5.旅立ち
ようやく涙が枯れ果てると、何度も擦った目に痛みが残る。
いつの間にか地下室に居た私はゆっくりとピアノの蓋を開く。
「ごめんね。急にお別れになって」
鍵盤に触れると、ピアノが寂しそうな音を出す。
「でも、大丈夫。君のことは絶対に忘れないよ」
私は不安な気持ち全部を息と一緒に吐き出して、指を鍵盤の上で踊らせる。
辛い時も苦しい時もずっと一緒にいてくれたピアノに感謝を込めるように音を奏でていく。
陽気で明るい音楽が薄暗かった地下室を染め直す。
「いつもありがとね」
そう言って笑顔を浮かべると、ピアノもそれに応えるように音を跳ねさせる。
私は汗を額に浮かばせながら、ピアノに全力を込めた。
「すごく楽しかった!」
肩で息をしてお別れの言葉を投げかけると、ピアノが満足そうに笑った気がした。
最後にいつか誰かが弾いてくれる事を願って埃を払う。
「さようなら。元気でね!」
そのままの勢いで公爵家の生活で必要な荷物をまとめる。
結局、風呂敷に全部入り切るほどの少ない量しか集めることが出来なかった。
「質素だなぁ」
我ながら酷い生活をしていたと感じると、どこか切なくなってくる。
お父様の条件があるから、公爵家は必ず頼れるわけではない。
だからこそ、自分一人でも生きていく必要があった。
「大丈夫」
一人で小さく呟くと、天国にいるお母さんが頭を撫でてくれた気がする。
小さい頃、お母さんは酷いことをサートン家のみんなにされていた。
それでも、私を守るために一緒の時はずっと笑顔で振る舞う。
「お母さん、私に元気をちょうだい」
私が小さく呟くと、ギュッと抱きしめられるような温かさを感じる。
お母さんが支えてくれたから、私は今まで心が折れずに頑張ってこれた。
緊張の糸が緩むと、一気に体が重くなってしまう。
「おやすみなさい」
この地下室で見る最後の夢を迎えるように、意識を手放す。
♢♢♢
使用人が乱暴にドアを叩く音で目を覚ます。
「早く来い!」
私は今まで使ってきたピアノや本に手を振って、笑顔を浮かべる。
「行ってきます」
17年間過ごしてきた地下室に別れを告げると、急に寂しさが込み上がった。
苦しい人生の中で過ごしてきた思い出の数々が次々と頭の中に思い浮かぶ。
「だめだめ」
それでも、私は前を向かなきゃいけない。
お義母様達から聞いた公爵様の噂は最悪だった。
私は不安な気持ちを追い出すように頬を叩く。
「遅い」
お父様は相変わらず私を蔑む目で見つめてくる。
「わかっているな?」
「はい……」
重苦しい声が私の肺を圧迫した。
息が詰まりそうになりながらも返事をすると、屋敷の外へ連れて行かれる。
久しぶりに吸う外の空気は冷たく澄んでいた。
「乗れ」
感傷に浸る暇すらなく、お父様に言われるがままにサートン家を出ていく。
馬車に揺られながら、リンドヴルム公爵家がどんな場所か不安に思う。
どんなに辛い環境でも私は折れないと決意を固めた。
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