第44話『地を這う狼・ゲヱミングの益と害』

「ぐ、がぁ……なん、で……!」


 黒の森の一角。多数の樹木を薙ぎ倒し、地面を抉った破滅の跡地に一人の騎士が倒れていた。

 生半可な得物など容易く弾き返す重厚を誇る白銀の甲冑で全身を武装しているが、左肩から先だけは漆黒かつ鋭角的に見目を変質させている。関節部などの隙間から零れる出血は大海を連想させ、止め処なく一定の感覚で陸地への侵略を続けていた。

 短めの金髪は原形を留めない程に乱れ、翡翠の瞳は激痛でストライキを起こした肉体への呪詛に濁る。


「動、けッ……が、ぎぃ……!」


 グレイグの想いとは裏腹に、軋みを上げる甲冑を動かそうとする度に全身が悲鳴を上げ、皮膚の奥から滲み出た血液は一層に大地へ恵をもたらした。

 グレイプニルの鎖縛から脱した彼女は後方部隊を置き去りにして轟音の震源地たる戦場を目指して駆け出していた所、突然身体が破裂したかの如き激痛が迸り、そして地に伏せていたのだ。

 心当たりなどなく、呪いの類を受けた自覚もない。

 幾ら考えても答えは見つからず、神経を爪弾かれる激痛が思考力を奪い去る。


「う、ごけ……動け、この……なん、で……!」

「おやおや。ジャーヌさんや堂島も心配性だと思えば、本当に倒れているではありませんか」


 頭上より降りかかる声音に聞き覚えこそあれども、今のグレイグに顔を上げる余力はない。ただ、やや暗くなった視界が声の主によって陽光が遮られたがためと理解するのみ。

 声の主は倒れ伏したグレイグを見下ろし、丁寧な調子で言葉を紡ぐ。


「処方する際に説明したはずなんですがね。ゲヱミングのデメリットに関しては」

「デ、ヱモン……」

「相も変わらず心の込め方にも難がありますね……まぁ、いいでしょう。魔族とは寛大な心の持ち主なのですから」


 デヱモンは大仰に肩を竦めて嘆息を零すが、眼前の少女にそれを一目する術はない。

 苦悶に塗れた呻き声を返事代わりとし、芋虫の如く這ってでも前進するばかり。

 彼女の動きに視線を僅かに動かせば、伸ばされた左手の先には穂先から鋭利な棘を露出させた歪な突撃槍。露出した棘と食い破られた槍の色合いがあまりにも乖離している辺り、左腕を覆う甲冑と同様の理由で起きた異変であろう。

 男はグレイグへ手を伸ばすと、両の手に力を込めて持ち上げた。


「な、にを……」

「今貴女に死なれては困る人がいるって話です。ご安心を、ちゃんと武器も拾っていきますから」

「離、せ……私は、私は……!」

「ほらほら、暴れない」


 なおも戦場に赴く意志を貫くグレイグはデヱモンの救助に抵抗を示すが、元より全身から血が噴き出している現状ではたかが知れている。男は然したる労苦もなく矮躯を持ち上げ、スーツが汚れるのも厭わずに肩へ担いだ。

 空いた手でルプスの柄を掴むと身動ぎを一つ。

 デヱモンの腰付近が不意に蠢き、そして変化が訪れる。

 骨や血管が透ける程に薄い、絹の如き漆黒の皮膜。蝙蝠を彷彿とさせる羽がデヱモンの体躯に対して倍近い規模を以って展開された。


「本来はここまでのアフターサービスは別料金なのですが……ま、いいでしょう」


 独り言を呟くと、羽ばたきを一つ。

 莫大な浮力を生み出す訳ではない。現に暴力的な風圧で周辺の樹木が薙ぎ倒されることはなく、むしろ葉の一つも揺れない繊細極まる精密性を以って男の身体は重力から開放される。

 二度、三度。

 デヱモンの羽ばたきに比例して高度を増していき、瞬く間に二人の身体は黒の森を見下ろす程へと到達した。

 魔族に詳しい者が見れば、これが羽から放出された微細な魔力が作用したものと推測できるのだが、残念ながらグレイグに踏み込んだ知識はない。

 徐々に地上から離れていく視線に少女は抵抗を止めた。さしもの彼女も理解しているのだ、現在の高度から落下すれば無傷では済まないと。

 抵抗が無くなったことで男は安心して首を左右に振って目標を探す。

 普段は樹木に覆われ、地上の様子など伺う余地もない黒の森だが、幸運にも今はグレイグの手で随分と見晴らしが向上している。数分と経たずに目標を発見すると、デヱモンは軌道を修正して飛翔を開始。


