手が、久弥の右手をがっちりつかんで離さない。爪が皮膚に食い込み、血が滲み出ている。物理的にありえないことが起こり始めている。右手首をかきむしった。皮膚ごと、むしり取ってしまいたい。

 あの女、何をした?

 除霊どころか、ここ数日、白い手の怪現象はますますひどくなるばかりだった。力が増幅している。

 「里佳子、里佳子なんだろ? お前、そんなに、俺を苦しめてどうしようっていうんだ。俺には、美幸がいるんだ。なあ、頼む、もうよしてくれ。ああああー」

 久弥は、めくらめっぽうに右手を床に叩きつけた。皮膚が擦り剝け、爪が割れた。それでも、白い手が離れることはなかった。

 久弥は、床にうつぶせになった。眠くて死にそうだ。痛みよりも、眠気が勝り始めている。瞼が重い。目を閉じると、里佳子と過ごした日々が、昔のフィルム映画のように思い出される。生真面目で臆病で、付き合い始めたころは、手をつなぐことさえ出来なかったんだよな、里佳子。いまどき、そんな女性は新鮮だったし、だからこそ、そんな里佳子を大切にしようと思った。化粧っ気もなく、物欲もなく、プレゼントのペンダントも、俺のお金のことを心配する有様だった。だけど、そのペンダントを首から下げ、化粧も上手になったら、暗かった表情も消えて少しずつ明るくなっていったよな。俺と一緒にいることで、お前が変わっていくのが俺だって嬉しかったんだ。笑顔が多くなって、もともと美人の素養があったんだから、少しこけていた頬も、少しずつふっくらしていって、あの日のデートは見違えるように綺麗だったよな。

 あの日のデート……。久弥は、はっとして目を見開いた。浅草を歩いたんだっけ、二人で。そして、あの日はずっと、里佳子が久弥の右手首を握っていた。里佳子にしては珍しく、はしゃぐ場面が多く、とても楽しそうだった。ようやく、恋人らしい恋人になれた日だと、久弥は思ったのだ。そして、彼女との結婚を考えたのも、この日だった。

 知らずに、瞼から暖かいものが零れ落ちていた。どうして、俺は泣いているのだろう、と久弥は思う。もう動くことさえ出来そうになかった体が自然に起き上がっていた。

 「もう一度、行ってみようか、里佳子」

 右腕が、じんじんと疼いた。手首の痛みが、少しだけ引いているような気がした。


 週末ほどではないにしろ、平日でも浅草は賑わっている。雷門の大提灯は、呆れ返るほど、大きくて実際に目の当たりにしてみると、その迫力に圧倒される。浅草に来たのが初めてだった里佳子は、その実物の大きさに目を丸くしていた。表情の乏しかった里佳子に変化が起きたのもこの日からだったのではないか。

 子供みたいに。そう、里佳子はこの日、子供みたいだった。初めて遊園地に連れてこられた少学生みたいだった。里佳子は、あまり昔のことは、話したがらなかった。両親のこと、子供時代のこと、とくに親のことを聞くと顔をしかめた。理由を聞いても、不機嫌になるばかりだったから、それ以来、彼女とそういった話をすることはなかった。遊園地に、一度も行ったことがない子供だったのかもしれない。

 まずは、定番の浅草寺から仲見世通りのコースを見て回った。里佳子が、右手首を握ってきたのは、確か仲見世通りに入ってからだった。あまりに混雑していたから、はぐれてしまうのが怖かったのかもしれない。

 あの日ほどではないにしろ、今日も人混みが激しい。

 「ねえ、久弥、お腹空いちゃった」

 ふいに、里佳子の声が聞こえたような気がして、横を向いた。もちろん、里佳子がいるはずもなく、しかし、右手首にはうっすらと里佳子の白く細い手が確かにあった。その手の先に、里佳子の重みを感じ、久弥はうっすらと微笑んだ。よく食べたよな、あの日。饅頭をおいしそうに頬張った里佳子の顔が脳裡によみがえり、久弥の腹が大き鳴った。そういえば、丸一日何も食べていなかったのを思い出す。

 「揚げ饅頭でも買って、食べようか」

 知らずに言葉に出して、言っていた。あの日と同じ言葉。

 「揚げた饅頭って、おいしいのかな?」

 「さあ、どうだろう。とりあえず、食べてみないとな」

 「そうだね、楽しみだね」

 いつの間にか、里佳子と会話している自分がいる。隣には、間違いなく里佳子がいるのだ。久弥には、そう思えてならない。仮にそれが、里佳子の心の残滓だったとしても。

 どうして終わってしまったのか。理由は、はっきりしている。すべては、久弥のエゴが原因だったのだ。しかし、だからといって、自分は責められるべきだろうか?

 俺は、お前を甘えさせる保護者のような存在として、ずっと、い続けなければならなかったのか? 里佳子、俺は、お前の父親ではなかったんだ。恋人であり、パートナーであり、将来、豊かな家庭を築いていくための妻を求めていたから……。

 久弥の右手首が、急にきりきりと痛み出す。これは、里佳子の心の痛みの表れだろうか。俺と別れて孤独だったか? 辛かったか?

