第39話『開かれる戦端・呪われた魂』
翌日、黒の森を流れる川の一角。
グレイグによる破壊の奔流は幸か不幸か、川の流れに干渉する軌道を取らなかったことで清涼な音色を今も響かせている。とはいえ住処に少なからず影響を受けた種族も多いのか、澄んだ水を飲みに足を運ぶ者はいない。
代わりに足を運んだのは一人と三体。
白銀の甲冑で足を覆う少年に白の毛並に赤の紋様を刻んだ狼、そして亜麻色のワンポイントが目立つ狼と付き添う同胞。
「スレイブ、お前の言が正しければここでその魔法とやらが使えるのだな?」
「厳密には最大限に、だな。消臭の魔法は媒介として清浄な水を求める。歯車旅団が来てるなら、間違いなく使ってる」
「豪風」
狼牙が呼びかけると、背後に控えていた豪風が前に出る。僅かに鼻を鳴らす音が鼓膜を揺さぶったのは、命令するなという無言のメッセージか。
川岸に接近すると鼻を地面へ擦り合わせ、匂いの痕跡を求める。
違和感を覚えたのか。首を傾げ、豪風はしつこく何度も匂いを嗅ぎ直す。
ややあって振り返った表情は険しく、眉間に皺が寄っていると狼牙には理解できた。
「変に匂わねぇ場所は確かにあんな。ただ、それ以上に泥と混じった汗くせぇ匂いが邪魔だ」
「泥と混じった?」
狼牙が問い直すも、豪風は亜麻色のワンポイントを揺らして唸り声で返した。
「他の意味がなんかあるかよ。何個かに分かれたんじゃねぇか?」
「泥に塗れた、か……」
「心当たりが、スレイブ?」
「いや……」
動物が身体に付着した寄生虫を洗い落とすべく泥や水を浴びるという話ならば、どこかで聞いた覚えがある。しかし、どうしてその話へ突入したのか、導入部分が霞に塗れたかのように思い出せない。
スレイブと成り果てる前、スレイとしての記憶に支障が生まれる時。
そこへ密接に関わってくるのは、決まって顔も思い出せない少女。親しげに話しかけ、快活にスレイの名を呼ぶ少女のことだけが、綺麗に忘却の海へ沈んでしまっている。
記憶を如何に掘り込んでみても、頭痛が走る程度で望んだ成果は微塵も現れない。
故にスレイブは頭に当てた手を離すと、額に浮かんだ水玉を拭う。
「全く覚えがないな」
「そうか」
落胆の色は見せずとも、狼牙の顔色は僅かに渋っている。
人間としての記憶を持つスレイブならば心当たりがあるのでは、と期待していたが望む成果は得られなかった。
何度か汗を拭うと、少年は狼牙の背を下りて首を左右に振る。
早々に泥の在り処を発見すると歩みを進める。途中、豪風の敵意を剥き出しにした鋭利な眼差しが身体に突き刺さったものの、意に介する必要もない。
泥中に何か手がかりはないかと掴み、持ち上げて中身を確かめる。
動物ならば雨水のように自然な形で生まれた泥を使用する。自ら川辺から掬い上げて土と混合するような手口は、人間や亜人種が行う手口である。
「豪風、泥から痕跡は拾えるか?」
「んだよ、こんな汗くせぇのを嗅げってか?」
「こっちはそんなに鼻が良くねぇんだ、お前らに頼るしかねぇんだよ」
彼の言葉に納得したのか。嫌々といった姿勢こそ変わらないが、豪風は鼻を近づけて痕跡を辿ろうと匂いを嗅ぐ。
風牙一族の表情など、人間と鬼族の混血体であるスレイブには微塵も分からない。
が、不自然に釣り合った頬や眉間に寄った視線などが豪風の不快感をまざまざと見せつけてくる。もしも口を開かせれば、延々と呪詛が紡がれていただろうと確信できるほどに。
ややあり、豪風が視線をスレイブへ向ける。
「こんなくっせぇ匂いが泥に塗れるだけで誤魔化せるかよ……すぐに、とはいかねぇが、探れはするだろぉよ、クソが」
吐き捨てる語尾の不満が、泥そのものだけではないと目で訴える豪風。眼前の風牙一族から注がれる不満から視線を逸らすと、スレイブは狼牙と目を合わせた。
「どうする狼牙。気を張って動けば、先手が取れるんじゃねぇのか」
「いや、目的も分からん内に手を出すのは悪手であろう。今は監視に留めるつもりだ」
「また監視ッ。んな後ろ向きだから舐められてんじゃねぇのか、住処も滅茶苦茶にされてんだぞッ!」
保守的な、ともすれば及び腰とも取れる狼牙の姿勢に反意を剥き出しにしたのは豪風。
疾風ほど過激ではないものの、彼女もまた過激派に寄った思想を有している。
そも、先代の長たる皇牙を筆頭として多数の同胞を葬り去られ、なおも穏健な姿勢を維持できる方が異端なのだ。ある意味では彼女の姿勢こそが正しく、狼牙の方が異端。
噛みつき、眼光を研ぎ澄まして喉を鳴らす仲間へ返す現長の言葉は、穏健派を束ねるに相応しく。
「アレはグレイグとやらの独断と見ていいだろう。辺りに匂いを撒き散らし、敵意を隠そうともしない……
なまじ匂いを隠す連中の手口を見てこそ、奴の異端さが際立つというもの」
「だったら、そのグレイグだけでも潰すべきだろッ。森に手を出しゃあ、どうなんのか。それを教えてやるいい機会じゃねぇのか?!」
