第42話『スレイ・V・ローレライ』

「グレイグ、いったいどこに……?」


 高下駄が荒野を駆ける。

 漆黒の外套を翻して駆ける。

 凹凸が目立ち、意識を注がねば何もせずとも転倒しかねない荒れ果てた大地を駆け抜ける。

 ミコト・ヤマタは周囲に点在する樹木を警戒し、腰に帯刀した火国刀ひのくにとうを握り締めて駆けていた。不意の敵襲があれば、即座に抜刀して迎撃できるように。

 グレイプニルに繋がれていたグレイグが脱走したことは、既にアーバンへ連絡済み。そして彼がミコトを筆頭とした数名への捜索指示を出している。風牙かぜきば一族と会敵している故、周囲への警戒を怠らぬようにとも。

 地面を滑って勢いを殺し、ミコトは耳を研ぎ澄ますと、残さず音を拾わんと目を閉じる。

 アーバンの言葉を証明する剣戟や破砕音は微か、風に運ばれて漸く掴めるかどうかの塩梅は、そのまま彼我の距離にも通じる。

 そしてグレイグが破壊の渦と化して破滅的な突進を繰り返しているのならば、出鱈目な音が鳴り響いていることは想像に難くない。それこそ、戦場でも不釣り合いな声音が耳を澄ますことなく耳目を震わせている。


「グレイグは素直な足取りで彷徨ってる。だったら音のする方角を目指すはず……」


 まさか単なる脱走のために鎖縛を打ち破ったとは思えず、ならば戦場の付近に存在する可能性が高い。

 視線を僅かに音の方角へと修正し、ミコトは再度身を屈めて前傾姿勢で速度を上げる。

 距離が近づくにつれて音はより鮮明に、明瞭な意味合いを以って鼓膜を震わせた。

 戦いの音色が、死の音が鳴り響く。喧噪に刃を添え、破砕音が魔法の行使にすら理解を及ばせる。

 額に滴る一筋の汗は、少女の焦燥を象徴する。

 自然と駆ける足取りは早くなり、疾風となりて戦場を目指す。

 点在する樹木が詳細の把握を妨げ、聴覚による状況説明のみを強いる。だからこそ、少女は握る拳を一層強め、視線を怜悧に研ぎ澄ます。

 木々を左右に抜けて割り込んだ戦場は、混沌の坩堝であった。

 返り血に濡れ、手に持つ得物を朱に染め上げるフォルク王国軍や火線戦団や先着した歯車旅団。度重なる連戦や混乱によって彼らは一様に消耗し、振るう刃にも翳りが見えていた。

 一方、対峙するは風牙一族の魔狼達。己が爪牙に絶対の信頼を持ち、目にも昏い熱を灯している。

 そして──白色のローブに身を包んだ女性が今正に生命の灯火を散らそうとする刹那。


「ッ……!」


 両足に魔力を注ぎ、ミコトは風と同化する。

 慮外の加速力は大気の壁を打ち破り、瞬きの内に倒れた女性と燃え盛る鉄槌を振り下ろさんと迫る誰かの間に割り込ませる。

 居合の要領で鍔を押し、僅かな隙間を形成して一閃。

 白刃の煌めきが燃え盛る炎熱を食い止める。

 鳴り響く甲高い音は、ミコトに視線を吊り上げさせた。


「ス、レイ……?」

「……お前、はッ……!」


 そして視界に跳び込んだ人物の容姿に、目を見開いて驚愕を浮かべる。

 灰色に染まった髪を乱雑に伸ばして容姿を変えているものの、見間違えるはずがない。真剣に研ぎ澄ました視線も自身へ注がれたことこそ初めてだが、戦場では幾度もなく目撃できたもの。