 だけど、まさか、自殺するなんて思ってもみなかった。だから、すべてを忘れてしまいたかった。里佳子と過ごした日々を引きずって、これから先、生きていくなどまっぴらだった。彼女が自殺したのが、自分のせいだなどと思って生きていくのは耐えられなかった。

 ゆうの言葉が思い出された。この事態のすべてと向き合うのは、あなたなのよ。

 里佳子、一体、どうしたら許してくれるんだ?


 浅草寺に戻り、常香炉の煙をしばらく浴びていた。右手から、肩のあたりまで、念入りに煙を浴びせた。そんなことをしたところで、無駄なことは分かっていた。煙に咽そうになると、久弥は、ふらふらと境内を歩き始めた。足取りがおぼつかず、いまにも倒れてしまいそうだった。強烈な眠気が、再び襲ってきていた。

 里佳子と、初めて肉体関係を持ったのは、いつごろだっただろう。たしか、付き合い始めてから、六か月ほどたったころだ。久弥が、想像した通り、里佳子は処女だった。キスの経験すらなかった。男性と付き合うという経験自体が、初めてだったのだ。それ以来、週に何度か、里佳子と体を合わせるようになった。

 里佳子が不妊症だと知れたのは、それからさらに半年ほどたった後だった。総合病院の検査で、里佳子側に排卵因子の問題があることが判明したのだ。

 里佳子の落胆よりも、久弥の絶望が上回った。久弥の思い描いていた将来の家族像が、がたがたと音を立てて崩れていった。里佳子は、何度も謝ったけれど、もちろん、それは彼女の責任ではない。そして、彼女が謝ったところで、もう久弥の心の修正は不可能だった。このまま、里佳子と付き合ってはいけない。別れるしかない。

 里佳子への愛情は日に日に冷めていった。彼女が、心理的に久弥に依存していることが分かれば分かるほど、より感情的な圧迫感が激しくなっていった。この先、ずっと、俺は、彼女の代理父のような存在として生きていかなければならないのだろうか? どうして? 冗談じゃない。俺にだって、自分の人生を生きる権利がある。その思いは、すでに、確固たる決意となっていた。

 里佳子に別れ話を切り出したとき、彼女の反応は、意外なものだった。言い争いも覚悟していたが、一切の反論もなく、ただあるのは諦めにも似た悲しげな表情のみ。数日前からの、久弥の態度から、すでに里佳子は悟っていたのかもしれい。それでも、その表情の奥底には、別れたくはないという想いが厳然とあるらしいのが見てとれた。いや、それ以上のなにか。もっと、切実な想いが。

 しかし、久弥は、決してその、里佳子の想いを汲み取ろうとはしなかった。いまさら、自分の気持ちが変わることはないのだ。そうして、里佳子との恋愛は終わった。ほとんど、久弥からの一方的な終了宣言だった。後ろ髪引かれる思いは、少なからずあった。里佳子への憐憫の情も。だから、里佳子が、むしろ、久弥を罵ってでもくれたほうが、久弥的には楽だった。

 別れてから、彼女が死んだという知らせを聞くまで、里佳子とは、一度も会っていなかった。連絡すら、一度もなかった。


 部屋に戻ると、あまりの疲労に久弥は、ぐったりとベッドの上に倒れ掛かった。そのまま眠りに落ち、十時間以上、一度も目覚めることなく眠り続けた。目覚めて、鏡を見ると、頬がこけて、皮膚は青白く、まるで寝たきりの病人のようだった。生きる気力や、希望やそういった感情がすべて欠落してしまったかのような感覚に襲われる。

 もう一度、鏡を見ると、自分の顔に痩せこけた顔をした気味の悪い女性がうっすらと重なり、久弥は、ひっと小さな悲鳴を上げた。自殺した直前の里佳子が久弥に取りつき、自分を呪い殺そうとしている……。

 久弥は、恐怖に身を竦め、嗚咽を漏らし始めた。

 許してくれ、許してくれゆるしてゆるして——。

 自殺する直前、里佳子はどんなに苦しかっただろう。きっと、何も食べず、痩せ衰え、孤独に打ち震え、死んでいったに違いない。

 どうして、連絡をくれなかった?

 連絡があれば、よりを戻したか? 久弥は、自分に問うた。彼女に救いの手を差し伸べたか? あるいは、心配して、会うことはあったかもしれない。しかし、もう一度、付き合い始めることは決してなかっただろう。

 久弥は、よろけるように立ち上がり、マンションのベランダに出た。柔らかい風が、久弥の頬を撫でた。穏やかで、雲ひとつない陽気な日和だった。久弥の部屋は、マンションの五階にある。手すりに両手をかけ、頭を突き出し、地上を見下ろすと、ゆうに十メートル以上はありそうだった。支柱は一メートルもない。だから、いまの久弥でも簡単に乗り越えられる。ここを乗り越え、地上に落下して激突すれば、即死だろう。

 久弥は両腕に力を掛けた。意外と自分の体は重かった。体を持ち上げ、それから、そのまま体重を前方に移せば――。

 そのとき、何か強い力が右腕を引っ張った。反動で、久弥はベランダに仰向けになって倒れた。

 白い里佳子の右手が、しっかりと久弥の右手首を握っていた。

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