雨の街

なお

レインコール

「明日、天気になあれ」

そう、願って眠りにつく。



「ぽつん………ぽつん………ぽつん」


「しとしと」


「サー」


 静かな雨の音で目を覚ました。寝ぼけまなこを擦りながら起き上がると、ピントボケした目が緑と青と灰色の世界を水彩画のように写した。

 大きなあくびをしながら両手を目一杯伸ばすと、ぼやけた視界に境界線が浮かび上がってきた。

 雨が葉を濡らし、深い緑色をしている。雲どこまでも続いていて、空が灰色一色に染まっている。葉から雨しずくが落ちるたび、綺麗な音色が鼓膜を打つ。雨の世界はこれほどに美しい。


 

「いい天気だ!」

 昨夜のお祈りが神様に届いたらしい。優しい青梅雨あおつゆの朝に胸を躍らせる。

 雨が降ったら最近話題のあじさい寺に行く計画していた。このあじさい寺は参道いっぱいに咲く紫陽花が有名らしく、この季節多くの観光客が訪れるらしい。

「雨に、紫陽花かー」

 ふと、雨の中、静かに佇む女性を思い浮かべた。彼女は紫陽花を見ているのか、雨空を見ているのか、焦点があっておらず、おぼろげな目をしている。ただ綺麗なガラス玉のような目だ。

「シャー!」

 勢いよく走るトラックが水飛沫をあげる音に我にかえる。

 なんてことはないいつもの妄想癖でぼーっとしていたことに気づく。まだ少し頭が冴えないがささっと身支度を済ませ、雨の世界へと繰り出した。


 昨日の暑さはどこへ行ったのか、きっと土の中のセミも急激な気温の変化に一苦労だろう。あと数日暑い日が続いたら顔を出していたに違いない。

 それにしても、雨の日は気持ちがいい。気温も一段と下がって、街の喧騒が雨の綺麗な音に変わる。五月雨さつきあめが、鎖樋くさりといをつたっていく様は風情がある。どこからか漏れ出した、ピアノの音に耳を済ませてぼーっとするのがマイブームである。そんなことを考えながら歩いていると、周囲の人が多くなってきた。


「びちゃっびちゃっ」

 黄色いポンチョを着た小さい子が新品の長靴で遊ぶように、水溜まりを闊歩しているようだ。力いっぱい踏まれた水溜まりが驚いたように周りに弾け飛んでいる。

「こら、やめなさい!周りの人にかかっちゃうでしょ!」

 お母さんであろう人が、子供を叱り、「もう着くわよ、こっちきなさい」と続ける。ポンチョの子は少しシュンとした様子で母親の近くにいき手を握る。

「ほんと、ゆうくんは雨が好きね」

「うん、だいすき!!」

 全身で頷くように返事をする。ポンチョから覗く顔はワクワクが抑えられないような、無邪気な顔をしていた。かくゆう私もワクワクしている。



 あじさい寺の鳥居が見えてきた。鳥居の奥には、石畳の道が続いている。両脇には樹齢何百年ものあろう木々がお辞儀をしているよう立ち並ぶ。木々の陰で少し暗くなっている参道は、どこか違う世界への入り口のように思えた。

 小さくお辞儀をし、鳥居を通りしばらく歩き曲がると、視界がパッと広がった。

途端、広がる光景に息を呑んだ。

 参道の両脇には、晴れた空の藍色を纏ったような紫陽花が咲き誇っていた。凛と咲く藍色は呼吸を忘れるほどに美しく、葉の緑、奥に広がる木々の濃い茶、石作りの階段を反射する雨の日の柔らかい光と共に雨の世界を彩っていた。

 目を閉じて、「すぅー、はぁー」っと深呼吸をし、耳を澄ます。

 参拝者の傘を叩く雨の音、石の階段を跳ねる水の音、階段を登る静かな足音、この空間を作るどれもが調和し、一つの美しい和音を奏でているように感じた。

 天国があるのならば、こんな世界だといいなと思った。

 


 それは唐突すぎる出来事だった。

 ぼーっと天国を眺めていると視界が突然暗くなった。音が聞こえなくなる。五感が全て失われたような錯覚に陥った。

 一瞬の出来事すぎて、頭が追いつかない。呼吸が浅くなり、心拍数が跳ね上がる。体も動かない。何も聞こえない。意識する間もなく一瞬で死んだように思えた。

 思考だけが巡る。−−これが死ぬということなのか。天国も地獄もない、肉体の感覚はなく、考えることがだけができる。ただ、そこにあるのは孤独だけだった。


 束の間、生温かい温度を肌に感じた。触感だけはあるようだ。

 でも、ただそれだけだった。



 どれぐらい時間が経ったのだろうか。時間の感覚が薄れていって、訳も分からず、そのままゆっくりゆっくり死んでいくのだろうか。いやもう死んでいるのか。ただ全身を包む人肌ほどの温度は、微睡むほどに温かかった。



 突然、視界がひらいた。反射的に足に力が入り、跳び上がる。重力を感じる。そののまま落下する。コマ送りのように視界がスローモーションになる。ガラス越しに子供の顔が見えた。まん丸の目は、綺麗な青と灰色をしており、雨をガラス玉に閉じ込めたような目をしていた。

「ぺとっ」

無事に着地できたようだ。



 ガラスの箱に閉じ込められて、どれぐらいが立つだろうか。捕まった時は、死んだかと思ったが、正直この生活は悪くない。毎食同じ時間に、同じ分量の食事、食いっぱぐれることもない。なんなら、時折おやつだってくれる。雨の日は、ガラスの箱から出してくれて、外で遊んだりしてくれる。この子供のおかげで、どこぞの蛇とか鳥に食べられる心配もない。

 

 子供は私を、「水飴」と呼んだ。どこか懐かしい、優しい響きを持ったこの名前を私は気に入った。

 少し微睡んでいると、雨の目をした子供が水槽を覗き込む。おやつかなと思い跳ねたが、違うらしい。両腕を水槽の前で組んで、顎を乗せてニコニコしている。どういうわけか、指先でコンコンしたりしている。楽しいのだろうか。 


 涼風がカーテンを揺らし部屋を吹き抜ける。肌を滑る空気の質が変わった気がした。明日はいい天気になるかもしれない、もちろんいい天気とは雨のことだ。今日は祈って寝ることにしよう。

「明日、天気になあれ」



「ママ、水飴が鳴いた!明日、雨だよ!」

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雨の街 なお @nao11

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