第40話『憑依呪法・虚霊纏事怨恨之憎』
人間と獣、二足歩行と四足歩行の間には骨格的な差異が存在する。
人間は知能を発展させる事により、転倒一つで死に瀕しかねない不安定な二足歩行を可能とした。他を圧倒する知能は武具や防具、自らの身を守る手段のみならず、二本の腕を常に自由にしたままの活動を良しとしたのだ。
たとえ、四足で歩む獣よりも敏捷性で劣るとしても。
一世代、二世代程度ならばともかく何千何万と時を紡ぐことによって、差異は骨格にまで及ぶ。
即ち、人間や亜人種は二本の腕をより有効に扱えるように。獣は四足でより効率的に狩りを行えるように。
進化の過程で両者を得ることは叶わない。
片方を得れば、もう片方は失われる。人間や亜人種は四足よりも二足で駆けた方が敏捷性に優れ、獣は前足を他者を切り裂く爪以上に扱えない。
それこそが自然の摂理であり、もしも逆らう者がいるならば心底から自らを信奉している者。自らを狂気的なまでに獣と勘違いしている狂人、否、狂獣とでも呼ぶべき存在。
「ヴヴヴゥッ!」
崩落した大地を駆け抜ける
両腕で地を掴み、魔力を込めて力強く蹴り上げる。連動して両足もまた魔力で底上げした上で踏み抜き、大気の壁を打ち破る。
遮るもののない柔肌には草木によってつけられた無数の擦過傷が蓄積し、研ぎ澄まされた眼光はただひたすらに鋭利。隠密という概念を度外視した唸り声は迫る血の予感に滾り、僅かに目を血走らせた。
烈風は目敏く視線を動かし、比較的地盤の整った樹木を探る。
風牙一族のような嗅覚も、視覚もない。
ならば樹木の頂点より狼牙達の潜伏している地点を探り、迅速に向かうのみ。
目的に適した高さと強度、そして頑強な基盤を兼ね備えた樹木を発見すると、素早く飛び移る。一四年もの歳月を黒の森で風牙一族と共に過ごし、駆け抜けた日々は強靭な指を会得させた。
樹皮に指を食い込ませるなど、造作ない。
一跳びで次の樹皮を掴み、枝に飛び移る。軽業師にも似た身軽さで転々とする烈風は数秒と経たずに頂上へと辿り着き、辺りを見回す。
「ヴゥゥ、敵ハ……!」
どこだ。
端的な答えを紡ぐ間もなく、回答は視界へと飛び込んでくる。
距離は数百メートルと遠い。が、全力を出せば許容範囲であろうか。
狼牙達が注ぐ視線の先には、八人程度の人間。雑多な武装を担ぎ、統一感とはかけ離れた防具に身を包んでいる一団。
彼らを認めた途端、全身の毛が逆立つ。
吐息に灼熱が混じり、沸騰する血液が全身を焼き尽くさんばかりに燃え上がる。自然と目が座り、開かれた口からは涎が一滴、地面へ向けて失墜する。
「──怨」
紡がれる詠唱が、樹木から生気を奪う。
風に揺れる葉が動きを止め、大気の動きすらも淀みを孕む。濃密な鉛を空気に混ぜ合わせたかのような息苦しさは、烈風が垂れ流す魔力に端を成す。
「呪う事の恨む事の憎む事の悍ましき、辺獄に揺蕩う邪魂に冀う」
禍々しき詠唱は一小節ごとに周囲の環境から死を掬い上げ、彼女の周囲に怨霊を徘徊させる。それらは死の象徴とも呼ぶべき烈風の纏う毛皮──皇牙の骸へと集積され、光を宿すことなき眼球へ明かりを灯す。
生ではなく、死により近い蒼炎の灯火を。
「怨霊と成り下がりし憎悪を喰らい、我が空の依代を満たし給え」
叫び、枯れた様相を見せる少女のものに別の声が重なる。
地の底、冥府より現世に響きし呪いの声。歪み果て、軋みを上げる魔の音色が。
跳躍し、反動で周囲が悲鳴を上げる。
引き裂かれた大気の、引き裂かれ泣き叫ぶ樹木の、叩きつけられ撓む大地の。破壊され、なおも微かに生を残していた自然達が断末魔の叫びを上げ、対価に獣は宙を蹴り上げる。
見据えるものは人間のみ。
「我が空の依代へ邪魂を注ぎ、遍く生へ呪いをここに──」
一度別の樹木を足場に再度跳躍し、火矢の如き速度で獣は駆け抜ける。
急速に接近する地面を前に着地動作を取ることもなく、円形の陣を形成する集団の中心へと軌道を修正。
無造作に開かれた口から多量の唾液と血痕を撒き散らし、獣は少女から乖離した声を上げる。
呪詛の名を高らかに。
「
着地の衝撃で土煙が舞い上がり、更に突如死角に出現したことで男達の反応が遅れる。
両爪に纏うは一陣の風と毛皮より漏れ出でし怨霊の魂。