 そう、黒の森へ強行偵察クエストへ赴く以前ならば、何度でも目撃できた。そして掌から零れ落とした存在。


「スレイ、私だよ……ミコトだよッ!」


 鍔競り合い、声を張り上げるミコトを前にスレイは露骨に機嫌を悪くする。


「だぁかぁらぁ、どいつもコイツもよォ!」


 膂力頼りに振り抜き、少女を容易く振り払う。

 痩身の刃は正面から打ち合うには不向きなのか、ミコトは数歩後退して震える切先をスレイへ注ぐ。やや乱れた呼吸は、直視し難い現実を前にしたが故か。

 尤も記憶にしかない名前を連呼され、流石に億劫な思いを抱いているのはスレイの方。

 自身にはムクロドウジから賜った正式な名前がある。確かにスレイの名から流用したものではあるが、それでも間違いなく自身の名。

 歯軋りを一つ、スレイブは不機嫌さを露わに口を開く。


「俺にはスレイブイッ……?」

「……!」


 不自然な単語が大気を震わし、思わずスレイブは口を抑える。

 頭上に疑問符を浮かべたのは、単に名前を間違えたためではない。

 ムクロドウジから賜った名を間違えたにも関わらず、まるで正鵠を得たが如き整合性を見出したがため。誤った名に、自身でも驚く程の辻褄が通じたのだ。

 被りを振り、スレイブは自身の名を再度高らかに謳おうと試みる。


「違う、俺はスレイッ……!」

『V・ローレライ』

「黙れ、俺はそんな名前じゃねぇッ!」


 音を鳴らしたかも分からぬ名に、スレイブは幻影を振り払うように槌を振るう。錯乱したとも取れる仕草に、眼前のミコトへ意識を注ぐ余地はない。

 そして少女にとっては、一つの確信を深めるに足る仕草でもあった。


「スレイ、もしかして洗脳を……?」

「違うッ、俺はスレイブイ……だからお前じゃねぇッ。お前は引っ込んでろッ!」

『ミコトッ、ミコトッ!』

「黙れ黙れ黙れェッ!」


 頭痛が走る。

 内側から頭蓋を割らん程の激しい衝撃に、スレイは槌を手放して両手で頭を抑えた。それでも一向に激痛は治まらず、むしろ悪化の一途を辿るばかり。

 見開かれた瞳は着物の少女を捉えて離さず、救いの手を伸ばせとばかりに心情が訴える。

 だが、仮に激痛から逃れるために縋るのでならば、自身の側には別の少女がいる。

 黒髪ではなく金髪の。

 着物ではなく扇情的な服装の

 火国刀を用いた流麗な戦いではなく魔法と金棒を用いた乱雑な戦いの。


「なんでそんなことまで知ってんだ、お前はぁッ!」

『だって彼女は俺にとって……!』

「スレイ……!」


 駆け寄ろうと迫るミコトの頭上を、一つの影が覆い隠す。

 迸る殺気に視線を上げ、少女は素早く危険地帯から退避。

 その刹那、大地の悲鳴が周辺を土煙に包み込む。地震を連想させる振動は方々に注目を集めさせ、混戦模様に更なる乱入者が介入したことを予感させた。

 強制的にミコトが視界から消滅し、スレイブは土煙を引き起こした張本人を視認する。

 力任せに金棒を振るい、自身を隠匿する存在を煩わしいとばかりに吹き飛ばす。


「スレイブが世話になったようだな。ここからは私が相手をしようか」

「ムクロ、ドウジ……!」


 鬼族きぞく王国方面部隊大隊長。

 スレイブの視界に跳び込んできたのは、紛うことなく大恩ある少女であった。

 周囲には彼女を運んだ風牙一族の他、ドラゴニュートの一団もまた戦場と化した周辺を腐肉を荒らす渡烏よろしく旋回していた。尤も、彼らにただ死体が提供されるのを待つ謙虚さなどあろう訳がないが。


