第3話

 奇妙な感覚があった。

 否、そもそも感覚があるということ自体が奇妙である。

 スレイ・V・ローレライは霞みがかった思考を回して、自ら考えたことに突っ込みを入れる。

 少女が叫ぶ中、仲間に見捨てられたことは覚えている。

 そこから湧き立っていたはずの力が抜けたのも、覚えている。そして後頭部に強烈な鈍痛が走った直後、他の五感全てが機能停止に陥った。

 何も見えず。

 何も聞こえず。

 何も感じず。

 何も匂わず。

 何の味もしない。

 これが死なのか、と思慮する猶予すらない一撃がスレイの存在を現世から消し去り、意識を永遠の無へと送り込んだはず。

 しかし、しかしならば何故。

 思考することができる。

 考え、肉体がないという認識を抱ける。

 或いは、セイヴァ教が語る死後の世界の真実がこれなのか。と結論を出すことも可能であったが、それは浅慮な気がしたのもまた事実。むしろ、ここから身体の端から腐り落ちるように、徐々に纏まりのあることを思考すら出来なくなっていく過渡期の中と考えた方がしっくりくるのは、彼の性格からだろうか。

 思考を少し止めると、脳裏。というのも変な話であるが実際に他に形容すべき表現も浮かばない。

 自らの学の無さを人知れず恥じ、取り留めのないことを考える。

 死の直前、自身は見捨てられた。

 同行した国軍は壊滅状態、ギルドメンバーも新人が大怪我を負って戦線離脱した以上は撤退の判断は合理的。そして、撤退するかどうか瀬戸際の状況で鬼族きぞくに捕まっていたスレイを待っていては、それこそ全滅の憂き目もあった。

 それは否定しようもない事実。

 否定するのは、仲間に自分と心中してくれと宣言するようなもの。

 だが、それを傲慢と切り捨てる一方で宣言したかったと心のどこかで思うのもまた、否定し難い事実。

 不意に、思考を遮るかのように、無ばかりの空間に一筋の光が灯る。

 鬱陶しく思えても目蓋を閉じることも叶わず、目を背けるなども不可能。否応なく剥き出しの魂を焼く光は、常に頭上に浮かぶ太陽を連想させた。

 やがて光は鮮明な輪郭を帯び、そこに一人の少女を映し出す。

 色白の肌。悪戯っぽく出された舌に喜色を露わにする口元。時折チラつく髪の色は白か、興味深そうに見つめる真紅の瞳は、奇しくも彼を死へ追いやった鬼族の皮膚にも似ている。

 そして右側の額には白磁を思わせる肌とは対照的な、漆黒の巻き角。

 魔族。

 脳裏に一つの可能性が浮かぶものの、魂だけのスレイに抵抗する術はない。

 何か手段はないかと模索するスレイを他所に、鮮明な色を帯びた光の先、少女の瞳から何かが零れる。

 一瞬涙かと疑ったそれは、淡い光。

 風に揺れるかのようにゆっくり、しかし確かな足取りで光の群れはスレイを目指す。かつて少女から聞いたタンポポという花の話を思い出すが、ここでスレイは一つの疑問に思い至った。

 少女とは、誰だ?

 眼前に存在する光の発生源とは異なる、霞みがかった靄の先にいるはずの少女。妄想の産物などではない、確かな存在のはずなのに。

 記憶のどこを漁っても肝心要の少女とやらが欠片も思い当たらない。

 どんな容姿か。

 どんな声か。

 どんな性格か。

 何も思い出せないスレイの下に光が到達し。

 世界が、弾けた。



 重い、鉛の如く重い目蓋をゆっくり、時間をかけて開く。

 

