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手首が引き千切られる悪夢を見たせいで、昨夜はほとんど一睡もできなかった。早くどうにかしてもらわなければ、精神的な病に陥ってしまうのではないか、という危惧が久弥にはあった。用意できた金は、百万円ほどだった。貯金は、数百万ほどあったが、結婚資金やなにやらで必要になってくるから、すべてというわけにはいかない。
そもそも、百万円もの大金を要求してくるはずがないと、久弥は考えていたが、どうなるかは分からない。最初は、十万円から交渉するつもりだった。それで、交渉が難渋するようなら、五十万までは許容するつもりだった。百万円用意したのは、万一のためだ。
あの日、堂島ゆうと別れてから、久弥はもう一度、ゆうのアパートへと向かった。曽倉照須と話し、連絡方法と、今後の段取りについての話をした。できるだけ、早くにこの忌まわしい現象にけりをつけたかった。このままでは、仕事も、美幸との関係も壊れてしまいかねない。寝不足でいらいらが募り、蝉の泣き声にさえ苛立ちが増す。まさか、自分が呪われるような目に逢おうとは思ってもみなかった。
里佳子と出会ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。あの日、妙な同情心など起こさなければ良かったのだ。外見に惑わされたのかもしれない。ほんの出来心が招いた不幸だった。
堂島ゆうのアパートに着くと、もう一度、久弥はバッグのなかの現金を確かめた。十万ずつの束にしてまとめてある。こういった仕事の相場が、どれほどのものなのか、久弥には、分からなかったが、ゆうは用意できるだけ持ってこい、と言ったのだ。
扉をノックすると、顔を出したのは、曽倉照須の方だった。約束の時間に来たのだから、堂島ゆうもいるはずだった。
「どうぞ。堂島ゆうが、中でお待ちしております」
言葉遣いは丁寧だったが、相変わらず愛想の欠片もない声音だ。久弥が、部屋に上がると、木製の揺り椅子に座って読書をしていたゆうが顔を上げた。今日は、白い長袖のTシャツに、黒のズボンというラフな格好であったが、彼女が着ていると、普通のシャツが艶めくような光を発しているように感じられる。長い艶やかな髪が、白にさらりと落ちて、美しい静止画の一場面を見ているようだった。ミントの涼しい香りが、微かに感じられる。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
照須が、簡易な木製の椅子を久弥の前に無造作に置いた。俺のことが嫌いなのか、と思いたくなるようなそっけない置き方だった。久弥が、椅子に座る。無言の時間が、しばらく続く。照須が、茶碗を持ってきて目の前のテーブルに置いた。フローリングの板が張られてるらしいテーブルに、茶碗の底が当たって、乾いた音を立てた。
お茶を出されただけましだろう。
さて、どう切り出すか。向こうから、金額の提示をしてくるのを待つか、それともこちらから先にいうべきか。迷っていると、ゆうが、つっと立ち上がり久弥を見下ろすように眺めた。冷気が下りてくるようなその無言のプレッシャーに押され、久弥の口から掠れた言葉が漏れた。
「じゅ、十万ほど用意してきました。お願いできますか?」
「十万?」
ゆうが、また首を傾げるような動作をする。久弥の体が緊張で強張った。
「交渉するつもりわないわ。持ってきたお金は全部、ここに置いてから。それから、ヒアリングを開始します。それができないのなら、話は終わりです」
その言葉を聞き、久弥はうなだれた。何を言っても、無駄なようだった。素直に、バッグから百万の入った封筒を出して、テーブルに置いた。
「あなたの覚悟が必要だから。安く済ませようだとか、そういう気持ちなら、絶対にうまくいかない。それは、心が浅はかなのよ。この事態のすべてと向き合うのは、あなただから。お金は、預からせてもらいます」
そう言って、ゆうは茶封筒を取り上げ、照須に手渡した。いくら入っているか、聞くことも、見ることもしなかった。それから、ゆうが無造作に久弥に近づいてきたかと思うと、またも、突然に右手首を掴んだ。
「あなたの場合、霊障を探すための身体マトリクスサーチの必要もない。それほどに強い思念がしがみついているから。隠れようとする意図もない。まるで、悲鳴のよ うに渦巻いている。その声を、ヒアリングさせてもらうわ」
そう言うと、ゆうはそっと瞼を閉じた。手首の内側で脈が跳ねるのが感じられた。一瞬、冷気が背筋を上るのが感じられた。次の瞬間には、右腕全体が、熱く重たい感じに沈んでいく。息をするのも苦しい時間が過ぎたが、実際に経過した時間は、ほんの数分だろうと思われた。
ゆうが、瞼を開いた。
「終わりました」
「終わり?」
「ええ」
「それは……つまり、もう除霊はできたってこと?」
ゆうは、しばらく視線を彷徨わせた。これで終わりなら、あまりに簡単すぎて拍子抜けの感があった。
「そういう意味ではありません」
「そういう意味ではない?」
じゅあ、一体、どういう意味なんだ。終わったとは何だ。全く要領の得ない受け答えに、久弥はいらいらし始めた。すでに、百万もの大金を手渡している。契約書らしいものも、すでに書かされているのだ。
「あなたがしなければならないことは、あなたが見出さなければならない。愛情を与えたのは、あなたが最初だった。その責任を取らずに、すべてを捨て去ろうとするのは、あんまりじゃない?」
里佳子なのか。やはり、自分に取り憑いているのは里佳子なのだ。恩を仇で返すとは。確かに俺は、一方的に里佳子と別れた。しかし、それは……。自分の心の声を、ゆうに聞かれるのではないかと妙な恐れを抱き、久弥はゆうを見上げた。
ゆうは、首を傾げ、微笑んだ。
「今日は、もう終わりにしましょう。どうして、彼女があなたの右手首をつかんでいるのか、考えてみてください。その気持ちを。そうして、あなたが、やってあげられることをやってあげることです。それができるのは、わたしではなく、あなたなのだから」
凄腕の霊術師ではなかったのか。霊の一つも取り除くことができないのか。久弥は、心の中で憤った。一体、何をしろというのだ。しかし、ここで、心の声を表に出して声を荒げても、どうにもなりそうになかった。今日のところは、退散するしかないようだった
ふっと、昔、拾ってきたあの子猫のことを思い出した。久弥は、母親に叱られたのだった。元の場所に、戻してきなさい。うちでは、猫は飼えない。どうして、あなたは、そんな汚い猫を拾ってくるの。そうだ、猫は泥まみれだった。だから。久弥は子猫を捨てに行った。仕方がなかったから。
あの、子猫は、あのあと死んでしまったのだろうか?
誰かに拾われて、幸せになったのだろうか?
罪悪感が、久弥の記憶を閉じ込めていたのだ。
罪悪感が。
里佳子は、自殺したのだ。
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