5

 新河岸川の遊歩道を、堂島ゆうは、歩いていた。この暑いさなか、黒のフレアコートに黒のパンツといういで立ち。ブイネックの紺のシャツから覗いた首元で、アイアンクロスのネックレスが、風もないのにゆうらゆうらと、揺れていた。まるで磔にされた死人が、鍵十字から逃れんとするかのように。

 漆黒の髪が、きめ細かに描かれた水彩画のように、美しく光沢を放つ。

 想像を絶する美人。顔のパーツのすべてが完璧すぎて、見るものに畏怖さえ与える。肌は、陶器のように滑らかで、職人が丹精込めて制作した人工皮膚を思わせる。近寄ることすら許されないような、氷壁を思わせるオーラを纏い、彼女は、虚空を歩くかのごとく、一歩、また一歩と歩を進め、つと立ち止まる。そうして、しゃがみ込み、それまでとは打って変わった優しい微笑みを浮かべる。その微笑みは、いままでの人工的な表情から一変し、哀しくも暖かい情感を帯びていた。

 「そう……もういいの」

 一体、誰に話しかけているのか、堂島ゆうの目の前には、空間があるだけだ。しかし、ゆうには視えている。この世の執着から解き放たれ、いまにも浄化されんとする少年の姿が。ゆうのヒーリングによって、この現実の記憶を手放そうとしているのだ。

 数日前。少年の霊は、どうして、という苦渋に満ちた疑問を繰り返し、繰り返し、ひたすらに空間を徘徊していたのだ。ゆうは、少年の記憶を共有し、そして癒し、その痛みもまた共有した。それによって、命が削られるのが分かっていても、それこそが、自分の役割だと思うから。

 「痛かったね、でも、もう大丈夫だよ。君は、きっと今度はもっといい場所に行けるから」

 その声は優しくて、きらきらと光る金粉のように、少年の体に降り注ぐ。そうして、少年が、輝きながら天に消えていくなかで、ゆうは、ありがとう、という少年の小さな声を聞いた。


 ゆうは、ずっと孤高に生きてきた。小さい頃、親元から引き離され、愛情の欠片を集められなかったゆうの心はいつも飢えていた。そのゆうの能力ゆえに、人に怯えられ気味悪がれ、それゆえに、やがてゆうは、すべてを内に隠し閉じ込める生を送ってきた。それでも人は、ゆうに何かを感じ取り近寄りたがらない。寄ってくるのは、粗野で鈍感な、性的な感情を剥き出しにした異性か、ゆうと同じくどこか人とは違う何かを心に持った、病んだ人間か、特殊な人間ばかり。

 どうして、自分はこんな力を持って生まれたのか? 神がいるのなら、神に問いかけたかった。しかし、その問いは、いつも宙ぶらりんに、虚空にさまよい、行き場を失い、自らに返ってくる。そして、答えのない問いを発する日々の中、ある日、あの経験をした。

 それから、ゆうの人生は変わった。


 ゆうが、中学生の頃、クラスでいじめが流行った。ゆうは、クラスのほぼ誰からも距離を取っていたし、親しい人間もいなかった。というより、距離を取られていて、親しい友人もできなかったというほうが正解か。いじめれていた女子の名前は、神戸理沙という子だった。貧しい家の子で、最初は少し不潔だ、ということがきっかけで女子の間の中で嘲りから始まり、やがて、男子に物理的なちょっかいを出されるようになった。

 もともと、生気のない子だったが、いじめが始まってからは、明らかに衰弱していくのが分かった。見て見ぬふりをしていてもよかった。自分とは関係ないのだ。ゆうだって毎日辛い日々を送っている。楽しくもない無味乾燥な日々。努力して友達を作ろうとも、誰かに分かってもらおうとも思わなかった。その頃、ゆうのことを理解しようとするのは、シノビノ研究所で超心理学を研究している研究者たちだけだった。

 だから、声をかける必要なんてなかった。一人で、寂しそうに下校している神戸理沙をすたすたと追い抜いて、さっさと帰ればよかった。でも、あの日、ゆうにはそれができなかった。あの日から、ゆうは、いつも一緒に、理沙と帰るようになった。

 あの堂島ゆうと神戸理沙が友達らしいという噂はすぐに広まって、それ以後、いじめは波が引くように、あっという間に収まった。ゆうは、そのことで、自分は避けられているのではなく、恐れられているのだと悟った。