「ん、ぁ……」


 視界が一瞬、眩いばかりの光に包まれて何度か瞬きをすれば光に慣れた眼球が調整する。

 薄暗い洞窟であった。周囲には何鬼かの鬼族がスレイを訝しげに観察していた。その裏ではおそらく戦死した国軍の兵士だった死体が淡々と片づけられている。


「やった、成功だ!」


 そして眼前には、先程見た少女と思しき存在が両腕を上げて歓喜を口にしていた。

 過激かつ挑発的な服装から受ける印象とは一八〇度異なる態度で。

 無邪気に。無垢に。

 まるで子供のように脇目も振らずにはしゃいでいる。


「私のッ。私だけの部下ッ。やったッ、やったやった!!!」

「なんだ、これ……?」


 眼前の少女を一旦置いておけば、スレイがいるのは確かに戦死したはずの洞口。

 事実、何鬼かはスレイの姿を見るや表情を歪めている辺り、同胞を討った事実が歪められている様子もなし。

 裸足と思われる足裏にも生気を感じない、岩肌の冷たさが伝播する。洞窟内部を吹き抜ける一陣の風もまた、スレイの肌を撫で回しては体温を奪っていく。

 右腕を掲げ、視界に掌を映す。

 小指から順に曲げて拳を作り、そして反対に開く。

 何度か繰り返してみるも、数刻前まで当たり前だと考えていた生の実感を色濃くするばかり。


「生き、返った……?」


 呂律が回らない、というよりも事実の認識が追いつかないといった様子で言葉を紡ぐ。

 そんな呟きを敏感に感じ取ったのか、少女は咳払いを一つすると、先程までの無邪気な態度から一変した。


「いいや、お前に施したのは混血体キメラの儀式だ。その様子だと、成功のようだな」

「混血体……何故?」


 スレイの疑問はご尤も。

 生命に直接干渉する魔法の多分に漏れず、混血体もまた術者に相応のリスクを要する。

 実際、少女の頬には幾つもの汗が玉を成していた。歓喜を表に出したからかの最大要因はともかく、肩で息をしているのも儀式が無関係とはいうまい。

 しかし、スレイの質問へ真面目に返答する気はないのか。

 少女は大仰に両手を広げた。


「そんなことはどうでもいいだろう。他の部下には既に話しているしな。

 大事なことは、このムクロドウジがお前を混血体にしたということ。つまりは、命の恩人だ」

「……恩人が仇敵の上司ってことか。ま、恩人であることは変わりねぇか」


 複雑な心境はあるが、彼女が恩人であることもまた真理。

 渋い顔で考え込むも、やがて観念したのか。スレイは片膝を立てて頭を垂れる。当然、対象はムクロドウジ。

 国王相手には一般的な作法ではあるが、鬼族に通じるかは運次第。


「ひとまず……これが人間にとっての忠誠の示し方、ということで納得しといてくれ」

「作法、ということか。なるほどな。

 先程も名乗ったが、私はムクロドウジ。父アバラドウジの命を受け、鬼族の王国方面部隊大隊長の地位についている」


 こういう時は手の甲を出すのが作法だったか。

 情報源はどこなのか。ムクロドウジは右手をスレイの眼前へと突き出すと、わざとらしく指先の力を抜いた。

 地面を指差す手の甲は接吻の時を今か今かと待ち侘びる。

 素直な感想を述べれば、スレイは微かな羞恥の感情を抱いていた。頬を僅かに上気させ、視線は手の甲を超えてムクロドウジ自身へ注がれている。

 彼女が純然たる鬼族の容姿をしていれば、或いは気恥ずかしさも紛れたかもしれない。

 だが、少女は周囲で清掃活動に従事している鬼達と比較して一回り以上低い体躯でスレイを見下ろす。それは彼自身と比較しても頭一つ分は低い身長を意味し、伸ばされた白磁の腕も強靭な鬼の印象とは乖離した華奢な代物。

 額から伸びた漆黒の巻き角と口から覗く獰猛な犬歯だけが、彼女が鬼の一員だと証明している状況である。


「どうした、もしかして作法を間違えていたか?」

「いや……まぁ、間違ってはないんだよなぁ。うん」


 頬を掻き、意を決するとスレイは右手に手を添え、口元へと近づける。

 遥か過去、どこかで似た行った類似の行為が脳裏を過る。が、肝心の顔だけは陽光に遮られて覗くことが叶わない。もしくは記憶の欠落を補うための編集か。

 どちらにせよ構わないし、いずれにしても関係ない。


「俺はスレイ……スレイ・V……なんだったっけ、この後は」

「よくスレイの部分だけでも覚えていたな」

「あぁ、これはよく覚えてる。誰かが、その名で呼んでいたからな」


 何度も何度も執拗に、繰り返し叫ばれた記憶が頭にこびりついていた。

 スレイ、スレイ、スレイと。

 顔も思い出せない誰かが何度も繰り返した記憶だけが、偽りの記憶を植えつけられた結果ではないと証明する。

 故にこそ、ムクロドウジへ捧ぐ忠誠心に二心なし。

 記憶の残滓が恩義を果たさずにいることこそが問題だと、声高に主張するがために。

 一方で少女は左手を顎に当てて、首を傾げる。

 彼の忠誠に対しての懐疑ではなく、自らの所有物となった少年への名について。


「……全部を覚えている訳でもないのだろう。

 ならば折角だ、少し弄るか……そうだな、スレイでVなら、繋げてスレイブとか?」

「何故変える必要が?」

「嫉妬と……そうだな、名実共にお前を私のものとするため」

「なんだそら」


 ムクロドウジの子供染みた改名理由に呆れた声を返すと、スレイ改めスレイブは意識を彼女の右手へと移す。

 呆れたためか、少しでも会話を挟んだためか。

 少し前まで抱いていた緊張の糸は適切に緩んでいた。

 口づけの抵抗を無くす程度には。

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