第1章-12 ボーボ、交通事故にあう
また、だれるような暑い夏が来た。
カオルさんのお腹の中に、赤ちゃんができたらしい。そのせいか、カオルさんは気持ちが悪そうに寝込んでいることが多かった。そこで、カオルさんはしばらく実家に帰ることになった。
ぼくたちはもちろん一緒には行かれず、ヒロさんが仕事の間は、親戚の人が世話をしてくれることになった。
ヒロさんがカオルさんを実家に送って行った日の夕方のことだった。親戚の人が散歩に連れて行こうと、ぼくとショウタを玄関の外に出した。リードはまだ着いていなかった。
いつものぼくたちは、リードを着けられるのをおとなしく待っているわけではないが、玄関の前をうろちょろするくらいで、何もなければ急に走り出したりはしない。そういうぼくたちの習性を、親戚の人は、お利口だもんねくらいに思って、ちゃんとは分かってはいなかった。
ショウタが先にリードを着けられている時だった。
ハッハッハッハッハッハ!
家の前の通りの向こう側の歩道を、軽快に散歩している犬が見えた。ぼくは、いつもの「走るものは追う」という習性ゆえ、とっさにその犬めがけて走り出した。
ワワワワン!
通りの向こうの犬に向かって吠えながら、全速力で向かって行った。後ろから、
「ボスくん!」と叫ぶ親戚の人の声は聞こえたけど、ぼくは急には止まれない。そして、もちろん、車も急には止まれない…。
次の瞬間、
ドゴッ・・・。
ギャンッ!
ぼくは倒れた。車道に急に飛び出して、そこに走って来た車にぶつかった。車が、赤信号でスピードを落としながら走って来たところだったのが不幸中の幸いだった。はじき飛ばされることはなく、車の側面にぶつかってはね返ったくらいの当たりだった。当たった車も、大した衝撃を感じなかったのか、青信号になると、何事もなかったようにそのまま行ってしまった。
されど、小型犬と車だ。たかが3㎏くらいのぼくでも、鉄の塊に全力でぶつかったら、いくらスピードを落としていたとしても、ぼくにとってのその衝撃は、地球に隕石が落ちてきたのと同じくらいだと思う。
「ボス!ボス!」
親戚の人が叫んでいるのが聞こえた。
「ボスくん!」
ぼくはぐったりとして、そのまま起き上がることも動くこともできなかった。
意識が朦朧としたぼくは、親戚の人の車に乗せられて、大急ぎで動物病院に向かった。親戚の人は、真っ白な毛に包まれたぼくなのに、みるみる体中が青ざめていくのが分かったという。ぼくは、思ったより危ない状況だったらしい。
病院に着くと、いつもは穏やかなT先生も、緊迫した険しい顔をしていた。すぐにレントゲンを撮った。肋骨が3本折れていた。
「今夜が峠です」
T先生が言った。
「肋骨は自然にくっつくのを待ちます。骨折が命に係わるということはありません。内出血もほとんどなさそうですが、内臓に受けた衝撃と打撲があるので、そのショック症状のほうが心配です。ショック症状がうまく治まってくれれば助かるんですが。体が小さい分、打撲のショックは大きいんです。とにかく安静にしておかないと」
痛み止めや何やかの薬を注射されたぼくは、T先生に抱かれてそっとゲージに寝かされた。
意識がどんどん遠のいていった。
(この匂い・・・。ここ、来たことある・・・)
薄らいでいく意識の中で、ぼくはキョセイ手術を受けた日の夜の寂しさを思い出していた。
ヒロさんとカオルさんの所にもすぐに連絡が行った。びっくりしたカオルさんは、すぐにT先生に電話をしてくれたらしい。
T先生から、今はただ絶対安静で回復を待つしかない、ただ、運ばれて来た時よりはショック症状は和らいできているように見えるから、なんとか今夜頑張ってくれれば、という説明を聞き、すぐにぼくの様子を見に戻って来ようとしてくれたみたいだけど、
「今、飼い主さんが来ると、かえって喜んで動いてしまって、折れた肋骨が内臓を傷つけてしまう可能性があるので、あと2日くらいは面会に来ないで下さい」
と言われて、不安で押しつぶされそうになっていたらしかった。
翌朝、きゅっきゅっという小さな足音に、ぼくはぼんやりと薄目を開けた。窓から明るい光が射しこんでいて、目の前にT先生の顔があった。T先生はホッと小さく息をついて、にこっとしてぼくを見た。ぼくは顔をあげようとしたけれど、
イタタタタ・・・
キョセイ手術した時の痛みとは全く違う、内側から染み出るような鈍く重い痛みが体中にあった。
T先生が水を少しくれた。体が起こせないので、スポイトで口に入れてくれた。ベロを動かすだけで全身が痛い。でも、のどが渇いて仕方がなかったので、ぼくは必死で水をなめた。
カオルさんは、朝も夕方もT先生に電話をして、ぼくの容体を聞いていたらしい。水を飲めたことはショック症状をなんとか乗り越えた証拠だけど、まだもう一日二日は安心はできない、という話のようだった。
「みんな、心配してるよー。がんばれー」
T先生は優しくぼくに言った。
ぼくは、カオルさんたちに会えない寂しさと痛みで吠えたかったけど、今は遠吠えどころか、ヒン…と小さく鼻を鳴らすだけで精一杯だった。ただ、寝ているしかなかった。
(早く帰りたいよ・・・。みんなに会いたいよぉ)
外が暗くなると、ますます心細くなった。ヒン…ヒン…というぼくの鼻音が、ひんやりした病院の部屋に寂しく響いた。
次の日もケージの中でぼんやりと過ごした。体はまだ重い痛みに包まれていたけれど、少しずつ、動きたいなと思えるくらい体力は回復しつつあった。
夕方、病院の外にわさわさとした人の気配を感じた。この匂い・・・この声・・・!
(カオルさんとヒロさんだ!)
病室のドアが開くなり、
「ボーボ!」
カオルさんが涙声でぼくを呼んだ。ヒロさんも、
「ボス~、生きてたかぁ」と力の抜けた声を出した。
ぼくは嬉しくて嬉しくて、必死に立ち上がろうとした。カオルさんたちは
「動けるようになったの?」と、ケージに近付いてぼくをなでようとした。するとT先生が、
「喜んじゃって動いちゃうと危ないので、今日はまだあんまり…」
と、その手を制したので、カオルさんは慌てて手を引っ込めた。そして今度は、
「ダメダメダメ。ボー、動かないの」
なんて、言ってることがムチャクチャになっていた。
T先生の説明を聞きながら、カオルさんはちらちらぼくの方ばっかり見て、先生の話をちゃんと聞いているようには見えなかった。そして、動いちゃダメだよ~とつぶやきつつ、T先生に隠れて、ケージの中のぼくの鼻先を数回、人差し指でこっそりなでてくれた。
その翌日、命に係わる症状はなくなったということで、やっとぼくは、みんなが待つ家に帰れることになった。
あったかい部屋。にぎやかな声。これが何よりのぼくの回復薬だ。うっとうしいばかりのショウタのフンフンしてくる鼻息も、夜中に隣から響いてくるショウタとヒロさんのいびきの二重奏も、ぼくをホッとさせてくれた。
「走るものは追う」という習性の痛手が、こんな形で自分に返ってくるとは夢にも思っていなかったぼくは、心底反省した・・・つもりだ。でも、ぼくは犬。
その後もやっぱり、走るものを追うことをやめることはなかった。その代わり、それからのカオルさんたちは、ぼくとショウタにきっちりリードを付けてから玄関を開けるようになったのは、言うまでもない。
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