 理沙と友達になってから二か月後、ゆうの事情で転校することになった。理沙のことは心配だったが、それは仕方のないことだった。そして、その二か月後、風の噂で、神戸理沙が、飛び降り自殺をしたことを知った。胸が痛んだ。自責の念に苛まれ、しばらく眠れない日々が続いた。自分のせいではないと分かっていても、だったら、あたしが一生、あの子の面倒を見ていなければならないの?とやり場のない怒りを露わにしても、ゆうの心は鬱々として晴れることはなかった。

 だから、せめて供養にと、ゆうは、理沙が飛び降りた場所へ一度行ってみることにした。夕暮れだった。ほとんどの生徒はもう下校していて、校庭には、生徒の姿はほとんどなかった。見知った顔に会うのが、嫌だったからちょうどよかった。といっても、ゆうに話しかけてくる生徒など、いるはずもなかったが。

 蒸し暑い日で、肌がじっとりと汗ばんでいた。ほとんど、汗をかかない体質のゆうだったが、おそらく緊張している証拠だった。なぜ、緊張しているのか? 

 そう……おそらく、視てしまうことが分かっていたから。理沙は、おそらく成仏していない。理沙は、わたしを恨んでいるだろう。わたしを恨んで邪念をはなってくるかもしれない。ゆうは、そんなことを考え、怖れ、それでも、なにかできることはないかと、必死に考えていたのだ。

 もしかしたら、理沙は、怨霊となって校庭をさまよっているかもしれない。もし、そうであるならば、一体、どうしたらいいのだろう? 彼女を癒してやれるだろうか。その魂を安らかに眠らせてやれるだろうか?

 この頃、ゆうには、まだそんな力はなかったのだ。

 校舎の東側で、花壇のすぐわきに転落して、彼女は即死だったようだ。夕暮れ時、教室の窓から、飛び降りたとニュースでは報じていた。花壇からは、花も、土もすべて取り払われていて、校舎の片隅にいくつかの花束が殺風景に置かれているだけだった。

 その近くに、ぼんやりと淡く光る石を見つけ、ゆうの心臓が早鐘を打った。すぐ隣に、いたからだ。つぶれた頭、つぶれた体。それから、こわれたテープから流れてくるのような、いたいよと伸びるように呟かれた理沙の声が。

 その理沙の声が聞こえたから。


 ゆうは、まだ微光を発している鉱物を拾い上げた。エメラルドの原石だった。円筒形のほんの数センチほどのもの。いわゆるパワーストーンと呼ばれているもので、ヒーリング効果もある。ゆうが転校のさい、理沙にプレゼントした石に違いなかった。鉱物は、それ自体発光しない。光の反射によってのみ、その美しい色を露わにする。ところが、ゆうが、拾い上げるまで石は明らかにそれ自体で光を放っていたようだった。そこには、霊的な力が作用しているのが、ゆうにはすぐに分かった。

 見つけてもらいたかった?

 「あたし、きたよ。ごめんね、理沙」

 理沙のつぶれた頭が、ぐらりと動いた。目も鼻も口もぐちゃぐちゃで、原形をとどめていない。おそらく、死んだ瞬間の姿かたちが、霊魂となって残っているのだ。それは、理沙の死の瞬間の、心そのものを映し出しているようで、視るに堪えなかった。

 (いたいよ……やめてよ)

 (いたいよいたいよいたいよたすけてたすけてたすけて)

 つぶれた口がぱくぱくと動き続け、悲痛な言葉を紡ぎ続ける。

 「どうすればいい、ねえ、理沙。あたし、どうすればいいの? あなたのことを、助けたいの。理沙、あなたの心を救いたいのよ」

 (いたいいたいいたいーーー)

 その耳を切り裂くような叫び声とともに、理沙のつぶれた目がかっと見開かれた。まるで、メデューサの視線に睨まれたかのごとく、ゆうの体は金縛りにあったように硬直し、そして、次の瞬間にゆうは、全く別の場所にいた。


 「やめて、やめてよ」

 まず、声が内側から聞こえた。しかし、それは、ゆうが発したものではなかった。それから、痛みを感じた。それが、続けざまに衝撃として感じられる。お尻を蹴られているのだ。

 その場所は、理沙の教室。理沙は、クラスメイトの男子から、蹴られていたのだ。それも、一人ではない。何人もから。女子生徒の笑い声。嬌声。

 「ほら、逃げろ逃げろ」

 男子生徒のはやし立てる声。

 ゆうは、ここが、理沙の記憶の中だと悟った。理沙の過去の記憶の中で、その記憶と一体となり、トラウマを再体験しているのだ。そして、ここは、おそらく死の直前の記憶。彼女は……自殺したのではなかったのか?