「悪い、情けない所を……見せた、な」


 乱れた呼吸で冷や汗を嫌に流す少年の姿は、ムクロドウジにとっては未知のそれ。

 血に濡れてこそいるが、一目で返り血に染まっただけだと判別可能なのもまた不可解なものを思わせた。

 一瞥するに留めると、ムクロドウジは眼前の少女へと金棒を向ける。


「見せてる、じゃないのか。ま、先に見せたのは私だ。お互い様としよう」

「助かる、わ……!」


 立っているのがやっとなのか。スレイブは戦場にもかからわず、地面へ座り込んだ。

 索敵など行える状態ではなく、むしろ意識的に視線をムクロドウジへと傾倒させる。彼女の先に立つ少女を見てしまえば、また症状が悪化するに違いないと確信を抱くために。


「貴女は、誰……?」


 ミコトもまた、呼吸を僅かに乱して心臓が早鐘を打つ。

 額から伸びた漆黒の巻き角が、黒の森周辺を往来する商人からの目撃情報が散見される鬼族と一致したがために。

 通常の角とは異なる、むしろ魔族に近い特徴の角を持つのはその中でもただ一人。大将格と目される存在に。


「私は鬼族王国方面軍大隊長ムクロドウジ。お前達の、敵だ」

「鬼族……」

「スレイブを追い詰めるだけの実力者、ならばウォーミングアップにはちょうどいいだろう」


 無動作に金槌を振り下ろし、ムクロドウジは身体を左右に揺らす。

 不意の動きにミコトが不審感を露わに警戒すると、鬼族は先に動く。

 牽制と言わんばかりの一閃が物々しい音を立てて風を巻き込み、身体捌きを以って紙一重で躱した黒髪を激しく揺らす。


「ん……躱したか」

「速いッ……!」

「だったら、更に!」


 加速させるのみ。

 魔力を全身に込め、身体能力を向上。返す金棒に著しい膂力を加える。

 真一文字に振るう一撃を飛び退くことで回避し、ミコトは反撃の刃を一閃。

 元より火国刀は重量で打ち合うための剣とは異なり、切り裂くモノ。それは彼女が握る大業物たる十字極じゅうじきょくにしても同じこと。

 故に肝要なのは、弱所を見抜き正確に切り抜く心眼。

 無造作に得物を振るう亜人種、それも皮膚すら硬度な鬼族となれば狙うは一つ。

 あまねく人種に共通する弱所、即ち首筋。


「ヒハッ、軌道が読みやす……!」


 咄嗟に左腕を白刃の軌道へ挟み込み、刃を防ぐ。常人とは一線を画する鬼族だからこその、種族特性に頼った防御手段。

 故に鋭い痛覚に奥歯を噛み、ムクロドウジは咄嗟に飛び退く。

 視線の片隅に腕を入れれば、一筋の血が白肌を滴り地面へと落ちる。


「血……私が、人間相手に……?」

「貴女には聞きたいことがあります!」

「クッ……!」


 動揺は僅か。

 だが生まれた一瞬の間隙につけ込み、ミコトは一転攻勢へと赴く。

 白刃が煌めき、軌跡が乱舞。幾重にも浮かぶ三日月は致命傷こそ与えられぬものの、ムクロドウジの肉体を少しづつ削っていく。

 重なる擦過傷に苦虫を噛み潰し、鬼族も暴力そのものというべき反撃を振るう。しかし力任せの乱暴な金棒はミコトの身体を傷つけることが叶わず、返しの一撃をより深くするばかり。


「貴女はスレイの何ですかッ」

「何……?」

「彼にスレイブの名を与えて、洗脳して、いったい目的は何なんですか!」

「洗脳……ヒハッ、そんなものをした覚えはないなッ!」


 獰猛な笑みを浮かべ、せめて精神で押されることはないように気力を奮い立たせる。


「ムクロドウジッ!」

「ほらな、洗脳であんな声を上げるものか!」

「洗脳でないなら……ならッ」


 これ以上の否定を、ミコトは口に出すことが憚られた。

 自主的な意志で行ったのならば、どこまでいっても原因が自分にあると自覚しているが故に。スレイを見捨てるという行為に、消極的であれ言葉にしなかったとはいえ肯定したのは紛れもない事実なのだから。