唾のかかる距離で怒気を剥き出しにする豪風は、よく言えば慎重な狼牙の姿勢を悪しと解釈し、毛を逆立てた。一方で狼牙もまた眉間に皺を寄せ、長の証たる赤の模様を歪める。
一触即発。僅かに踏み出せば実際に牙を向けかねない両者の間へ割り込み、スレイブは互いへ静止を訴えた。
「おいおい、部外者の前でバチバチな様を見せんなよ。二人とも。
歯車旅団が関わってるなら、暴走したグレイグは間違いなくどっかで謹慎状態だ。まずは他の動ける連中からなんとかすべきだ」
「おっ、少しは話が分かるみてぇだな」
「戦え、と?」
狼牙の訝しむ姿勢を他所に、スレイブは思案を纏めて口を開く。
長として一族を纏める彼には悪いが、スレイブも異変に対して及び腰な姿勢を取る予定は微塵もない。
まして複数に部隊を分け、戦力を分散している現状は攻勢に出る絶好の好機である。仮にムクロドウジが同行していれば、むしろ思案の一つもなく過激派に迎合する彼女を宥める側に回っていただろうが。
そりゃ考えなしに攻める場合の話か。
口角を吊り上げ、スレイブは口を開く。
「規模が分かんねぇが、幾つかに分かれて活動してんだ。少し頭数を揃えて、機を見て奇襲を仕掛ける。
各個撃破を意識すれば、簡単に撤退まで追い込めるはずだ」
「ふむ……」
彼の言葉を聞き、狼牙は思案すべく喉を鳴らす。
無策であった豪風とは異なり、スレイブの言葉には根拠があった。たとえ彼女の鋭利な眼差しを浴びても、無碍にする訳にはいかない。
川のせせらぎが、僅かに残った木々の葉が、安寧と安らぎを聞く者に与える。
大きく息を吐き、狼牙は結論を述べた。
「
「……了解」
沈黙を貫いていた風牙一族の一員、灰の体毛を有する早牙は身を翻すと、長の命を待ち侘びたかの如く駆け出す。数秒とかからず視界から消え失せた彼の後を追うように、スレイブ達一行も匂いの後を追跡する。
選択したのは、泥と汗に塗れた匂い。荒々しき暴虐の徒へと通じるものであった。
「調査っつってもよー、いったい俺たちゃ何すりゃいいんだ?」
荒れ果て、変わり果てた黒の森を巡回する一団が一つ。
ギルド単位で何らかの統一感が自然と形成されがちなギルドにあり、彼らの一団は異質なまでに雑多。戦場で拾った傷だらけの防具をそのまま使用している男、防具の一つも身につけぬ軽装の男、あるいはセラミックプレートで全身を包んだ男。
防具が雑多ならば武具も雑多。
斧や槌、破砕球といった得物を引き摺り、天然の道標を残す集団は下卑た笑みを浮かべて歩みを進める。
「知らねーよ。俺はてっきり魔物共を狩りまくってりゃいいって思ってたんだぜ?」
「テメェはいっつもそれだな。殺す以外に考えるこたーねぇのかよ?」
「そうだなー……壊す?」
熟慮した男の浅慮そのものな回答に下品な笑いな木霊する。
彼らの様子を倒木の奥から観察するスレイブ達に気づいている様子はない。隙だらけと呼ぶに相応しき状況でこそあるが、彼ら一人一人の練度は決して馬鹿にできるものではない。
傍目から見ても鍛えられた体躯が伺えた。
軽装に身を包んだ男であっても丸太と形容するが適切な腕など、首の骨を容易くへし折れそうな程である。
「粗暴であっても実力はありそう、だな」
少なくとも、スレイブが素手で挑むには不利が過ぎる。混血体としてのアドバンテージを考慮しても四割が精々といった所か。
目測で戦力差を推測するも、あくまで単体の話。
しかし実際は複数。一目しただけで八人は固まって周囲を探索している。否、無為に動き回っているだけにも思える無軌道さだが、下手に距離を詰めれば容易に気づくことができようか。
視線という点で被っている様子はなく、地味に厄介さを上昇修正。
「まだ頭数が揃う気配はねぇな」
「……だな」
スレイブの呼びかけに応じた狼牙は、深い頷きと共に声を返す。
相手が油断ならないと判断できた以上、先の作戦通りまずは頭数を揃えることから始めるべきであろう。
幸いにも早牙には命令を下した後、時が経てば過激派を筆頭に戦力が集まるはず。戦力さえ整えば、後は攻勢に出る機会を伺うのみ。
「我が
「ッ……!」
途端、空気が変質する。
粘度の高い液体を喉に詰まらせるかのような感触。先程まで穏やかだった風の流れに怖気が混じり、死の縁を連想させる極寒がスレイブの足を縫いつける。
変質が一団にまで伝わったのか。
彼らも足を止め、奇襲に備えた警戒に視線を素早く左右させる。各々の武具を構え、円形を軸にした隊形は全方位に死角なく先手を打つべく。
樹齢百年はあろうかという大木が激しく揺れ、頂上よりナニカが射出される。
己が身を火矢の如く加速させたナニカは周囲に怨霊を纏い、風牙一族の毛皮に邪な光を宿す。生気なき目に禍々しい色味を灯す中、詠唱の締め括りとして高らかにその名を叫んだ。
「
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