 理沙は……。いじめの主犯者たちに、追い回され攻撃を受け、それから、逃げ場を失った彼女は、開いていた窓の方へと追いやられ、そして、窓の外へ体を半分だした。痛み、苦しみから逃げたい一心で。腹部は、痣だらけで、すでにそれ以前から暴力を受けていたのだろう。その痛みも、ゆうははっきりと感じ取ることができた。ゆうの視線が俯瞰する。理沙を追いかけまわしている生徒たちの一人一人の顔が、はっきりと見える。その数、七人。その顔のひとつひとつが、反転したネガのように、理沙の心からゆうの心へと刻み込まれる。

 「おーい、こいつ、飛び降りるつもりだぞ」

 「やれんのかよ、そんなこと」

 はやし立てる声は、止まらない。

 そう、彼らは、まさか本当に、理沙が飛び降りるとは思っていなかったのだ。理沙は、ポケットから何かを取り出した。円筒形の鉱石。ゆうからのプレゼントを。

 「ゆうちゃん、またいつか、友達になってね」

 それが、理沙が最後に発した言葉。

 「おい、何ぶつぶつ言ってんだ、こいつ」

 やめて、理沙、お願い、だめ、理沙! 

 理沙の体が、宙に飛んだ。落下していく。ゆうは、激しく叫んだ。そして、場面が一転した。暗転するように、一度暗闇になったかと思うと、眩いばかりの光が、頭上から降り注いでいた。小川のせせらぎ。川べりに座った一人の少女。

 理沙が、ゆうに向けて言った。

 「来てくれたんだね、ゆうちゃん」


 ここは……。

 「わたしの、お気に入りの場所だよ、ゆうちゃん。誰も呼んだことがない、私だけの場所。いつも、ここでね、ずっと石を探していたの。ゆうちゃんにもらったくらい綺麗な石、見つけたことなかったから、ゆうちゃんにもらった石、ずっと持ってようと思ったんだ。ゆうちゃんだと思って。ゆうちゃん、わたし、石だって生きてると思うの。でも、誰からも、見向きもされないで、河原にいつも、独りぼっち。独りぼっちがたくさん。わたしと、同じだって思って。いつも、石に語りかけていた。どうして、わたし、生まれてきたんだろうって。石は、なんにも答えてくれなかったけど、でもね、みんなが、暖かくわたしを包んでくれてる気がした。だから、いつも、ここにきてたんだ」

 太陽の光が、小川に反射してきらきらと光った。小川の、優しいせせらぎが、絶え間なく聞こえる。ゆうは、言葉もなく黙って理沙の言葉を聞いていた。なんて言葉をかけてよいか分からなかった。

 「最後に、ゆうちゃんに会えて、わたし、嬉しかったよ。一人じゃ、怖かったんだ、わたし。この小川を越えて、向こう側に行くのが。でも、もう行けるから、行くね。わたし、ゆうちゃんを全然、恨んでなんかないよ。それだけは、伝えたかった」

 理沙が、小川に足を踏み入れた。

 駄目、理沙、待って!

 ゆうは、理沙を引き止めようとした。けれど、声が出なかった。動くこともできなかった。理沙が支配する彼女の心の中で、ゆうは無力だった。それでも。動きたい。強く念じ、そうしてやっと、体が少しだけ自由になった。声も。

 「あたしにとっても、理沙は、ただ一人の友達だったよ。きっと、また……」

 ゆうは、振り返った理沙のすぐ目の前にいた。理沙の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れた。それは、小川に滴となって落ち、川の色を変える。抱きしめた理沙の体は、ゆうの腕の中で、溶けるように薄れていき、やがて、消え去った。

 場面は一転し、ゆうは、暮れなずむ校庭の片隅に立っていた。もう、そこには、理沙の残留思念は残っていなかった。この日、ゆうは、霊魂の見届け人としての、自分の力を自覚したのだった。



 

 

 


 

 

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