「──風霊混在呪殺痕」
詠唱により一層の存在感を増し、獣は両腕より浮かぶ十爪を振り下す。
確立した刃は強固なセラミックプレートの装甲を突破し、甲冑を纏った男の背中を障子紙の如く引き裂く。反応することも叶わずに膝から崩れ落ちる男の様子を目撃し、左右の男達が振り返ると素早く距離を詰めて接敵。
低い姿勢から迫る斧の切先が陽光に反射し、鈍色の煌めきを放った。
「
横薙ぎの爪へ斧の腹を割り込ませ、獣から振るわれる一撃を防御。
しかし、膂力の差は歴然。
「こ、れは……!」
枝を連想させる華奢な四肢からは想像もつかない暴力的なまでの力が、男の踵を宙へと浮かせる。のみならず、自由になった肉体が重力の楔から解き放たれ、弾かれた鉄球よろしく弾き飛ばされた。
地面を転がる都度に五度。
凹みで浮かび上がった肉体が樹木へと衝突し、遅れて重力に引かれて頭から落下した。速度自体は比較的遅いが、抵抗の類は伺えない。
「なんだ、このガキはッ?!」
「ッ……!」
五時の方角より驚愕に叫ぶ男の声に反応し、獣は瞬時に身を翻す。
隠す努力すらない殺気に手早く体勢を立て直したのか、手に持つ槌の柄を撫でると炎熱を纏い発火。炎の付与魔法によって性能を底上げして迎え撃つ。
鋭斬なる刃の先端が槌の表面と正面から激突し、衝撃に耐え切れず大気が幾度目ともなる悲鳴を上げた。
男も得物を振るったためか、足が浮く事態には繋がらず、代替として地面に亀裂が走る。
「我が名は、
「皇牙……へッ、あの時の生き残りかぁ!」
弾け、再度互いに得物をぶつけ合う。
甲高い音を立て続けに鳴り響かせ、戦端が開かれたと森全体にまで高らかに謳い上げるのは、本来の作戦から乖離している。
暴走する少女の愚行を咎めたのは、遠目で監視していたはずの長。
「烈風、勝手に仕掛けるなッ!」
「
「ッ……」
叱責された烈風はしかして、少女のものとは乖離した重苦しい雰囲気を纏わせた声音で彼を攻め立てる。ともすれば、眼前に立つ男に対してよりも激しい怒気を滲ませて。
怨恨に淀む風爪が槌の柄を挟み、間隙を突く形で空いた左の爪が男の腹部へと突き立てられた。
「がッ……!」
「人間に森諸共に住処を蹂躙され、同胞を惨殺され、なおも保守的な姿勢を貫くとは……愚鈍もここまでくれば一つのあり方か」
「皇、牙……だと……?」
動揺に足を止め、瞳を揺らす狼牙の視線は殊更に時間をかけて鮮血が伝う風爪へと注がれる。
暗色に淀み、形状も烈風の身体で扱うのに適したものへと変貌している。が、風の力場を形成している魔力が放つ匂いは間違いなく皇牙のもの。多少饐えた腐臭が混在しているが、それでも憧憬の中にあった先代の長が放つ魔力と相違ない。
身体こそ、紛うことなく烈風にも関わらず、である。
「貴、様ぁ……余所見とは……!」
思考が狼牙へ割かれた隙に、男は槌を手放すと爪を一層腹部へと食い込ませて距離を詰める。派手に撒き散らされる血痕が周囲を汚し、臓器にまで伝わった影響が口端から血を滴らせた。
武具の間合いではなく拳の間合いへと。
伸ばされた丸太の如き大腕の先は首、華奢な少女のそれを縊り捩じ切るために。
「ヴォアッ!!!」
短い咆哮の刹那。
音を置き去りにして振るわれる二爪が腹部を切り裂き、男だった肉塊を袈裟にばらす。
「貴様も、貴様に付き従う一族も……諸共に滅びて糧となるがいいわ……!」
「糧、だと?」
舞い上がる血雨が毛皮を濡らし、純白に朱を混ぜる。
少女の皮膚を伝う朱には、男のもののみならず少女自身の肉体から滴るものも混在した。
風爪の負荷に耐え切れず剥がれた爪。理外の膂力に膨大な魔力、まるで痛覚などないとばかりに振るわれる猛威に捲れ上がる肉に軋む骨。凡そ烈風の肉体への配慮があれば、まず負わない類の自傷ばかりが蓄積している。
更に言えば、如何に自身の意向が反映されていないとしてもそれを根拠に同胞を糧などと呼ぼう訳がない。
皇牙が、そのような物言いをするはずがない。
「貴様は、誰だ……!」
眉間に眉を寄せ、狼牙は敵意に満ちた眼光で皇牙を自称するナニカを凝視した。
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