 正当化などできようはずもない。まして、見捨てられた張本人を前にして。

 揺るぎなき事実が、少女の握る刃を曇らせる。


「チョコマカと、動くッ!」

「グッ、ァ……!」


 脇に突き刺さる鈍痛が、ミコトの華奢な体躯をくの字に曲げる。

 勢いに乗って距離を稼ぐも、骨が数本砕ける激痛に着地もままならず。地面へ白刃を突き立てて轍を刻み、漸く静止すれば浅い呼吸を徒に繰り返した。

 左手を脇に添えるも、それで痛苦が取り除かれる訳もなし。

 せめて意志は折れてないと鋭利な視線を注ぐも、肝心の鬼族は金棒の感触に違和感を覚える余裕さえ持ち備えていた。


「布切れの割には感触が薄いな……付与魔法での強化ならどこかに術師がいるはずだが」

「ミコトッ……?!」

「ん、スレイブ……?」


 絹を裂く悲鳴に、少女は視線を自らの部下へと向ける。

 大口を開けたスレイブの表情には俄かに困惑の色が浮かび、自分の発言に対する判別すらついているのか疑問視された。

 そして彼自身も、最早自らの声が何を発しているのか自分でも理解できていない。自身の喉にも関わらず、空気を震わす音を発したのだという自覚が欠如していた。

 何故感情を込め、悲鳴染みた声音を上げてミコトの名を叫んだのか。


「細かい事情は分からんが、ま……そういうことなんだろう」


 一方でムクロドウジは何か合点がいったのか、金棒の先端をミコトへと向けて睥睨する。

 単なる戦闘続行とは異なるものを感じ取ったミコトは訝しげな視線を注ぎ、言葉の続きを無言で促した。


「……?」

「お前はスレイブの未練だ。お前を殺せば、奴は完全に私のものになる」

「ッ……!」

「だからな、死ね」


 右足を引き、半身の姿勢を取るとムクロドウジは足を踏み抜き、加速。

 滑空とすら呼べる跳躍力で距離を詰め、物々しい鉄槌がミコトへ迫る。

 風圧で外套を揺らし、着物がなびく乱舞を紙一重で回避し続け、少女は間隙を伺う。脇腹から訴えてくる激痛は動きに鈍重さを与えるが、なおも鬼族の一撃を貰う愚は犯さない。

 奥歯を噛み締め、ムクロドウジが苛立ちを顔に出した時が好機。


「ハァッ」


 短く息を吐き、裂帛の気迫を解き放った一閃が前のめりとなった敵の額前数ミリを掠め、金糸の髪を数本宙に舞わせた。

 返す刃は金棒に阻まれ、甲高い音が戦場に木霊する。

 鍔競り合おうにも金棒に生えた棘が刃の動きを妨げ、単なる膂力のぶつけ合いを強要。なれば後は種族特性による差異が全てを分かつ。

 再度弾かれ、地を滑るミコト。


「グッ……!」


 脇腹から走る激痛に踏ん張りが効かず、片膝をつく。

 倒すべき敵に対して生まれた隙に、ムクロドウジは喜々として突撃。弓矢を引くが如く引き延ばされた右腕には、人間など容易く血肉へ変換し得る金棒が握られている。

 物々しい音を立てて振り下ろされる、その刹那。


「な、どこから……?」


 横合いから放たれた矢が地面へ突き刺さり、鬼族の直進を遮る。首を振って射手を求めれば、視線の先に立つのはフルフェイスの甲冑に身を包んだ騎士が一人。


「ミコト殿ッ、撤退するぞ!」

「え、でも……?」

「クエストは中止だッ。ドラゴニュートが介入しない内に早く!」

「そん……」


 一瞬。

 ミコトは座り込んでいるスレイブへと視線を注ぐ。

 彼をまた見捨てるのか。身を裂くにも等しい痛苦に再度心を蝕むのか。

 逡巡が、少女の決断を鈍らせる。

 しかし、首を左右に振って思考を追い出すと目尻に涙を浮かべて声を上げた。


「スレイッ、あの時は見捨ててごめんなさいッ……今度こそ、今度こそは貴方を助けるからッ、少しだけ待っててッ!」

「ミコ、ト……」

「まだまだ……言いたいこともある、から!」


 一方的に言葉を吐き出すと、ミコトは視線を撤退しつつある仲間達へと向けて駆け出す。

 逃がすつもりはないと、一人たりとも生きて帰しはしないと獰猛な笑みを浮かべるムクロドウジ。しかし、彼女の進路を遮らんと降り注ぐ矢や魔法の雨が彼我の距離を広げ続ける。

 無理して追撃を仕掛ける程の状況でもなし。

 ムクロドウジが諦め、逃げ出す敵を見送るとスレイブを注視する。

 額に浮かんだ汗こそ収まっているものの、顔色は蒼白で状況が違えば失血死を疑う程。乱れた呼吸も多少は整っているが、いつ再発するか分かったものではない。

 金棒を空間魔法の魔法陣へと収納すると、ムクロドウジは座り込んだ少年の下へと歩み寄った。


「色々あったようだがひとまず、私が命令したことは完遂したようだな。よくやった」

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