「改めて説明しますが、ゲヱミングは肉体の損傷を一部ではなく全体へ分散することで外傷を抑える薬です。これによって本来なら骨折などの継戦困難な怪我を負ったとしても、あたかも無傷であるかのように戦いを続行できるようにします。

 そしてこの肉体変化には魔力を消費します。つまり、魔力が枯渇すれば今の貴女のように誤魔化されたダメージが一気に表面化……普通ならば死にますね」

「ふ、ざッ……!」


 グレイグが抗議のために紡ごうとした言葉は、彼女自身の内から湧き出る吐き気と口から零れた血液に遮られる。

 尤も、先もデヱモンが口にしていたようにこれは最初──青峰協会で処方する前に説明されていた内容。少女が如何に心中で怒気を暴れさせようとも、非は彼女自身にある。

 故にスーツが吐血で汚れることに不快感を覗かせる程度で、自身へ向けられた不満そのものを一顧だにせず男は飛翔を続けた。


「開発主任である堂島曰く……あくまでゲヱミングによる耐久性に慢心することなく、回避や防御を念頭に置くことが大事。らしいですよ」

「……」

「おやおや、これは図星というものですか」


 思い当たる節の多さにグレイグが言葉を失うと、徐々に高度が下がっていく。

 それは目標であるフォルク王国軍と歯車旅団、火線戦団の混成部隊との距離が近づいていることを意味し、頭上から飛来する謎の男にざわめく面々が加速度的に警戒を強めた。

 土煙の一つも立てない丁寧な着地を決めた男へ、素早く周囲を囲った精鋭は刃の切先を向ける。


「何のようだ、魔族」

「おやおや警戒しないで下さいよ、私はあくまでグレイグを回収して貴方達へ届けに来ただけですから」


 全身を甲冑に包んだ男からの嫌悪を剥き出しにした問いに、デヱモンはどこか惚けた様子で応じる。微かに鼓膜を震わす軋みの音は、柄を強く握ったものか。

 容赦なく注がれる敵意に動じることなく、男は担いでいたグレイグを優しく撫でた。


「ここに回復魔法を扱える者はいますか。彼女の傷はかなり深いようですよ」

「……我々は本来、直接事を交えることを想定していない。応急措置の範囲より上が必要なら、ここでは出来ん」

「なるほど、でしたらそちらがよろしければ私が青峰協会まで運びましょう」

「ま、て……!」


 小骨が喉に引っかかるような会話を遮り、グレイグは抗議としてスーツを掴む。

 不意の抵抗に顔を顰めると、デヱモンは少女へ視線を向けた。


「不満があるなら口に出してくれませんか。ただでさえ洗う手間があるんですから」

「ミ、コトさん……います、か……?」

「……ミコトって人はどこです?」


 不満を剥き出しにしたデヱモンの声音に応じる者はいない。

 合流に失敗した訳ではない。現に彼を囲う一団の中には火国式の着物を纏った少女も混じっている。

 しかして再度スレイを見捨てた事実が握る刃の刃先を揺らし、眼前の敵へ注ぐべき集中力を乱して有り余るだけの話。零れる吐息が、魔族からの誘いを遮っただけに過ぎない。

 故にか、左右の男達から肩を叩かれる事で遅れて少女は反応を示した。


「あ、はい……私がミコト、ですけど」

「──」


 表情か。もしくは警戒して魔族を囲っている状況にあるまじき呆然とした様子か。

 何かを悟ったグレイグは一瞬表情を無くし、遅れて内から湧き出る怒気に身を委ねた。

 彼女は気づいている。気づいてしまっている。

 彼女が好み、常に側にいた少年が。その骸が唾棄すべき鬼族の悍ましき邪法によって操られていることに。尊厳を粉微塵に砕かれ、死後の安らぎさえも凌辱されている事実に。


「あの、あの……あの死体人形がァッッッ!!!」

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